第8話
転校して四日目の朝。教室の窓は全開。外から涼しい風が入り込み、蒸し蒸しとした空気を払い飛ばす。
俺は重い瞼を擦り、海凪が登校して来るのを座して待つ。
昨日は彼女と会えるのが楽しみ過ぎて、寝れなかった。こんな幸せな寝不足は今まで経験したことがない。小学時代の遠足より何億倍、ワクワクが止まらない。我ながら初々しい。
「おはようございます!」
「――あ、ああ、おはよう……」
クラスメイトの歯切れの悪い挨拶。こっちは元気よく挨拶しているというのに、態度が冷たい。明らかに温度差がある。もしかして、俺が海凪と付き合っているからか――?
早速除け者扱いは笑えない。全員と仲良くなるという夢は早々に潰えた。
「――フゥ」
ずっとソワソワ、ソワソワ――。久しぶりに貧乏揺すりが激しい。
「よし」
ようよう待ち切れなくなった俺は勢いよく廊下へ飛び出す。傍から見れば、ただの奇行だ。
「お、あれは!?」
視界の先には海凪。おぼつかない足取りで、廊下を歩いている。
「おはようございます、海凪さん!!」
「お、おはよう……」
挨拶に覇気がない。こちらを鬱陶しそうに睨む。今日は一段と目つきが悪い。目の下に隈ができている。それに――
「昨日、泣きました?」
「ハァ?」
「瞼が赤く腫れてますよ」
「嘘ッ!?」
カバンから手鏡を取り出し、慌てて顔を確認し始める。
「化粧したはずなのに」
それだけじゃない。
「なんかほっぺたに傷がありませんか?」
「キズ――? あっ!」
爪で引っ掻かれたような傷跡。意外と傷は深く僅かに血が頬を伝う。
「これはなんでもない!」
海凪はバツが悪そうに傷を隠す。
「誰かに引っかかれました?」
「えっと……」
「猫ですか?」
「——そ、そう! うちの飼い猫が急に暴れ始めて、引っ掻いてきたの。た、大変だったなぁ〜」
はい、ダウト。顔の表情から声のトーンまでいつもと違う。ついでに瞬きの数も急に多くなった。どうやら彼女は嘘をつくのが下手らしい。
「取り敢えず、保健室に行って手当てしてもらいましょう」
「いいよ。このぐらいの傷、日常茶飯事だし」
「日常茶飯事なんですか!?」
見た感じ、そこそこ痛そうな傷だ。ただの擦り傷ではない。
「保健室に行きましょう」
「絶対、イヤ」
「こら、ちゃんとお兄さんの言うことを聞きなさい」
「いつの間に私はアンタの妹になったんだ――!」
ギャーギャーうるさい。注射を嫌う幼稚園児のように駄々をこねる。
「――お前ら、早く教室に入れ!」
ホームルームの時間が間近に迫る。先生の怒鳴り声が聞こえてきた。
「ほら、そこ退いた退いた。私はサッサと教室に入る」
「それはいけません」
「うがっ……!?」
急いで教室へ入ろうとする海凪の体を俺はひょいっと持ち上げる。お嬢様抱っこだ。
「ア、アンタ、なにしてんの⁉ 早く下に降ろせ‼」
「強硬手段になりますが、すみません。個人的に藤春さんのそのお美しいお顔に膿ができてしまっては困るので、直ちに保健室で消毒してもらいます」
腕の中でジタバタと必死に足搔く。無駄な抵抗なのに。
「クソ、力が強くて、何もできない……」
「ふふん。こう見えても一応、筋肉には自信があるのですぐには逃げられませんよ」
俺はわりと着せ瘦せするタイプ。顔が薄いのもあって人から舐められやすいが、男の中では筋肉がついている方。毎日、プロテインと筋トレは欠かせない。もしも海凪が不審者に襲われても、救い出せる自信がある。
「「「おぉ……」」」
近くにいた男衆の驚嘆の声。海凪を持ち上げる俺へ小さく拍手を送る者もいた。
「さあ、保健室へ向かいましょう」
「なんでよぉ……」
海凪を抱えたまま、三階から保健室がある一階まで駆け下りる。彼女の体重は普段トレーニングに使うダンベルより遥かに軽かった。
◆◆◆
「――全部自分でやる。アンタはそこに座っといて」
保健室には誰もいなかった。自分たちで何とかしろということだろう。
俺は早速、傷の手当てを行おうとするが海凪に激しく拒まれた。悲しい。一応、彼氏なのに……。
「藤春さん」
「ん?」
「それ、誰にやられた傷なんですか?」
「知らない」
「クラスメイトの誰かですか?」
「知らない」
「先生ですか?」
「知らない」
こちらの質問にまともに答えようとせず、知らないの一点張り。このままでは埒が明かない。
「一体、誰が殴ったんですか?」
「別に誰だっていいでしょ? 部外者は黙ってて!」
「ちゃんと答えてください。俺は貴方の彼氏ですよ。部外者ではありません!」
手慣れた感じで頬に絆創膏を貼る海凪。暫し口を噤んで考える素振りを見せる。
「——お父さんが殴ってきた」
海凪はそう答えた。予想外の人物に俺は目を丸くする。
「父は令和に似合わない昔気質の亭主関白。いつも自分の理想を子どもに押しつけ、理想に反することをするとすぐに手を出す。たとえ自分と血の繋がった娘だろうと容赦しない。気が済むまで鬱憤を晴らし続けるクソ野郎だよ。ちなみに今日の怪我はまだマシな方。酷いときは一生残りそうな『恐怖』と『傷』を植え付けてくる」
海凪はスカートの裾を徐にたくし上げ、太ももを見せてくる。
「これ、全部お父さんから受けたヤツ」
真っ白な太ももには紫に変色した痣が点在する。見るだけでも痛さが伝わってくる。
「最近は私がやらかしたせいで暴力が過剰になってて、マジでヤバい」
「——」
頭の中で解決策を必死に模索する。しかしお頭が悪い俺では、海凪の父親と直接話し合って考えを改めてもらうしか方法見当たらない。
「——それはムリよ」
「え?」
「アンタはまだ私との関係が浅い。お互い謎が多すぎる。そんな状態で父と話し合うなんて有り得ないわ。却って墓穴掘ることになって、事態がややこしくなっちゃう」
どうやら安直な考えがバレていたようだ。問答無用で却下された。
「これは私だけの問題。アンタの出る幕じゃない」
「でも、貴方の彼女ですよ。黙って見過ごすわけにはいきません‼」
「だったらまず、私をちゃんと知ってほしい!」
消毒を終えた海凪は椅子から立ち上がり、俺の元へ急接近。お互いの唇が当たるか当たらないかの距離間まで詰め寄る。突然のことに俺は思わずよろめいてしまう。
「私はアンタの彼女なんでしょ? なら、私のことをもっと知らないと話にならない。今の私たちはまだお世辞にも恋人同士とは呼べない——」
耳元でそう囁かれる。クソ。さっきから自分の鼓動がうるさくて集中できない。
「”一目惚れ”で全てまかり通るとは思わないで」
海凪はそう言い捨て、俺から離れる。救護箱を片付けて、出入り口の扉に手を
かける。
「ゴメン、なんか急に生意気なこと言っちゃって。やっぱ今のは忘れて」
彼女は寂しそうに笑ったあと、扉をそっと閉める。
俺はその場で立ち尽くしたまま、数分過ごした——。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます