喝采される死体
倉木水想
第1話 事件発生
谷津倉真が目を覚ますと、数名の女生徒が覗き込んでいた。
4、5人は居るだろう。縛られていない髪の毛がこちらへ降りてきている。谷津倉は目線だけ動かして全員の顔を確認すると、また目を瞑った。
「ちょっと寝ないでよ」
1人の生徒が肩を叩いた。思いの外強くて骨に響く。痛みはそのまま肩を通って体育館の床に吸収された。
体育館。谷津倉は女子バレーボール部の朝練に参加していたのだ。
そこまで思い出し、また意識が遠のく。
「叩いちゃダメでしょ、早く保健室に運ばなきゃ」
もう1人の生徒が谷津倉のふくらはぎを掴んだ。成人男性はおもちゃのようにされるがままだった。
「その必要はないわ」
頭上から降ってきた声に全員が顔をあげると、養護教諭である宮田静香がいた。少し息を切らしている。いつもセミロングの黒髮を後ろで纏めていて、太い眉に大きめの目が特徴の濃い顔立ちをしていた。
「ボールがぶつかって倒れちゃったらしいわね。先生、谷津倉先生、聞こえますか」
宮田が反応を伺っていると、谷津倉は目を閉じたままフンッと鼻息を荒くした。そのまま口を半開きにして寝息をたて始める。
生徒たちは普段見られない先生の姿に顔を見合わせた。あとで友達に話そう、と考えている者もいるだろう。
宮田は素早く谷津倉と彼女たちのあいだに割って入った。
「ご覧の通り、大丈夫そうだから貴方達は戻りなさい。今日は朝礼でしょう?」
生徒達はお互いの出かたを模索していたが、1人が立ち上がると皆が後に続いた。
誰も謝らないのは谷津倉が自分で置いたボールに躓いたからだった。
漫画のように半回転しながら頭を地面に打ち付けた様に、生徒達は呆気にとられていただろう。
谷津倉の頭部を確認したが外傷はない。単に眠っているだけか。それとも頭の中の血管に異常ができてしまったかもしれない。
さてどうしようか、と宮田は頬に手を当てた。指先がひやりと冷えている。
「どうかされましたか」
通りかかったであろう、大男が話しかけてきた。歩いたままの姿勢で立ち止まっている。心なしか非常口のマークに似ている。
「井上先生こそ」
井上と呼ばれた男は、体育館の前方にあるステージを指差した。ステージの上に黒い衣服が置かれている。
「うちの生徒がジャージを無くしたって騒いでいて。昨日の体育で体育館を使用したので探しに来たんですよ」
井上の後ろから1人の生徒が出てきた。彼の肩までしか背丈がない。口元を両手で覆い、谷津倉を凝視している。
「松本、あったぞ」
生徒は小さく頷くと、小走りでステージへ向かった。内巻きの毛先が小動物のように跳ねている。
宮田が経緯を説明すると、井上はしゃがみこんだ。体育館に関節が鳴る音が響いた。
「なるほど。では私が谷津倉先生を保健室まで運びましょう。宮田先生は朝礼に行ってください。まだ残暑が残っているのに校庭で朝礼をするなんて、倒れる者がいてもおかしくありません」
そう言って苦々しく窓へ目を向けた。
9月9日、月曜日。2学期が始まって1週間が経っていた。9月の中旬とはいえ朝から蒸し暑い。今日の朝礼は体育館で行う案もあったが校長が首を縦に振らなかったのだ。
後期最初の朝礼は2週間前にあったが、生憎の雨で体育館だったから、今回はどうしても外で開きたいらしい。
「いいんですか?1人で運べますか、黒田先生とか呼びましょうか」
「なんで黒田が出てくるんですか」
井上は苦笑した。
だって仲がいいでしょう、と続けて言おうとして、宮田は言葉を飲み込んだ。
黒田崇は体育教師だ。井上とは対照的に背が低く、体つきはがっしりしている。生活指導を担当していて生徒達の嫌われ役を引き受けてくれているが、飲み会やイベントなど、公務外行事の付き合いが悪く、無愛想な男なので先生間の評判も良くなかった。
