six feet under3
呆れて笑ったマーティンが連れてきたのは旧海亀島の中では多少マシな部類の連れ込み宿兼酒場だった。
店の主人によって最低限整えられてはいたが、質の悪い獣脂の蝋燭を燃やしているせいか、客の匂いか、すえた臭いのする昼でも薄暗い店で、男娼に身を堕としてすらそんな場所に縁のなかった自分には居心地が悪い。
ウィステリアは肩身を狭くして、クッションもないスツールに腰をかけた。
「掃き溜めに鶴というのはこういうことを言うんだな」
マーティンに言われて首を傾げ、こちらを遠巻きにしていた酌婦達に視線をやると男慣れしているはずの女達が歓声にならない歓声を上げて後ずさった。
「マーティン、その美人は誰だい?」
マーティンの知己と思しきこの宿の女将が使い込まれた木製のジョッキに薄い酒を入れてアレックス達の前に置きながら尋ねた。
「あー。そういや名前も決めてなかったな。元の名前は?」
「隣の島と同じ名前なので、今や名乗りづらいですよ……」
「オクシデンス……いや、あれか? あのクソ総督がつけた新しい名前……エリアス?! うそだろ?!」
声を抑えて怒鳴りつけるという器用な真似をしたマーティンにウィステリアは顔をしかめた。
「王子の乗った船に乗っていたと話し、顔と護衛のおかげで生き延びたと教えたんだ。普通なら察するでしょう?」
「無茶言うな! お貴族様の事なんか遠い遠い空の向こうのお話だってんだ! 王子様なんて神様みたいなもんで、いるとしか知らない存在だ。生まれも育ちもドブ板の上の庶民に分かると思うか?」
「冗談ですよ。冗談。本当に王子なら、あの海賊共は奴隷島で私のことを端金で売ったりなどせずにメルシア本国に身代金を請求しているでしょう」
「どっちだよ! まあいい……自称エリアスだとしてエリアス……ウィステリア……オクシデンス……ウィス、ウィルクス…、ウィリス、オリアスだと近いな……」
ブツブツと口の中で呟いたマーティンが顔を上げて指を指した。
「決めた。お前はアレックス。中性的な名前だからお前にぴったりだ!」
「名前を決めたってどういうこと? どこかから拐かして来てこれから売るとか? たしかに一財産になりそうな美人けどさ」
「マーティンに身請けしていただいたんです。この間までウィステリアと呼ばれていましたが、今日からはアレックスと呼んでください」
女将の皺の目立つ手を取ってにこりと微笑むと、女はよろめいた。
「ウィステリア!? ラトゥーチェフロレンスの徒花は本当に男だったのか。お噂はかねがねっていうか、噂以上じゃないか。寿命が延びるねぇ。今日は奢りだよ。二人とも好きな物を食べておいき。後からうちの一推しを持ってきてやるよ」
「ありがとうございます。嬉しいです。お礼になるかはわかりませんが、そこのフィドルをお借りしても?」
満面の笑みでふと目についた弦楽器を指さすと女将が小走りでそれを持ってきてくれる。
弦楽器は調律もまともにされていなかったが、少し音を整えてひとくさり曲を奏でると、静寂が酒場に広がった。
「お耳汚しでしたか?」
一拍置いてマーティンは口笛を吹いた。
「この短距離で足にマメを拵えてる虚弱じゃ、マストも昇れないと頭を抱えていたんだが、音楽家なら話は別だ。買った値段はさておき船での役割には充分だ」
「とんでもない音楽家じゃないか……こんな綺麗な曲、聞いた事ないよ」
「少し品が良すぎるけどな! 俺達の気に入りを教えてやるから弾いてくれ!」
こちらに声を投げかけた酔客が少し外れた調子で歌うのを聴きながら、それに伴奏する形で演奏すると、酒場がわっと盛り上がって皆歌い、踊り、やがて喧嘩を始める。
演奏を止めて大規模な喧嘩に発展した酒場の様子を呆然と見つめたアレックスに、マーティンは面白そうに肩を震わせてジョッキを開けた。
「荒くれ者の世界にようこそ。アレックス。俺と一緒に暮らすのなら、これがお前さんが今日から生きる新しい世界だ。どう感じた?」
「……野蛮で、刹那的で、品がない」
「言うねぇ。だが、皆底抜けに明るく、生き馬の目を抜きながらその日その日をめいいっぱい生きている。俺はそれをこよなく愛しているんだ。で、お前さんはどうする? 俺は名目上お前を買ったが、代金を払ったのはお前さん自身だ。総督に保護を求めるなり、今は無理だが、落ち着いたらメルシアに送るなりしてやってもいい」
アレックスはその申し出に言葉を詰まらせ首を振った。
「ここに残ります。メルシアに帰っても死ぬだけでしょうし。まだどう生きるべきなのか分かりませんが、死ぬわけにはいかないから」
「なら、まずはその馬鹿丁寧な、もって回った口調はやめろ。丁寧すぎて分かりにくいんだよ。自分の事も私じゃなくて俺の方がいい」
アレックスは頷いてジョッキに注がれたライム味のする水のように薄いモラセス酒を舐めた。
そこに慣れっこといった様子で喧嘩の隙間を縫って、女将が何かの串焼きを2本持って来てくれる。
「ほら食べて。うちの自慢料理だよ! 外の屋台でも売ってるんだ」
「おっ。今日はサービスが手厚いな。こんなにデカい肉出されたの久しぶりだ」
「あんたはついでよ、ついで」
マーティンがうれしそうに串焼きを頬張るのを確認してアレックスはそれをおそるおそる口へ運んだ。
「辛っ……! スパイスをこんなに使ってるのは贅沢だな。だが何の肉だ? はじめて食べる味だが……」
「ディフォリアだとスパイスはお高いんだっけ? この辺りの島なら植えときゃ取り放題だからね。うんとつかえばどんな肉でも同じ味さ」
「どんな、肉でも?」
「今日のこれは馬肉だろ。いいとこ持ってきてくれたな」
「今日の、これは?」
「肉はその日に入った肉で店主の気まぐれだ。どんな肉でも美味く感じる特別なスパイスなんだと。ネズミのことも多い。ちなみにここで命の取り合いがあった翌日の肉は格別の味だぞ」
馬肉と聞いて顔をしかめた自分が面白かったのかいたずらめいた表情でマーティンに言われ、アレックスは喉に肉を詰まらせた。
「ぐっ! げほっ……!」
「冗談だよ。お貴族様ジョークのお返しだ。ドブ板ジョークもなかなかのもんだろ。とはいえここで生活するなら、この悪趣味さが冗談じゃない場合もあると覚悟しろ。ここではちょっとしたことで人は死ぬ」
「その恐ろしさは……この身に刻まれている」
アレックスは腰骨を叩いた。服で隠れてこそいるが、そこには奴隷の刻印が刻まれている。
「まずはうちの船員共だな。俺が大枚はたいてお前を買ったと知りゃあ、いい顔はしない」
「それについては手立てを考えてある。任せてくれ」
「手立て?」
眉を持ち上げたマーティンにアレックスは肩をすくめた。
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