第5話 劇団紹介


誰もいない職員室が好きだ。自分の足音や椅子に座る音を遠慮なく響かせられる。

谷津倉はこぼしたコーラを拭き終わると、パソコンを開いた。家でいつもそうしているように足を組む。

動画サイトを開き、虹色メロディーを検索した。

ファンがライブを撮影したものが多く、ブレているものがほとんどだった。

真ん中の赤い服を着ているのが萩原美生だ。

『みんな応援ありがとー!最後の曲です!』

甲高い声で叫んでいる。小さい体が動くたびに、スカートと長い髪が揺れた。ポップな曲が職員室に流れる。

「先生、何を見ているの?」

生徒が画面越しにこちらを覗いた。

「えっ」

入室していたことに気づかなかった。生徒は3人ほどいた。

急いで画面を閉じると、美生の姿も消えた。

帰らなきゃ駄目じゃないか、と言おうとした時だった。

「みんな、受け取ったら早く帰りなさいね」

井上だった。プリントを数枚、生徒たちに渡す。どうやら井上が生徒たちを引き連れて職員室に入ってきたらしい。生徒たちは素直に返事をすると、職員室を出ようとする。

谷津倉だったらこうはいかない。

「あ、3年の先輩だ」

生徒の1人が窓の外を見た。如月月子が校門を出るところだった。

「本当だ、あの先輩目立つよね」

「ね、3年なのに受験どうするんだろう」

「無理でしょ」

3人は笑いながら出て行った。下級生のあいだでも、月子は目立つため認知されていた。

如月月子は塾に向かったのだろうか。1年後、黒田だけでなく今の生徒達を見返す月子を想像した。

「さっきの曲、虹メですよね?いいですよね、虹色メロディー」

井上がうっとりとした。そうだった、この人はファンだった。

「アイドルに詳しいんですか?」

「広く浅く、ですかね。各グループ、2曲ぐらいしか分かりません」

本当にファンだろうか。

「あとそれも読み始めたんですね」

谷津倉の机に上に、海沢駿の本があった。昨日買ったものを学校に持ってきたのだ。

「はい、昨日の話を聞いて気になってしまったので」

「嬉しいな、本とアイドルが話せる人ってあんまりいないから、谷津倉先生がハマることを祈ります」

井上はそう言いながら両手で顔を覆う。おじさんの皮を被った可愛い人だ。僕も代わりにオススメの映画でも教えようかな、と思った。

井上と本の話ができる、黒田の立場をいつの間にか谷津倉がなろうとしていた。

「そういえば、さっきの子達は何年生ですか?」

「1年生ですよ。松本が休んだ授業のプリントを集めては届けているそうです」

松本あかりは嫌われているって聞いていたが、友達はいるらしい。

「松本って松本あかりのことですよね。黒田先生って松本あかりのことをどう思っていたんですかね」

向こうから松本あかりを話に出してくれて助かった。

「黒田ですか。扱いやすい生徒だって言っていましたね。他の生徒への言伝も頼みやすかったみたいです」

やはり、先生と生徒の仲だろうか。噂で勝手に盛り上がっているだけだろうか。

「なるほど。では、なぜ松本あかりは学校へ来ないのでしょう」

「体調不良って聞きましたけど、メンタル面かもしれません。教頭が前に言っていましたね」

教頭が言っていた。生徒のメンタルが大切です、と。遠い昔に発言したように思えた。


          *


変な男に気がついたのは、井上と職員用駐車場に向かっているときだ。

作業着姿の、腹が出っ張っている中年だった。どこかで見たことがある気がする。

最初は作業の人かと思ったが、2人を見ながらさり気なく距離を詰めてくる。折木を拾ってはまた捨て、作業をしている風を装っていた。

不審者だと直感したが、確実な証拠が出るまで静かに様子を伺うことにした。

「あ、しまった。今朝は妻に送ってもらったので、車がなくて。私は電車で帰りますね」

自分がいつも停めている場所で、井上は嘆いた。

送って行きましょうか、と誘おうとしたが、あいにく自分の軽自動車は荷物でいっぱいだった。運転席1人分しか空いていない。

それに今、車に乗り込むと男に自分の車を紹介しているようなものだ。

井上を駅まで送るふりをして、男の様子を見ることにした。何なら駅前の交番に突き出してもいい。男は、前髪をいじったり肩を回したり、1人で忙しなく動いていた。



「美生ちゃんも可愛いけど、奈々ちゃんも可愛いくて。黄色担当の子ですけど、」

虹色メロディーの話で、駅まで来てしまった。

井上は親切に画像を見せながら説明してくれている。

まだ男はついてきている。

谷津倉は男を観察していて、気づいたことがある。男は井上を狙っているようなのだ。

井上の歩いたあとを、足跡を合わせるように重ねて歩き、立ち止まったところで同じように立ち止まる。そして、やはり谷津倉自身が男をどこかで見たことがある。

在り来りな顔立ちなので他人の空似かもしれない。しかし最近見たことがある、と確信していた。