そんな黒田が唯一笑顔で会話しているのが井上だった。
井上は大人しいが人付き合いは上手かった。現に、生徒に頼られてジャージを探しに来ている。
「眠っているだけならいいですけど、もしものことがあるので救急車を検討に入れましょう。今呼んでもいいかもしれません」
宮田は自身の眉毛をなぞった。困った時の癖だった。
「宮田先生に判断を任せますよ」
井上は谷津倉を横抱きにすると腕時計を確認した。釣られて宮田も時間を確認すると8時になっていた。朝礼が始まる時刻だ。
「谷津倉先生がお姫様抱っこされている……」
戻ってきた生徒が呟いた。ジャージを制服の上に羽織っている。スカートが数センチしか見えなくなってしまったが、彼女達若い世代はこれが好きなのだろう。
「松本も朝礼に行くように」
生徒は不満げにしながらも体育館を出て行った。時折こちらを振り返っている。
「今のって松本あかりさん?」
そう、と井上は言った。松本あかりもある意味で有名だった。
「さすが彼女ね、違う学年の先生の名前までわかるなんて」
宮田は松本が去ったあとを見つめながら言った。先生の口調ではなかった。
*
近山高等学校は、中村橋駅から降りて少し歩いた場所にある。
池袋から電車で数分というアクセスの良さ、交通の便の良さ、穏やかな学校周辺。学力は可もなく不可もないが、リボンがトレードマークの可愛い制服が人気の女子校だ。
数年前に共学にしようと目論んだが、男子が1人も入らず断念した歴史があった。
門をくぐると校庭があり、階段を少し登ったところに校舎がある。校舎は中庭を囲うように建ててあり、中庭は生徒の憩いの場として人気があった。
*
井上は、おや、と思って足を止めた。保健室のドアが開きっぱなしなのだ。
宮田は几帳面で、些細な外出さえも鍵を締めていく。そのせいでよく生徒が廊下で待つことが多々あった。
もしかしたら今朝に限って忘れていたのかもしれない。もし閉まっていたら谷津倉を一旦置いて鍵を取りに職員室に行かねばならなかったので助かった。すでに腕は悲鳴をあげていて、彼の図体は床に落ちそうになっていた。肩を扉につけ、器用にスライドする。
保健室に入ると薬品の匂いに包まれた。
化学室も似たような匂いだが、ここの匂いは癖がないので嫌な感じはしない。生徒が科学室で息を止めている様子を見ると悲しくなるが、むしろわざわざ教室から移動してきてくれてありがとう、という感謝の方が強かった。
谷津倉を慎重にベッドへ寝かすと、運動靴を脱がせてあげる。癖っ毛の前髪から覗く顔はまだ幼く、生徒と同年代に見えなくもなかった。
谷津倉真は、今年の4月に近山高等学校にきた新米教師だ。担当教科は国語になる。
天然のパーマとタレ目が特徴だが、早々に教頭に目をつけられ、夏休み前に髪を短く切った。頭の形がわかるほどの短さは生徒のからかいの対象になり、登下校時に帽子を被るようになった。
本人は日差しが強いから、と言い訳をしていたが、その後ろ姿が悲しかった。
井上は、似合うよ、とフォローを入れたが、泣きそうな顔をされたのでそれ以来触れていない。夏休みでやっと元の長さになった髪に、教頭はもう何も言わなくなった。
谷津倉は寝息を立てている。
グレーのスウェットが空気の入った風船のように動いていた。
保健室は陽当たりのいい場所にあり、透けたカーテンから入った光が、部屋全体を照らしていた。テーブルも椅子も、体重計や洗面台も白で統一されているが、朝日の影響で黄味帯びていると錯覚してしまう。
ここが学校ということを忘れそうになるほど穏やかだった。
チャイムが鳴った。高音とも低音ともいえない録音された機械音がスピーカーから流れる。
井上は瞼を開けた。立ったまま寝ていたらしい。
