第2話 探偵登場


次の日、朝から職員会議が行われた。昨夜と違って空気が重い。校長は無言で職員室のテレビをつけた。朝の情報番組が映った。

『……続いてのニュースです。東京都練馬区の近山高等学校で、男性教師が死亡しました。男性教師は朝の集会で話している最中に倒れ、病院に運ばれましたがそのまま意識が戻らず息を引き取りました。死因は現在も捜査中です』

女性アナウンサーが神妙な面持ちで原稿を読み上げた。テロップにはゴシック体で『男性教師、朝礼中に死亡』と表示されている。写真も上がっているが、校舎の一部分を切り取ったものだった。誰かが、ホームページの写真……と呟いた。男性教師は黒田のことだ。谷津倉は昨日の出来事を世間が知り始めていることを実感した。

アナウンサーは次のニュースに移っていた。外国のテロ事件のようで、車が爆発する様子が流れる。

校長はリモコンを操作してテレビを消した。

「まだ死因は公表されておらず、極秘になっている。今日から警察もくるがマスコミもくるだろう。取材には絶対対応するな。情報は警察を通して公表をする」

マスコミという新たな刺客だった。

それと、と校長は言った。

「黒田先生のお通夜は黒田先生の実家で行われる。詳しくはハガキを見てくれ」

はい、と数人の先生が返事をした。谷津倉も遅れて返事をする。谷津倉のジャージポケットにスマホが入っている。この小さな電子機器の恐ろしさに、ここにいる全員は気づいていなかった。


          *


「エラ、青酸カリで死んだって本当?」

谷津倉はチョークを落とした。粉々に砕け、白い粉が舞う。

2限の授業中であった。谷津倉が担任をしている1年生の文系クラスは、中心でとり仕切るような人はいなく、全体的に大人しい。

だが今日は話し声が目立っている。彼女たちは小声で話しているつもりだが教室中に響いていた。内容までわかるほどだ。話は大抵、昨日の事件だった。

居眠りより話し声の方が、周囲の集中を欠けさせるので悪質だった。次に話したら怒ろう、と決心した矢先の質問だった。

「何を言っているんだ」

「だってさ」

話しかけてきた生徒は1番後ろの席の子だった。

必然的に、クラスの全員を挟んだまま2人は会話する。

「ここに書いてあったよ、ほら」

悪気もなく生徒はスマホの画面を見せてきた。

この生徒は何度もスマホを没収されているがめげずに使っていたのだ。谷津倉は大股で生徒に近づいた。スマホを没収するためだ。よりによって自分の授業中に使われるとは。生徒は先生を選んで特定の授業しかスマホを使っていない。何度か使っているだろうな、と感じたことはあったが今日は決定的だった。