「では、ここで。駅まで送ってくださってありがとうございます。谷津倉先生も帰り道に気をつけて」

気をつけるのはあなたです、と思った。

このまま知らないふりをして、もし井上に何かあったら。最悪の場合を想像して立ち止まった。



「何か用ですか」

井上と別れて、男が谷津倉の横を通り過ぎようとしたときだ。肩を掴み、囁くように聞いてみた。男の顔を至近距離で見てやっと気づく。

いつか、美生と宮田でファミレスに行った時に隣に座ってきた男だ。あの時一緒にいた少女はいなかった。

「あ、谷津倉先生」

そう言うと慌てて口を閉じた。

「何で僕の名前を知っているんですか。場合によっては交番に突き出しますよ」

目と鼻の先に交番がある。電気は点いているが人の気配はなかった。

「違います、すいません。あの、事情があってですね、」

明らかに慌てていた。谷津倉は深呼吸して冷静になると、腕を離した。

「納得のいく説明をしてください」

「はい、あの、僕には時間がなかったんです。だから直接本人を見て勉強をしようと思って、」

趣旨のない説明で、話の全貌が見えなかった。

谷津倉はイライラする。

「最初から説明をしてください」

「はい、すいません」

男は幸村と名乗り、最初から話し始めた。

しばらく聞いていて気づいたが、幸村は話し上手で、身振り手振りもあった。作業着から勝手に職業を限定していたが、違う職かもしれない。

幸村の話はこうだった。

近々、自分の所属する劇団の劇に出るが、本職もあってなかなか稽古に参加できない。

だから自分の演じる元ネタになった人の観察をしよう、と学校まで来たのだった。要するに役作りのためだった。

「元ネタって、あなたは井上先生を演じるつもりですか」

「はい、事件の重要参考人なので。欠かせない人物です」

絶句した。うちの高校の事件を、劇にするなんて。発想した人がいることにも驚いた。

谷津倉の中で、小さい子どもたちが画用紙のような背景に囲まれ、面白おかしく事件を再現している。それを見ている大人が指を指して笑っている。

あってはならないことだ。学校関係者として止めなければならない。

「どこの劇団ですか?見学に行ってみたいです」

まずは根城に行かなくては。責任者を引っ張り出し、校長に連絡をして話し合いの場を設けなければいけない。なんなら校長が出る前に、自分1人で止めるべきだ。

幸村は愛想よく案内をしてくれた。笑うと目が線になり、丸い顔が熊を連想させた。


          *


中野駅は、近山高校の最寄りから乗り換えを1回して、10分ほどで着く。

名前は有名だが乗り換えでしか使用したことがない場所に、谷津倉は初めて降り立った。

「こっちの、賑わっている方です」

改札を出ると大きい建物が建ち並んでいたが、日が沈んでいたので暗くてよくわからなかった。

幸村の後に着いていく。イルミネーションが飾られている坂道、小さいスーパーマーケット。ついには住宅街に入ってしまい、どこに連れて行かれるのか不安になり始めたときだった。

「ここです。みんなはレンガ劇場って呼んでいますけど、中野有明芸術劇場が正式名称です」

見上げるほど大きい建物だった。暗いのでよくわからないが。地下へ続く階段を降り、大きな扉を開ける。戻ったよー、と男が中に声を掛けた。

暖かい空気と独特な匂いが谷津倉を迎え入れる。ロビーではシャンデリアがカーペットを照らしていた。カーペットは分厚く踏みしめると少し沈んだ。毛玉のようなものが気になった。

話し合っていたらしく、会話が途切れ、数人が一気にこちらを見る。

「もうミーティングが始まっていたのか。遅れてしまって申し訳ない」

幸村は首を竦めた。

1人が、ふらっと立ち上がった。男と同じ作業着を着ていた。

「誰だよ!」

腹に響く大声だった。もちろん、谷津倉に向かって放った言葉だ。

「酒井さん煩い。お客さんに失礼でしょうが」

隣にいた桜井が軽く小突いた。

「お客さんじゃないよお、近山高校の谷津倉先生だよ。みんなわかるでしょ」

幸村の紹介に合わせて、谷津倉はフラフラと前へ歩み出た。

みんなわかるってことは、情報提供者として認知されているのだろうか。

「むーさん、連れて来て大丈夫なの?水樹の指示?」

女性が、前のめりになって聞いて来た。巻いてある髪の毛が暖房の風で揺れている。

「ダメだったかな?でも早めに顔合わせしたほうがいいかなって」

「確かにね。こっちの手の内を明かさず話だけ聞いているのは失礼な話よね」

「そうそう。谷津倉先生、僕のこと知らなかったみたい。危うく警察に突き出されるところだったよ」

桜井の表情が明るくなる。詳しく聞きたい、と騒ぎだしたので簡単に説明した。

「待って、ちょっと我慢ならないわ。こっちは横暴すぎるスケジュールに答えてあげているのに全然説明をしていなかったのね。水樹のやつ、実話に基づくなら取材はちゃんとしてって言ったのに」

