ハンバーへの旅路にて

※続編NTR王子は悪役令嬢と返り咲く113話後のアレックスとケインの話になります。

これ単体でもお読みいただけますが、続編110話辺りから読んでいただくとより趣深いかと思います。

————


 レジーナとリアムに見送られて、船はキュステ港を出航した。ここからハンバーまでは風にもよるが二週間から三週間程度かかる。

 ケインは船縁でぼんやりと海を見つめるアレックスに外套を掛けた。


「冷えるだろう。中に戻ろう」


「ああ、リヒャルト。すまない」


 何気なく返された名前に眉を上げて、ケインはアレックスの額に手を置いた。


「熱がありますね。エリアス殿下。お部屋までお連れします」


「ああ、どうりで身体が火照ると思った」


 口調を父を思わせるそれに変えて、アレックスを抱き上げる。


「自分で歩けるぞ?!」


「相当熱が高いですし、海の上ですからね。バランスを崩したら大変でしょう?」


 小さく頷いたアレックスは無条件に身体をケインに預けて甘えるようにその胸で頬を擦る。


「お二人と別れるのが辛かったですか? 殿下」


「辛いに決まっているだろう。次会えるのは一年……下手したら二年後だ。ユリアはあんな風に甘えてくれる事なく、涼しい顔でもう子供じゃないのよ、とか言い出すんじゃないかな」