時刻は8時15分。穏やかに寝ている谷津倉先生が羨ましいな、と思った。
仕切りのカーテンを閉め、なんとなく保健室を見渡すと、目が合った。
1人の女生徒が宮田の机でノートパソコンに向かっていたのだ。女生徒は猫目をさらに大きくして固まっている。
突然、先生が先生を抱えてきたので驚いたのだろう。小さく会釈する。その時、髪で顔が隠れた。彼女の髪は透けるように光った。金髪だった。
近山高校は校則が厳しいので明るい髪色は目立つ。故に井上は彼女を知っていた。名前まではわからないが、よく黒田が言っていた。
何度注意しても黒染めしない奴がいる、と。大抵の生徒は内申で脅すと直してくるが、彼女は進学する気がないらしい。
黒田はこうも言っていた。あいつはどうかしている、と。
彼女はノートパソコンを畳んで立ち上がった。
そしてそのまま出て行こうと横切る。
「そのパソコンは宮田先生のじゃないか」
気づいたら腕を掴んでいた。
親指と人差し指がくっつくほど、彼女の腕は細かった。
「……そうね」
彼女は井上の首元を見つめながら答えると、両足を引きずるようにゆっくりと移動し、脇に挟んでいたパソコンを机に戻した。
一方、井上はずっと名前を思い出そうと頭の中で名簿をめくっていた。
井上は主に1年生を担当している。彼女は確か3年生だが、どこのクラスかわからない。
「宮田先生に頼まれてパソコンの調子を見ていたの。本当だから、なんなら先生に聞いてもいいから」
彼女はパソコンの上に布を被せると、今度は違うドアに向かった。
井上は違和感に気づく。ファーストコンタクト以来、1度も目が合っていない。避けるように、井上のネクタイや背景を見て話している。
明らかに避けている。宮田のパソコンを勝手に触っていたと思っているのだろう。
ドアを開こうとするが鍵が閉まっているらしく、何度も引いている。子猫がなんとか逃げようと行き止まりでもがいているようだった。
「えっ」
突然の叫び声。谷津倉が起きたのだ。恐る恐るカーテンを開き、ここが保健室だと確認する。まだ眠いのか何度も瞬きをしながら話し出した。
「井上先生……すいません、僕」
寝ていたみたいで、と最後はほぼ聞こえなかった。
「頭を打ったらしいですね。大事をとって病院に行くようにと言伝を頼まれましたよ」
「え、大丈夫ですよ。このあと1限があるので早く行かなきゃ」
谷津倉はベッドから這い出た。自分の靴に気づき、履き始める。そして何度か顔を両手で擦った。寝起きの動物が顔を洗うようだった。
気づいたら彼女はもういなく、保健室にいるのは2人だけだった。いつの間にか後ろのドアから出て行ってしまったらしい。
突然、サイレンの音が響く。チャイムよりずっと高くて耳の奥に響いた。
「井上先生、救急車呼んじゃったんですか?」
谷津倉は困ったようにベッドに腰掛けた。初めての救急車に緊張しているようだった。
「いや、呼んでないですよ。もしかしたら宮田先生が呼んだのかもしれません」
井上は慌てて首を振る。
近づいてきた音がだんだん遠くなり、やがて止まった。
「校庭かな」
職員用の駐車場は保健室の真横にある。体育館も近いのでバスもここに止まる。他に止まれるとしたら校庭しかなかった。
「熱中症の生徒が出たのかもしれません。だから言ったのに」
井上は校長を思い出して小さく唸った。
「ちょっと様子がおかしくないですか」
谷津倉はふらふらと窓側に寄った。スウェットの首元がよれていて、病人のように覇気がない。井上も窓から外を覗く。
校庭から、生徒たちが校舎へ向かっていた。よく見ると泣いている者もいて、何度も校庭の方を振り向く者もいる。だが、ほとんどは笑顔で友達と談笑していた。
大方、熱中症の人が出て朝礼が中止になったのだろう。だが自体は想像以上に深刻だった。