女性がシャンデリアに向かって悪態をついた。そこに水樹という人がいるかのようだ。

女性は堀と名乗った。職業はメイクアップアーティストだ。衣装の準備もこの人が担当していた。

「ちなみに既婚者なので相手にできないの、ごめんね」

左手の薬指を見せ、ウインクをした。

「そうだよ、堀さんは計算に計算を重ね、医者と結婚したんだ。アタックするなら医者以上の稼ぎを出してからな」

「黙りなさいね」

桜井が小さく悲鳴をあげた。見えないところで制裁が加えられたらしい。

「あと、この子どもは音響の桜井。自称バンドマンで、世間でいうサブカル男よ。こっちの目つきが悪いのは照明の酒井。見た目はアレだけど腕が確かで、こっちの世界では有名なのよ。仕事をいくつか掛け持ちしているしね」

次に、幸村を紹介する。

「この人は幸村さん。私はムーさんって呼んでいるわ。幸村さんはチケット会社に務めていたけど役者の人手不足で入ってくれて、そのまま居てくれているの。ムーさんも既婚者よね?」

幸村は頷きながら、指輪はつけませんけどね、と言った。

「まあこんなもんかな、あと端っこで作業しているのはバイトの子達。専門学校が多いかな。あ、」

堀は手を叩いた。谷津倉が注意してよく見ると、カウンターで3人ほどが、パンフレットを整理していた。こちらを一瞥した後、また作業を続ける。派手な髪色の子もいた。

「岡田と鈴木ちゃんは?」

「岡田はバイトで遅れるっす。鈴木ちゃんはもうすぐ来ます」

桜井が、スマホを見ながら答えた。

「あと2人、役者がいるの。うちの看板俳優と女優がね。岡田は桜井みたいに生意気な子どもで、鈴木ちゃんはまだ学生だけど良い子よ。以上、劇団赤い夢の紹介でした」

堀が両手を広げ、首を傾ける。

谷津倉はみんなの顔と名前を叩き込んだ。職業柄、人の顔と名前はすぐ覚えられる。

「本来なら初めに美生が説明しなきゃだめなのよ。水樹と美生で、学校にアポを取ってね」

そこで思い出したように言った。

「水樹を忘れていたわ。うちの演出家様。今回は脚本も書いているけどね。これが面倒臭い奴でね、助手がどんどん辞めていくのよ。でも、すごい賞を最年少で獲って、業界から注目されているのよ」

「鮮烈なデビューのせいで今は鳴かず飛ばずだけどな」

酒井の茶々を堀は聞き流す。可愛いでしょ、とスマホの画面を見せられる。

「高校生の水樹よ。ある評論家が娘の文化祭に遊びに行って、そこで観た演劇部の公演が凄かったらしいの。その演出をしていたのが当時高校生の水樹ってわけ。で、話題が話題を呼び、近くの劇場で上演が決まって。夢があるでしょう、高校生が大人顔負けの劇をするんですもの」

水樹。苗字か名前かわからない名前だが、画像の中の彼は、涼しげに笑っていた。

「あの女優や俳優だって、この演劇部がきっかけで事務所に所属したのよ」

聞いたことがある芸能人だった。それほどすごかったのか。

「高校を卒業して、水樹は自身の劇団を立ち上げるわ。それがここ、赤い夢。でも、演劇部が奇跡的なメンバーだっただけで、今はこんなに小さいのよね」

「まあね、俺だって水樹さんの経歴目当てで入ったし」

今度は桜井が入ってきた。

「あながち間違っていないわよ。この世界では相手の経歴や肩書きと会話している人間ばかりだから」

なんとなく悲しいと思った。堀はいきなり声のトーンを落とした。

「ごめんなさいね、本来なら正式な手順を踏んで、最初に紹介するべきだったのに。こんな理不尽な話は断ってしまって大丈夫よ、と言いたいところだけど……。もうチケットを売っているの。なんなら関係者にも観に来るよう声も掛けてしまっていて。これで中止になったらお金は勿論、信頼を失ってしまうわ。そうしたら水樹はもう業界で生きていけないわね」

1人の今後が掛かっている、賭けだった。

水樹の経歴から話されたら情が移り、断りづらい。ここまでの話の流れは堀の計算だったかもしれない。

「大丈夫、絶対に事件を元にしたなんて明記しないし、何より事件関係者の尊厳とプライベートは守るから」

「見苦しいぞ、堀」

酒井が睨んでいた。震え上がるほどの迫力だが、堀は物怖じしない。

「何よ、だったらあんたが説明しなさいよ。私だってひどい話だと思うわ。でももう引き返せないのよ」

「そうです、乗りかかった船です」

意外にも桜井は堀の味方だった。

「この先生は今の話を聞いて頷くしかないだろうが。水樹はみんなの為じゃなくて美生の為に動いてるんだ、それぐらい察しているだろ。この劇団は美生の踏み台なんだよ。俺はまだいいよ、他の仕事があるから食いっぱぐれることはないからな。でも岡田や鈴木はどうなる?この劇団に賭けている奴だっているんだよ!」