生徒はスマホを取られないように両手で持ち直した。それでも画面はこちら側に向けられている。

画面はSNSを開いていた。

【近山】【教師】というワードを中心に言葉が流れている。

その中に【近山の教師、青酸カリで死んだらしい】と書いてあった。

「書き込みをした人は誰だかわかる?」

谷津倉は画面から目を離さずに言った。

「知らない。うちの生徒だと思うけど、誰のアカウントかわからない。ねえ、青酸カリって本当?こういうのって早めに公表した方がいいよ。隠すから皆知りたがるじゃん」

生徒は谷津倉が読んだことを確認すると素早くスマホをポケットにしまった。

そうか、と谷津倉はまだスマホがあった場所を見つめていたが、

「ちょっと自習にする。板書が終わったら教科書の56ページから80ページまで読み込むように」と指示を出した。

谷津倉が教室を出ると途端に騒がしくなった。彼女たちの声は廊下まで聞こえていた。

構うものか、と谷津倉は職員室に急いだ。



職員室にいる先生はほとんどが電話をしていた。テレビは付けっぱなしになっていてコマーシャルが流れている。

「新聞記者、編集者、テレビ局。あとは保護者の問い合わせでてんやわんや」

宮田が谷津倉の側に寄ってきた。

「今日の夜、緊急で保護者会を開くみたいよ。保護者には誠意見せなきゃね」

公表した方がいい、というさっきの言葉を思い出した。保護者から生徒に伝わり、明日には皆が知る事実になるのだろう。

「ちょっとどいてくれ」

校長が渋い顔をしながら職員室に入ってきた。顔の皺が真ん中に集まっていて梅干しのようになっていた。顔も少し赤い。

谷津倉と宮田は後ずさるように端に避けた。最後の電話対応をしていた先生が電話機を置くと、皆自然と校長に注目した。

「今日の放課後に警察が捜査にくる。裏門から入ってもらうが、マスコミは入れないようにな。すでに正門で校舎の写真をとる輩がいてな、本当に参るよ」

そこへ教頭が職員室に入ってきた。校長と同じように険しい表情をしている。

「警察の対応は教頭と谷津倉先生がするように。いいね」

校長は教頭にバトンパスすると、さっさと出て行った。

あら、と隣で宮田が言う。

「え、どういうことですか」

「本来ならば黒田先生が対応するところですが、ここは谷津倉先生にやってもらいます。ゆくゆくは広報を担当してほしいのでこれも経験です。よろしくね」

教頭は早口で言うと、自分の席に座った。机の上の書類を見つめる姿はデザイナーのようだ。谷津倉はふらっと彼女の横に立つと抗議し始めた。

「なんで僕なんでしょうか、もっと経験値のある先生が他にもいるじゃないですか。井上先生とか、黒田先生と仲が良かったから詳しく話せるでしょうよ」

「谷津倉先生」

教頭が睨んだ。谷津倉は思わず前髪を抑えた。教頭は書類に素早く走り書きすると谷津倉に見せた。

『井上先生は容疑者として疑われているからダメ』

「えっ」

自分の叫び声で他の人が顔を上げる。

「すいません」

谷津倉は口元を手で覆った。教頭は怒るわけではなく、書類に目を落としたまま小さく言った。

「あと2人、生徒が疑われているわ」


          *


 夕日が校庭を照らす。

放課後になったが、生徒は1人もおらず風が砂を巻き上げては去っていった。

朝礼台で鑑識が1人、しゃがんで作業をしている。すぐ近くで仲間らしき人が腕組みをして様子見していた。遠目から見ると作業着に見えるので点検しているようだった。

谷津倉はぼんやりとそれを見ていた。昨日、自分が寝ているときに起こったのだ。実感が湧かず、黒田は今頃部活を見に行っているのではないかと錯覚してしまう。

「大変そうですね」

そんな時だった。気がつくと、人が横にいた。

谷津倉は喉まで出かかった叫び声をなんとか飲み込む。

ベレー帽を目深に被り、サスペンダーをいじっている。茶色いチェック柄のズボンは大きいのか足首で折り返されていた。イギリスの子どものような格好だった。

「ここの先生ですか?昨日の事件について詳しく教えていただけませんか」

その人はちらりと谷津倉を見た。琥珀色の瞳と目が合った。谷津倉は無意識に相手の胸元を見た。声はやや低いが、女性のようだ。

「あれ、先生ではなかったですか?」

女性は首を傾けた。

「いや、先生で合っています。あなたは誰ですか……。もしかして今朝言っていた心理カウンセラーの方?」

女性は弾けたような笑顔になった。口の真ん中が上がり、広角が下がる。

「そうです、それです」

随分若い人が来たな、と思った。20歳前後だろう。自分の童顔を棚に上げて、ジロジロと物色する。

「心のケアを目的にしていますが、如何せん事件の概要が分からないと話になりませんから。関係者と被害者、あと事件についてお聞きしたいです」

尻ポケットから小さい手帳とペンを取り出す。

谷津倉は躊躇したが、外部の対応は自分と教頭しかいないことを思い出した。教頭は今頃刑事を校長室へ通している。多分、井上も一緒だろう。同席という形で事情聴取をするはずだ。

「ここで立ち話もなんですから、事務室へご案内します」

「事件の内容をさらっと話すだけで大丈夫ですのでご心配なく。すぐ終わらせます」

シャーペンの頭を数回ノックすると、また琥珀色の目を向けた。

「事件の内容はニュースの通りです。事件というか事故というか」

「まだわかりませんけど事件の方が濃厚ですよね、青酸カリが原因でしょう?」

驚いて彼女の顔を見据えたが、手帳に向かう彼女から感情は読み取れなかった。

「まだ根も葉もない噂ですが、今夜の保護者会で説明するのでは?」

その通りです、と谷津倉は呟いた。彼女は顔を上げると微笑んだ。

「知り合いの予想でしたけど的中でしたね」

シャーペンで手帳を叩く。話を続けて、という催促だった。

「ここからは本当に内緒にしてくださいね。アリバイがなく、黒田と係わりのあった人物が3人います。1人目は……」



・井上和正  36歳。化学教師。薬品の扱いが長けており、黒田とも仲が良い。しかし化学室の薬品は何ひとつ無くなっていなかった。谷津倉先生を保健室へ運ぶため朝礼は欠席。