黒田崇が死んだ、と聞いたのはその日の夜に行われた職員会議だった。
*
「はい、そうです。校長先生の話が終わり、最後に生活指導からの話ということで黒田先生が朝礼台に立ちました。服装ですか?黒いジャージでした。いつもの格好です。前に立ってしばらく生徒たちを見渡します。あまりにも話し出さないのでマイクの調子が悪いのかと放送委員が朝礼台へ登りました。その時ですね。突然、黒田先生が苦しみ始めました。マイクを持っていない方の手で自身のジャージを掴み、崩れ落ちました。ずっと下を向いて、ケーって口から音が漏れたそうです。あ、これは放送委員が言っていたことです。黒田先生はしばらくうずくまったあと、静かに倒れました。はい、倒れた時に私も朝礼台に登ったので」
宮田は一息つくとまた話し出した。
「みんな、固まっていたと思います。私もそうでした。どうしても体が動かなかった。何とか黒田先生に数回話しかけ、反応を見ましたが全く……。放送委員に救急車を呼ぶように言いましたがその子も固まっていて。いえ、私自身が叫んでいたかもしれません。すいません、記憶がどうも曖昧で……。」
そのまま口をつぐんだ。話は終わりらしい。
「と、警察に話したんだね?」
校長が確認すると宮田は頷き、そのまま座った。
21時を回ったが、先生は誰も帰らず職員室に集まっていた。校長は井上と谷津倉を交互に見る。人の良さそうな初老だが、それは見た目だけで実際は傲慢な人物だ。
「はい、話は大体分かりました。黒田は今病院ですか」
「いや、警察が預かっている。先ほど死因が判明したらしい」
身元ではなく死体というのだろうな、と谷津倉は思った。
事務の若い子が声もなく泣いているが、他の皆は深刻な表情だった。
校長の横に立っていた教頭が話を始めた。教頭はいつも真珠のイヤリングをしている。
そして同じ服を着ているところは見たことがない。谷津倉は教頭を見るたびにプラダを着た悪魔を思い出していた。
「死因は青酸カリによる中毒死のようです。後日、警察が詳しい詳細を伝えてくれるでしょう。明日から警察が学校に訪れますが捜査に協力するように。でも、最も守っていただきたいことは、」
教頭は言葉を切り、声のトーンを落とした。
「生徒のケアが最優先です。黒田先生のことは極秘ですが、すでに情報は漏れています。目の前で知っている先生が倒れるなんて、今後の人生に影響があってもおかしくないショッキングなことです。聞かれても答えずに、できるだけ日常の生活を心がけるように。こちらの対策としては心理カウンセラーの設置を検討しています」
そして1歩下がり、視線を落とした。
谷津倉は気を引き締めるように姿勢を正した。
事務の子を、宮田と他の先生が宥めている。特別黒田と仲が良かった訳ではないが、人が死んだという事実にショックを受けているのだろう。
「あの……」
谷津倉は井上に話しかけようとして辞めたが、もう井上は振り向いていた。
「どうしました」
そう答えた声が、乾いている。どう話しかけていいのかわからず、谷津倉は小さく首を振った。
井上は黒いノートパソコンを抱えていた。帰る準備をしているのだろう。ノートパソコンに反射する自分を、谷津倉は見つめていた。
井上と黒田は職員室でよく談笑していた。コーヒーを飲みながら、時折声を出さずに笑う。2人のどちらかに用がある人は、2人の会話が終わるのを離れて待っていることが多かった。ある時、他の先生が井上になんの話をしているのか尋ねると、読書の趣味が合うんだよ、と笑っていた。
同業者だが友人と呼ぶには遠い人間が死んだ。
谷津倉は井上に慰めの言葉をかけなくて良かった、と思った。
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