言い切ると、酒井はソファに座り込んでタバコを取り出した。バイトの子たちが息を潜めてこちらの様子を伺っている。

桜井は無言で近づくと、タバコを奪い取った。

「ここは禁煙です!」

彼の叫び声も響いた。

「酒井さんの言い分もわかります。美生のことだってわかっています。でもね、あんたプロでしょう。1度引き受けた仕事なら最後まで通さんかい。自分の流儀に反するなら最初から承諾をするな。あんたはこの劇団の人間じゃないでしょうが、だったら郷に従えよ」

谷津倉は先ほどとは違う怖さを見た。

この劇団は、海底のように深いところにある気がする。

酒井は固まった。まさか桜井が切れると思わなかっただろう。

「遅れました!」

ロビーへ、1人の少女が駆け込んできた。扉が重たいらしく悪戦苦闘している。見かねた幸村が開けてあげた。

「ああ、ありがとうございますムーさん。ただ今、到着致しました」

ファミレスで幸村と一緒にいた子だ。音楽学校だと勝手に思っていた、あの子だ。

鈴木もまた、役作りのため学校の周りをうろちょろしていたのだった。あの時と雰囲気がガラリと変わり、申し訳なさそうにオドオドしている。

「違うんですよ、電車が遅延してて。いや本当に」

そこまで話し、ふと空気の悪さを感じとったのか静かになった。

座り込んだ酒井、見下げる桜井。遠目から見る堀と幸村。そして知らない男。

そこへまたもや第三者が現れる。

「鈴木―!お前、歩くの早すぎ。改札で見つけたのにまさかの全力疾走か。おかげで追いつけなかったぜ」

男が入ってきた。

一瞬、水樹かと思うほど雰囲気が似ていた。多分、岡田だろう。

「岡田さん、一緒の電車だったんですね!電車、遅延していましたよね」

念を押す鈴木を、岡田は不思議そうに見つめる。そしてこちらは察しが良かった。

「なんですかこの空気は。そしてあなた誰ですか」

谷津倉は申し訳なさそうに幸村の影に入った。幸村のそばは、ひどく安心した。

幸村は喉を鳴らすと話し始めた。

「こちらは谷津倉先生だよ。例の事件で、美生ちゃんに協力をしてくれている。で、ちゃんと学校に話が通っていなかったことが発覚して、そもそも実話を劇にするのはどうなのかって話になって、酒井さんが怒って桜井さんがキレて、現在に至ります」

微妙にずれた観点なのは、2人の役者のためだろう。酒井は気まずそうに顔を伏せた。

「まじか、仲間割れはダメじゃん。それより鈴木は貸したDVD返して。感想も言って、今ここで」

「話を聞いていましたか岡田さん!まずは学校の先生に謝らなければ駄目ですよ」

岡田と鈴木がこちらを見た。2人とも、瞳に奥行きがあって只ならぬ雰囲気があった。役者、という先入観かもしれないが。

2人の正反対な謝罪を受けたあと、今度は桜井が手を叩いた。

「さ、役者が揃ったところでミーティングを続けますか。あ、水樹さんと美生ちゃんは取材で不在っすよ。代表代役として、俺が進行しますね」

「いや、進行は堀さんでしょ」

何も知らない岡田は、堀に話を振った。騒ぎの発端を作ってしまった堀は青白くなっていたが、立て直すように咳払いをした。

「そうね、続けるわね。よかったら先生も同席してください。みんな、ここまでの本読みは終わっているわね?今回は今までと違って、話が進むたびに読み合わせをして立ち稽古をしていくからね。ええと、井上と松本の誤解が解けたシーンからね」

全員が移動を始めた。バイトの子たちは気にしないで作業を再開している。

谷津倉が迷っていると、幸村が手招きした。みんな、ロビーの奥の扉に吸い込まれていく。

井上と松本の誤解とは何だろうか。

谷津倉が知らない事実を、水樹は掴んでいるのだろうか。


          *


扉を開けると広い空間に出た。古臭いロビーと違い、灰色の壁紙が近未来を思わせる。映画館のように客席が並んでいて、階段を降りた先にステージがあった。ステージは奥行きがあり、幕が何層にも見えた。見上げると、天井に幾つものライトがあった。