・松本あかり 15歳。1年A組。帰宅部。黒田と仲が良い。宮田と共に朝礼へ向かうがトイレに行くといい、朝礼が終わっても姿を見せず。


・如月月子  18歳。3年D組。帰宅部。髪を染め、授業をサボる問題児。生活指導の黒田に目をつけられていた。保健室にいたため朝礼は欠席。



 以上のことを、彼女はメモにとった。そして繁々と見直す。

「この松本さんって人、3人の中で浮いていません?トイレに行っていただけで疑われる

のはちょっと……」

あー、と谷津倉は頭を掻きむしった。あの小動物のような外見を思い出す。

「違うんですよ。松本は先生受けが良いっていうか、ぶりっこというか。とにかく距離が

近くて、先生の家の場所まで把握しているような子なんです。黒田は松本を可愛がってい

ましたから。2人のあいだに男女の関係があったのか疑われているんです」

「なるほど、男女の仲でもおかしくない、と」

鑑識が腰をあげるのを視界の端で捉えた。こちらへ向かってくる。

「お疲れ様です。朝礼台を調べましたが特に変わったところはありませんでしたね。今か

ら校長室に行って報告して来ますね」

早口でそう伝えると、2人は並んで校舎へ向かった。

変わったところがあったら、事件は変わってくるのだろうか。谷津倉はため息をついて振

り返った。彼女は口元に手を当てて俯いている。足先で地面の砂を蹴っていた。

「あと1人、アリバイがない人がいますね」

彼女は手持ち無沙汰の方の腕をゆったりとあげた。そして、谷津倉を指差した。



「冗談やめてくださいよ、僕は寝ていて何も知りませんって」

「そうですよね、あなたが黒田さんを殺す理由はない。もしかしたら犯人に上手く使われ

たかもしれませんね。まあミステリー好きの戯言ですが」

「僕がもし関わっているなら井上先生が怪しいですよね。でも青酸カリなんて化学教師が

疑われるもの使うかな」

「おや、いける口ですね」

どちらかというと本より映画ばかり観てきたが、ミステリーは好きだ。谷津倉は顎に手を

当てて、いかにもなポーズをとった。

「でも青酸カリを飲んだタイミングはいつだろう。朝礼台に登る直前ですかね」

「多分そう考えるべきでしょうね。一応刑事さんに探りを入れてみてくださいよ」

谷津倉は頷きながら校舎のほうへ歩きだす。水分補給は朝礼中でも認められており、ペッ

トボトルや水筒を持ってくる生徒もいる。万が一倒れられた時に学校側の体制として言い

訳ができるのだ。

1人で歩いていることに気づき、振り返る。

西日が目に入り、彼女は輝いているようだった。

「そちら側には行けません」

またゆったりとした動作で校舎を指す。

「だってここにお呼ばれしてない者ですから。不法侵入者として捕まってしまいます」

「は?」

片足でコンパスのように軸を描く。無意味な動作だとわかっていてもつい見入ってしまう。

「……カウンセラーの先生じゃないんですか」

彼女は頷いた。

「騙してしまい、申し訳ございません。だってこうでもしないと話してくれないでしょう私は探偵です。美しく生きる、と書いて美生(みう)。萩原(はぎはら)美生(みう)と申します。以後、お見知り置きを」

完全に僕の失態だ。朝言われたばっかりなのにもう外部の人間に漏れてしまった。自ら話

してしまったのだ。探偵って言っていたが本当はマスコミかもしれない。それか兄弟がこ

この生徒かもしれない。そうじゃなきゃ関係ない人がわざわざ首を突っ込むだろうか。

探偵なら最初に依頼人がいるだろう。

「依頼人はいません。私は今朝のニュースを見て来たのです」

探偵と名乗った女性、美生は近づいて来た。歩幅が小さく、砂埃が控えめに舞う。

そして谷津倉の目の前でたちどまると、覗き込むように見つめた。

「探偵なんて胡散臭いでしょう?顔なじみの刑事が相談してきたらドラマが始まるんですけどね、現実は一般人ばかりですよ。浮気の証拠探しや猫探し。探し物なんてちょっと調べて自分で探せば見つかるはずなのに。今の人って時間なさすぎですよね」