「フロントライトとシーリングライト。左右と、客席の上のライトよ。レンガ劇場のライトは質が良くて、酒井さんはここのライト目当てで仕事を引き受けたかもね」

堀が、谷津倉の視線を追いながら説明してくれた。

「広いでしょう、小劇場とは言えないレベルでしょ」

ただ無言で頷く谷津倉に、堀は満足げに微笑んだ。

「黒田役が岡田で、松本あかり役が鈴木。井上役はムーさんね」

この、映画が始まる前のような高揚感に谷津倉は浸っていた。

不意に音楽が流れる。オルゴール調のゆったりとした音楽だった。

「うるさいよ桜井!」

酒井の怒号が飛ぶ。どこかにいる桜井が、音響調整卓を睨みながら

「今M1やってんの!」

と反論した。

「それ客入れ音楽だろうが!先にM3をやれって!」

M1は客が入る時に流れる音楽、M2は幕開きの音楽、M3は場面の音楽……

そこまで説明した堀は、不意に立ち上がってさっさとステージに向かってしまった。

ステージ上では岡田と幸村が向かい合い、離れた場所の鈴木がいた。いつの間にか冊子を持っていて、空気が張り詰めている。

堀は1番前の座席に座ると、指示を出し始めた。どうやら彼女が代行なのは本当らしい。

谷津倉は迷って、センターブロックの1番後ろ、通路側に座った。

柔らかい座席にお尻が収まる。観客は自分しかいないので前の背もたれに顎をのせる。

1度はやってみたかった観劇スタイルだ。息を潜めて、彼らを見守る。と、風が真横を切る。誰かが駆けていったのだ。

「遅れてごめんなさい!」

聞き慣れた声が、空間に反射して響く。

美生は、鞄を雑に座席に置くとステージに駆け上がった。息が切れていて、肩が激しく上下している。

ステージ上の3人が美生に思い思いに声を掛けた。堀も座席から声を掛けているが、こちらには聞こえない。美生は笑顔で堀に応答しつつ、さりげなく顔をあげた。そして固まる。

目が合った、ような気がした。

はっきりとはわからないが、彼女がどんな顔をしているのかは想像がついた。何となく姿勢を正す。

美生がこちらに来るか迷っている間に立ち稽古が始まった。ただ、身振り手振りで演技をしているのに迫力がある。テレビや映画などの映像とは違う、生の醍醐味だった。

水樹が入ってきたのはそんな時だった。



「ごめんなさい」

美生が頭を下げた。

稽古が終わり、ステージ上を拭いている時だ。水樹は堀と話し合いを始めたため、挨拶しかできていない。

「何が」

「黙っていて、騙していて……。探偵は本業じゃなくて役作りなんて、本当のことを言ったら受け入れてもらえないと思って」

カウンセラーの先生。OBの友達。そして探偵。

「まあ、怒りよりも驚きの方が大きいですけどね。ここまでするんだ、と」

「しますよ、次の公演に賭けているので」

美生は少し、顔を上げた。谷津倉のお腹らへんを見ているが、本当は何を見ているかわからない。

「謝られても正直わかんないです。僕だって同じ学校なだけで事件に関わっている訳じゃないし、そもそも事件の究明に協力するのであって。本当は学校関係者として止めなければいけませんが、もうどうしていいかわからないです。」

「わかっています、あなたは協力するだけでいい。知らないふりをしてください。谷津倉先生の役はないですし」

ないのか。関係はなくても自分は結構な役どころだと勝手に思っていた。

「あくまで、私という探偵が学校に乗りこんで勝手に捜査するシナリオです」

「そのことだけど」

谷津倉は美生が持っている冊子に目を写した。薄紫の厚い紙が表紙だ。

「脚本ってどうなっているの?まだ事件は解決していないのに」

「それは……」

美生はちらりと水樹を伺った。水樹は視線に気づくとこちらに向かってきた。飼い主が紐を手繰り寄せているようだった。

「どうした」

「先生に脚本を見せても大丈夫でしょうか」

頷いた水樹を確認し、美生は本を開いた。

場面と台詞と、舞台装置も書き込まれている。パラパラとめくると、途中から空白になっていた。話は黒田が亡くなる日まで、何があったかを順に追っている。

何だこれは。

如月月子も谷津倉真も出てこない。黒田と井上と、松本あかりの三角関係の話だった。

話は縺れ、愛執の末に黒田は殺されている。黒田に嫉妬した井上か、2人の仲が悪くなったことに悲しんだ松本か。犯人は観客に委ねられて終わっていた。

水樹を見遣ると涼しい顔をしている。

「嘘にも程がありますよ。人物だけが合っていて関係性はめちゃくちゃだ」

いつか、美生が人物の関係性が重要だと言っていた。

「駄目です、本人たちに許可を取らなきゃ。僕だったら嫌ですけど」

「明記していないよ、事件がモチーフだって。リアリティを求めて取材をしているだけ。いいかい先生、創作って、ペンひとつで出来るけど、ただ机に向かって唸っていれば言い訳じゃないんだ。ペンを持つまでにどれだけその物事を調べられるかが大事だよ」

「その事実を捻じ曲げていいのかって言っています」

美生があいだに入ろうとしたが、水樹が制した。谷津倉は生徒を叱っている気分になった。駄目なものは駄目と言わなければ。

水樹はいきなり映画の題名を言い始めた。映画が好きな谷津倉にとってほとんど観たことがあるものだった。中には最近公開された日本映画もある。

「これら全て、実話が元であり、何らかの賞を受賞している。何故だかわかるか。事実とわかった時、一気にリアルになる。これが現実世界であったことなのか、と。自分の世界と画面の向こうが繋がるんだよ、ゾクゾクする」