谷津倉の顔が面白いのか小さく吹き出した。

薄い唇から空気の抜けた音がする。

「谷津倉先生、私の探偵業の為に情報を流してもらいますよ」

何を言っているんだ、と谷津倉はやっと声を出した。

「人が死んでいるんだ。君が面白がっていいものじゃない。そんなに探偵ごっこがしたいなら人命が関わっていないもの、詐欺や窃盗から始めればいいじゃないですか」

美生が制服を着ても違和感ないだろう。谷津倉は生徒を叱っている気分になった。

「だからこそ、です。探偵だって職業です。探偵を副業にしている人だっていますけど私にはこれしか無いんです。探偵じゃなくなったら収入がなくなって生活できません」

職業。谷津倉が先生であるように、美生は探偵という職業に誇りを持っている。世間から見たら胡散臭いが、本人は大真面目だった。

こういうの、なんて言うんだっけ。似ている単語を思い出しては消していく。

遂にわからなくなり、諦める。

「勘違いしないでください、私はお願いじゃなくて脅迫しているんですよ」

美生はコホン、と咳払いした。

「あなたはもう私に内部情報を話している。上司にバレたら大変なことになりますよ。黙って私の言うことを聞いたほうが、脅された形になりません?」

谷津倉は暫し、考えた。

今、先生たちは事件の対応で忙しい。1人でも欠席すれば幅寄せは他の人にいくだろう。

処分までいかない、厳重注意になるはずだ。よって脅迫は痛くもかゆくもなかった。

「いいでしょう、極秘で協力します」

脅された、という相手の提案に乗ることにした。

それにこの人が事件をどう解決していくのか興味があった。


          *


「さっきの人は誰?」

宮田が声をかけてきた。

もう外は暗いが、会議室は賑わっていた。

並べられたパイプ椅子に中年の男女が座る。後ろに立っている数人は椅子が足りなくて座れなかった人達だ。これから保護者説明会が行われるところだった。1番前にいるのは校長と教頭、あと見たことのない人達は市の教育委員会だろうか。