「だからさっきから話がずれていますけど」

水樹は改めて、谷津倉を見た。深い瞳の色だった。

「ああ、ごめん。事実を捻じ曲げるなだっけ。確かに、捻じ曲げることでさっきまでの持論を裏切ることになるね。今回はまた違うパターンだよ。そのまま事件を真似てもつまらないから、面白くアレンジをする。未解決事件を作者の考えで書かれた本もあるし、事実を創作に昇華するのにどこまで変えるかは作者次第だ。ボーダーラインは決まっていない。俺は事件の裏側では、こんなことがあったんじゃないかって勝手に想像しているだけ。そもそも演劇って真実と虚構の境目が曖昧なんだ。人物がリンゴを持っているふりをしたら、観客はりんごを見ようとしなければならない。俺は観客のように、ないものを見ようとしているだけ」

ここまで一気に話すと、水樹はこちらの様子を伺った。理解できているか、と聞こえてきそうだった。

「……あなたの言い分はわかりました、多分、あなたの業界では賛同される方もいるでしょうね。僕にはわかりませんが」

そもそも土俵が違ったのだ。谷津倉は学校の先生で、映画や本を娯楽として消費している。裏側にいる人なんて想像したことがなかった。

また反論しても同じことを言われるだけだろう。自分の生徒ではない。学校の輪の外にいる人間だ。

右手に力が入り、初めて脚本を握っていたと気づいた。

「あ、ごめん」

急いで状態を確認すると、表紙に『乙女の祈り』と書かれていた。

「乙女の祈り?」

「表題だよー」

桜井が、こちらに近づきながら答えた。

彼は今来たばかりなので、殺伐とした空気を知らない。

「乙女の祈りっていうとバダジェフスカっすね!本当は曲そのものを使用したいけどベタすぎて辞めたっす」

彼は両手を広げ、ピアノを弾くふりをした。どうやら同名の楽曲があるらしい。

ね、と振り向いて鈴木に賛同を求めたが、鈴木は岡田と話し合っていてこちらに気づかない。

谷津倉はどこかで見たことがある字面を思い出した

「乙女の祈りって映画もありましたよ、確か」

確か、去年の暮れに観た映画だった。入会している映画見放題のチャンネルで、何となく観た。2人の少女の話だった。

「ふうん、最初見たときはいい題名って思ったけど案外在り来たりなんすかね」

水樹本人の前で、彼は堂々と言った。

谷津倉は、美生の視線に気づいていたが、見ないようにしていた。

水樹は話終えたと言わんばかりに、振り返ってしまった。2人の役者が固まって話し合っているところに向かって怒鳴る。

「岡田、鈴木!何で前に言ったところができてないんだよ。忙しかったとか言い訳は聞かないからね。美生ができている分お前ら浮いているから、次までにちゃんと直してこい」

付け足すように、幸村さんも!と言った。端っこで座り込んでいた幸村は申し訳なさそうに首をくすめた。水樹はさっさと出て行ってしまったので、岡田が睨んでいることに気付かなかった。


          *


「先生も付き合ってよ」

声を掛けてきたのは酒井だった。稽古が終わり、帰る準備をしている時だった。

時刻を確認すると21時半。明日も学校があるが、ここの人達がどうも気になり、誘いに乗ることにした。車は学校に置いてあるので酒を飲んでも大丈夫だ。

しかし酒井に連れてこられたのは駅前の喫茶店だった。前に井上が指定したカフェとは雰囲気が違って、店内全体が明るかった。酒井の他に、幸村と堀がいた。

「堀さん、早く帰らなくていいの?」

幸村がおしぼりを広げながら聞く。

「いいの、今日は旦那遅いし」

谷津倉は幸村を真似ておしぼりを広げた。蒸気が顔の高さまで昇る。

酒井はメニューを広げ、さっさと全員分の注文をした。どうやらここの店主と顔見知りらしく、スムーズに進む。

「で、先生。何でも聞いてくれよ」

テーブルに飲み物が置かれてから、酒井が切り出した。

「え?」

「ずっと聞きたそうな顔をしていたよな。そりゃ初っ端から劇団のいざこざを見ちゃったら気になるよな」

酒井と桜井の言い合いで言っていた、美生のための劇団。

谷津倉が頷くと、酒井は話し始めた。

「如月美生が元アイドルって知っているな?美生はアイドルとして世間に認知される前に事務所の社長に潰されたんだ。メンバー全員を集めて、美生が使えないから解散だって宣言してね。それで、他のメンバーは大荒れ。美生だけを外そうとした動きまであったが、正直虹色メロディーは美生という華があったから成り立っていたんだ、他のメンバーはオーラさえない。で、敢えなく解散ってわけさ」

「さすが元ファン」と堀が口笛を吹いた。

「堀さん、ちょっと黙っててくださいね。解散してどうしようかって時に、偶然にも事務所にきた水樹に拾われた。大抵のアイドルは女優になる傾向があるが、アイドル失格の烙印を押された美生は水樹にしか縋れなかった。ここは推測だけどな。美生を中心に、劇団メンバーを集め、今回が旗揚げ公演になる。さすがに人が足りないから舞台セットとかは他の会社に任せるが、幾ら何でも無理やりすぎるよな。だから俺たちは美生さえ売れればいいってことかなって勘ぐっているのさ」

美生が劇場に現れた時、一気に空気が変わった。みんな美生を受け入れ、また彼女も自然と中心で話していた。

水樹は美生に惚れているんじゃないか、と変な予想をしてしまった。

「でもさあ、美生ちゃん可愛そうじゃない?そこまでされたらプレッシャーでしょう」

堀が耳に髪をかけた。ピアスがキラキラと光っている。

「女は結婚して生活を安定させてから活動する方が絶対にいいのに。私みたいにね」

「あー、確かにな。俺も女に産まれたかったぜ」

酒井が冗談ともわからないことを言う。

「最近だと女の幸せは結婚とは限らないって言われるけど、私は違うわ。好きな人がいた方が仕事を頑張れるじゃない」

「と、言っていますが幸村さんは?」

酒井がタバコを、マイク代わりに幸村に向けた。幸村はコーヒーを飲んでいたが、ゆっくりとカップを置いた。

「僕も堀さんに似ているかな。家族と遊ぶためにお金を稼ぐよ。その為なら仕事の内容は何でもいいもの」

「恋愛と仕事の両立、家族のための仕事か……。先生は?」

突然の自分の番に、思わず首を傾げた。

仕事について、と酒井が付け加える。

「僕は幼い頃から先生になることが夢だったから、叶って、そのままですかね。流石にあの頃の想像とは違いますけど」

「わかるわ、希望通りの職種でも何か違うのよね。きっと自分の想像通りなんて空想に過ぎないから無理なのよ」

堀がタバコを咥えると火を点けた。彼女のタバコを吸う姿は想像通りだった。

「それな、俺も、下積み時代の時に、こんなに苦労しているから絶対に報われるって信じていたぜ。俺は成功したけど消えていった奴もいる。普通に就職した奴は、下積み時代をどう思っているのかね」

下積みとは無縁の谷津倉にピンとこなかった。彼らは普通に生活しているが、自分のやりたいことのために賭けに出た時期があるのだ。

自分の飲み物を見つめる。酒井オススメのブレンドだが、黒い液体にアルコールが入っているのではないか。でなければ、頭の中で回っている言葉の大群は何なのだろう。



電車に揺れながら、岡田と鈴木は並んでいた。

車内は疲れた顔の社会人で埋まっていた。

窓の外の、住宅街の光を見つめていたときだった。

「お前って卒業したらどうするの?」

横を向くと、岡田が窓の外を見ていた。見惚れるような綺麗な横顔だ。最初はドキドキしたが、我儘な性格を知ってからはしなくなった。

「このまま役者の道を行きます」

「このままって、今は実家から仕送りされているだろう。自分で生活費を稼ぎながら活動できるの?」

家賃を始め、光熱費、ガス代、電話代……。自分のお金だけで生活をするのだ。考えるだけで恐ろしさが背筋を走った。

「不安ですけど、あんなに怖かった1人暮らしが出来ているので大丈夫だと思います。それに、自分が舞台や映画で活躍する姿を想像するだけで生きていけます」

鈴木は外の景色と、反射して映る自分の姿を見た。化粧っ気のない顔はお世辞とも可愛いと言えない。しかし、自分の顔が大画面に映り、自分の名前がエンドロールに流れるだけで身体中の血が騒ぐのだ。

「みんながみんな成れるわけじゃないよ。脅しじゃなくて、」

岡田は唇を噛んだ。

「なあ鈴木、俺は最近、普通の生活を想像する。今から就職し直して、結婚して、子どもが出来て。堀さんはいいよなあ。私生活が充実してて、仕事も上手くいって。俺はどっちもなんて無理。もう、普通の幸せを考えた方がいいのかな」

岡田は決して横を見なかった。彼も映る自分を見ているのだろう。

「それでもいいんじゃないですか。幸せの物差しは人それぞれですし」

鈴木はそこまで言うと、固まった。岡田が鈴木の服の袖を握ってきたのだ。

親指と人差し指で、遠慮がちに挟んでいる。そこから縋りたい気持ちが自分に伝わってきたが、気づかないふりをした。

こんなとき、松本あかりだったら頭でも撫でるのだろうか。いつの間にか頭の隅にいる彼女の人物像はぼやけていった。

電車はカーブに入り、数人の体が傾く。鈴木は足に力を入れ、踏ん張る。窓に映る自分の笑みには気づかなかった。


          *


画面の中で、彼女が笑っている。谷津倉はまた虹色メロディーの動画を見ていた。ファンが降っているペンライトは鮮やかだ。色は赤がほとんどを占めていた。

美生がステップを踏み、ターンをするたびに黒髪がなびく。

片手を挙げ、客を仰ぐ。不意に見えた脇にドキッとした。画面を消しても、彼女の姿は鮮明に思い出せる。今の彼女よりもはっきりとしていた。

電車が止まる。中村橋だと確認し、下車した。イヤホンを取って歩き出すと、自分は現実を生きているんだと実感する。

昨夜話した人たちは夢の中の住人のようだった。

自分の夢か。谷津倉は定年退職まで先生を続けるだろう。学校に通い、土日に休み、数年単位で学校を移動する。

そういえば黒田は作家になった後、教員を辞めるつもりだったのだろうか。生徒や先生に嫌われても平気だったのは、もうすぐ辞職すると決めていたのではないか。彼の、パソコンに向かう姿を思い出す。羨ましいと思った。