室内はクーラーが効いているが、校長はずっとハンカチでこめかみを拭いていた。

谷津倉と宮田以外の先生は学年主任を置いて帰っているが、2人は気になって覗きにきたのだ。

「ジャーナリストですよ。勝手に入ってきたので追い返しておきました」

校舎から校庭は丸見えだ。他にも目撃者はいるだろう。宮田は納得していない様子で相槌を打った。

2人は保護者会の冒頭だけ見ると、早々に会議室を後にした。保護者に捕まれば質問責めされるからだ。

扉を閉める音が思いのほか大きくなり、足早に廊下を歩く。

「ねえ、井上先生が事情聴取を受けたみたいよ。先生皆されるのかな」

「どうでしょうね」

「きゃっ」

宮田が床に躓くが、見て見ぬ振りをした。

近山の歴史は長く、校舎が古い。床の木目は少し凹凸があった。クリーム色の壁に貼り付けたような長方形の窓。外に灯りはなく、一寸先は闇だった。

谷津倉は残業するといつもこのまま帰れるのか不安になる。住宅街を抜け、街の灯りを見えてきて初めて安堵するのだった。

それほど夜の学校は何ともいえないものに包まれている。

「宮田先生、こんな時間まで残っていて大丈夫ですか」

「養護教諭はさっさと帰れって?保健室に来る生徒が事件について聞いてくるのよ。ちょっとは情報を知りたいじゃない。それに私の家はすぐそこよ」

1階に降り、下駄箱の横を通って職員室に向かう途中、

「先生」と声を掛けられた。

ひゃ、と情けない声が出る。宮田も息が止まるが、すぐに持ち直した。

「あら、月子さん。こんな時間にどうしたの?」

金髪の少女が下駄箱に寄りかかって俯いていた。谷津倉が保健室で見かけた生徒だった。名前と顔は知っていたが、なるほどよく目立つ。如月月子は宮田を見た。

「保健室に忘れ物しちゃって……。事務室に行こうとしたら先生たちが通りかかったの」

「そうだったのね。タイミングが良かったわ、一緒に取りに行きましょうね」

宮田はポケットから鍵を出すと、月子をエスコートするように歩き出した。

「何を忘れたんだろう」

谷津倉の独り言は大きかったみたいだ。月子が振り返って答えた。

「USBよ」


          *


中野駅から少し歩くと、大きい建物が見えてくる。

1階では異国の料理屋が営業をしていて、上の階では複数のオフィスが入っている。

中野有明芸術劇場は、その地下にあった。

入り口横の階段を降りていくと開けた場所がある。本物のレンガが何重にも積んである。レンガのほとんどにヒビが入っていた。

レンガの印象が強いのでレンガ劇場の名で通っている。

美生は寄りかかるように扉を開け、ただいま、と声を出さずに言った。

中に入るとロビーがあり、左手に受付があった。黒いソファの他にカウンターと棚があり、お酒がびっしりと飾られていた。観劇後のお客さんがここで飲んでいくこともあるのだ。ちょっと薄暗く、ひと昔前の旅館に似ていた。

カウンターの端で男が背中を丸めている。ちょうど電話が終わったらしく、スマホを片手に振り返った。

「おう、おかえり」

美生は細かく頷きながら、鞄をソファに投げた。

「どうだった、現場は?」

男―……水樹は前髪を耳にかけながら聞いてきた。黒髮は半端な長さなのですぐ耳から落ちてしまう。後ろは襟足まで伸びていて、中性的な顔立ちも手伝って、よく女と勘違いされる。アロハシャツをチノパンにしまい込んだスタイルは華奢な体型が浮き彫りになっていた。

「いい感じの人を見つけました。谷津倉先生っていうんですけど」

「谷津倉?珍しい苗字だね。うんうん、そっか。うまく潜り込めたんだね」

美生は手帳を取り出すと、水樹に渡した。水樹は1ページずつじっくりと見ていく。学校の成績を親に見せている気分だ。

ようやく顔をあげた水樹は真顔だった。水樹は表情があまり変わらない。変化すると、表情筋が引きつったように不自然な筋ができる。

「関連人物が思ったより少ないね。これならアンサンブルなしでいける」

スマホで何やら操作をする。尻ポケットに入れておいた美生のスマホが反応した。

「皆に一斉送信したから。ミーティングの連絡だよ」

そしてまたスマホを操作する。

美生は素早く内容を確認すると、メールを閉じた。早く家に帰って寝たいが、帰路を歩く体力が戻るまで、ソファで休憩をとることにした。

ロビーに時計の音が響く。

深呼吸して、ソファに沈む。埃っぽい匂いが体を包んだ。

入り口の反対側、劇場に続く扉から2人が出てきた。酒井と桜井だ。

「水樹さん、メール見ましたよ。急っすね、役決めるんすか?」

桜井がだるそうに腰に手を当てた。水樹はそうそう、と返事をしながらもスマホから顔を上げない。

「やっぱり助手つけろよ。お前のスケジュール管理はなあなあすぎる。他の奴らだって予定があるんだよ」

酒井が、桜井の後ろから話しかけた。酒井の声は大きく、地下によく響いた。水樹はもう返事をせず、ただスマホに向き合っていた。見かねた美生があいだに入る。

「今日、現場に行ってきました。思ったより人が少ないからうちだけで何とかなりそうって。酒井さんも早めに全体像が見えた方がいいでしょう?」

「そうだけどよー……」

酒井は腰に巻きつけた上着を縛ったり解いたりした。上着と同じ素材のズボンは薄汚れている。工事現場のバイトから来ました、と言われても信じるだろう。隣で桜井が吹き出した。

「酒井さんって本当に萩原に甘いっすね」

「うるせえ」

ピコン、と電子音がする。水樹がやっと顔を上げた。

「SNSに新作の予告を流した。まだ題名は決まっていないが期間は決まっている。同時進行でいくよ、ついてきて」

3人はそれぞれ予告を確認した。劇団のホームページに太字で書かれている。


『劇団「赤い夢」新作公演決定。10月1日〜5日、中野有明芸術劇場にて』


本番まで2ヶ月もない。

誰のものか分からない溜息の音がした。

桜井は壁にもたれかかり、そのままズルズルとしゃがみ込んだ。

「水樹さん、あんた破天荒すぎるよ」



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