「……生、先生、」

何回か呼ばれて気づいた。校外で先生と呼ばれると、自分のことだと理解するのに時間がかかる。

顔を上げると1人の生徒がいた。大通りを通り、住宅街に入ったところだった。

早朝だが、運動部の朝はもっと早い。ちょうど運動部が登校した後であり、他の生徒が登校するには早い時間なので道は空いていた。

「ま、」

松本あかりだった。直接対面するのは初めてだった。

写真よりずっと幼く、髪の毛は外側に跳ねていた。頭のてっぺんが少し黒い。彼女が茶髪に染めていたことに初めて気づいた。

「1年の松本あかりです。確か先生が警察の対応をしていますよね」

なぜそのことを。

井上が、松本の友人たちにプリントを預けていたことを思い出した。彼女たちが逐一情報を伝えていたのだろう。多分、刑事と谷津倉が話していたところを見掛けたのだ。

「先生、私が警察に疑われているって本当ですか。私は黒田先生を殺していません」

小さいが、意思のある声色だった。

「ああ、わかっているよ。もう事件は解決しているから」

「だったら何で早く発表しないんですか。みんないつまでも疑心暗鬼ですよ」

彼女の後ろ側に、教頭の姿を見た。目をこすり、もう1度見ると消えていた。

「先生同士で話し合って決めたんだ。まだ背景が見えない以上、発表するべきではないって。中途半端にみんなに言うと、勝手に推測されちゃうだろう」

「もうされていますっ」

松本あかりはスマホを取り出すと、画面を谷津倉に見せた。

いつか見た、文字の羅列だ。少女Aが殺したという内容で盛り上がっていた。

美生があのとき見せた文とは微妙に違っていた。野次馬から、身内のような文だった。

「少女Aは私のことです。私が犯人ってことにされています。言い寄ってきた教師なんて知りません、事実無根です」

何度か繰り返し読む。

書き込んでいる人々は、面白いと思って打っているのか。もし自分が標的にされたらどうなってしまうのだろうか。

「これって名誉毀損で訴えられるそうです。でも、お金も時間もかかります。貴重な学生生活をこんなことに費やしたくありません。だからひたすら沈黙しました。いつか話題は過ぎるって。なのに何度も嘘の情報を流されて、私はいつになったら登校できますか」

揃えられた前髪の下から目が覗く。長い睫毛で縁取られたそれは、闘志で燃えていた。

宮田が言っていたぶりっ子とは、彼女のことだろうか。それとも本性を出しているのだろうか。少なくとも彼女は賢いと思った。

そして堂々とした様は、潔白に相応しい姿だった。

「クラスごとで犯人探しはやめて下さいね、絶対に見つかりませんから。先生側が騒ぐとかえって面倒なんですよ。じゃあなぜ谷津倉先生に声をかけたか」

そしてまた素早くスマホを操作する。

口頭じゃダメだろうか。調べたものを見せないと信用してくれないと思われているのだろうか。

「劇団赤い夢って知っていますか」

石が、頭の中に詰まったように重くなった。重い石が傾くように、後ずさりした。

どうするべきか。

「今度劇をやるそうですが、内容は知っていますか」

語尾が強い。質問ではなく、確定したことを話している感じだ。

「いや、知らない。その劇がどうした」

迷って、やめた。

「うちの事件を調べていくうちにヒットしたんですよ。この劇、実はうちの事件がモチーフじゃないかって。高校の教師が朝礼で、みんなの前で死ぬ。在り来たりな設定ですか」

嘘だ。水樹は事件が元だって明記していないと断言していた。誰かが勝手に重ねているだけだ。

「ちょっとSNSで噂になっています。多分、学校関係者か警察が話を漏らして、この劇団の人が食いついたんでしょうね」

彼女はどこまでも冷静だった。

「これってなんですか、著作権ですか。ねえ先生、私は何の権利があればこれを止められますか」

彼女は言い終わると、谷津倉の横を通って学校と反対方向へ向かった。

制服を着ていたが、登校はしないのか。通学路を歩く生徒が、松本あかりに気づいてヒソヒソと話していた。

僕は何をしていたのだろうか。事件を外部に漏らし、彼女を他人の印象で決めつける。稽古を、ぼんやりと見つめていた。何も考えずに。

彼女が生徒である以上、先生が守るべきだったのに。

谷津倉は美生に連絡した。美生達が演劇に誇りを持っているように、こっちだって先生の誇りを持っている。


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