「そうですね。きっとおっしゃいますね……」


「ひょっとしたらユリアに弟妹が産まれているかもしれないしな」


 エリアスはリヒャルトにたいしてそんな明け透けな話をするほど心を許していたのだ。

 彼と自分は相愛である自覚はあるが、ちょっとしたことで父とエリアスの築いてきた信頼関係とは質が違うと思い知らされる。

 父はエリアスが無条件に全てを委ねられる存在だった。

 ないものねだりだと分かっているが、ほんの少しそれに嫉妬する。


「お子様が生まれたらなんと名づけるおつもりですか?」


「男の子ならマクシミリアン、女の子ならアメリアかな。だが私は不在だろうから、オディリアが違う名をつけるだろう。それはそれでいいと思っている」


 だから、帰国後にどんな名前がついてても実はこんな名前を考えていたようだ、などとリアに言わないでくれ、私とお前の秘密だぞと、アレックスはくすくすと笑う。

 そんな彼を甘やかすように身体を密着させて、ケインは髪を漉いた。

 エリアスは妻と子供らに見送られて乗った統治領行きの船でナザロフに襲われた。

 レジーナとリアムとのキュステ港でのしばしの別れが、それを思い起こさせて、アレックスに相当な負荷を掛けたに違いない。

 いやそもそも、メルシアへの帰国自体がアレックスに絶え間なく負荷を掛けているようにケインには思えた。

 ただの港での一時的な離別に過ぎない別れで閥値を越えたのはそのせいだろう。

 エリアスの心自体はもうとっくの昔、ナザロフに襲われた時に砕けて、完膚なきままに壊れている。

 それを父の生きろという言葉だけで寄せ集め、アレックスという別人としての皮をかぶって本国とは関わりのない南溟の楽園で今までなんとか平穏に暮らしてきたのだ。

 だが、本国に戻れば誰もかれも皆、彼をエリアスとして認識する。

 彼は皆の期待に応えるために、エリアスとして行動する。

 非の打ち所がない王兄殿下。正嫡でありながら影で国の発展を支えて弟に王位を譲った兄。

 公正で清廉な美貌の公爵。


 それはすべて傷ついて寄せ集めた心をむき出しにするに等しい行動だ。

 だからちょっとしたきっかけで、彼はこんな風に過去に心を戻らせる。


「何もかも捨てて、耳を塞いで、目を閉じて、あの南溟の楽園に戻ればいいんですよ」


 辛い思いをして関わることもないのにと、意識を失ったアレックスに向けてケインは呟く。

 彼は逃げない、すでにエリアスとして生きると決めているとわかっていても、ケインはそう思わずにはいられなかった。



※※※


 船の寝台としては最高の寝心地にしつらえた船長室のベッドにアレックスを運んで服を緩めて寝衣に着せ替えてやり、上掛けをかける。

 水に浸した布を額のうえにおいてやると、ケインはアレックスの為に厨房に行きスープを用意して取って返す。

 部屋に入ると寝台の中ではなく、部屋の隅の床の上で膝を抱えるアレックスの姿があった。


「も、もうしわけありません……寝台で眠ってしまって」


 うずくまって詫びるアレックスを見てケインは戦慄した。この彼は見たことがない。

 先程までのように自分を父と間違える事が一番多いが、男娼をしていた時に戻った彼には会ったことがある。

 だがその時とも、この彼は違う。


「お願い、します。なんでもしますから、許してください。殺さないでください」


 死への恐怖に美貌を歪めて、ひれふして、足元に縋りついて、生き残る為に自らの命を握る死神に惨めに阿る。

 普段の誇り高い彼からは想像もつかない姿。

 船が襲われて、ナザロフに捕まっていた時の彼だ、と、思い当たってケインは震えた。

 彼は父との約束を守る為に、こうやってあの醜悪な男に縋って身体を委ねて彼は生き延びたのかと。

 それはあまりにも痛ましく、やるせなかった。


「エリアス殿下、私はリヒャルトです。ほら、あなたからいただいた剣もあります。あの不逞な海賊は縛首に処しました。彼はタールを塗られてハンバーに晒されています。ハンバーについたら見に行きましょう」


 そう言ってケインはアレックスにそっと手を伸ばす。


「うそだ……! リヒャルトは死んだ! いやでもリヒャルト? なあ、お前は誰だ?!」


 普段は彼の狂気の世界を壊さないよう優しい嘘を重ねて振る舞うが、その手を弱々しくはたかれて問われ、ケインは誤魔化すのをやめた。


「ケインだよ。仕方がないと分かっているけれど、恋人を忘れる貴方は時々とても残酷だ。なあアレックス。これは、ハンバーからリベルタに向かう船じゃない。キュステからハンバーに向かう、ちょっとした旅だ」


「ケ、イン??? こい、びと?? そう私達は思いあって……え? でもケインとはハンバーで別れて……船は襲われて……ああ、私は都合のいい幻覚を見ているんだな?」


頭を掻きむしろうとするアレックスの手をケインは止めて優しく声をかける。


「幻覚なんかじゃない。ここが現実だよ。怖い夢を見ただけだ。一緒に船に乗ったろ。貴方の好きなスープを作ってきたから、食べよう」


 ありあわせの材料で作った赤狼団のスープを見せてテーブルに誘うと、まだ全く正気ではない顔でアレックスは席につき、スープを掬おうとした。


「あれ??」


 かたかたと震える手に首を傾げるアレックスの横に座って、ケインはスプーンを手に取って掬ったスープをその口元にはこんだ。


「口を開けて」


 子猫が舐める程度の量のスープをアレックスは飲み込んだ。


「味を感じる?」


 こくりと頷いたアレックスにもう一口スープを飲ませる。


「美味しい? 自分で飲んで」


 スプーンを持たせ、その身体を後ろから包むように抱きしめ、アレックスを介助して彼自身の手でスープを飲むようにケインは導いた。


「アレックス、分かっただろう。こっちが現実。さっきまで見ていたのが幻覚だ。お前の敵は俺が全て排除したじゃないか」


「あ……」


 アレックスの視点が定まり、ケインの顔を見上げる。

 だから、ケインは想いをこめてアレックスの額に口付けた。


「これからも、貴方の敵は俺が屠るし、貴方のことも貴方が守りたいものも全て俺が守るから、心安らかに今と未来だけ見つめて」


「ケイン……」


 力なく握られていた銀のスプーンがアレックスの手からすべり落ちる。


「港で別れて船に乗っても大丈夫。怯えないで。必ずレジーナ達に再会させるから」


「怖かった……もう割り切れたと思っていたのに」


 震えるアレックスを抱き上げ、膝の上に乗せて寝台の上に腰掛けるとケインは甘やかすようにキスの雨を降らせる。


「怖いのは当然だ」


 アレックスは涙をこぼしてケインに縋りつく。

 その背中を何度も撫でてやると、アレックスはおずおずとケインの唇を喰んで、小さな声でねだる。


「上書き、してくれないか? 優しく抱いてくれ」


 ケインは、それに応えるようにアレックスに深く口付けた。


 ※※※


「おはよーっす。明日にはハンバーにつきそうですけど、アレックスさん大丈夫ですか?」


 ライモンドに尋ねられ、清拭用の一式を持ってアレックスの船室に向かう途中だったケインは肩をすくめた。


「大丈夫。もう回復している。大事をとって休ませているだけだ」


 ライモンドに明日に向けた簡単な指示を与えて、ケインは部屋に戻る。


「明日にはハンバーにつくそうだ」


 そう話しかけると、ベッドの上の麗人はくったりと気怠げな視線をケインに向けた。


「歩けるといいんだが……」


「立てないなら俺が抱き抱えるから、大丈夫」


「確かに抱いてくれとは言ったが、三週間! 昼夜問わずさかりまくれとは言ってない! 食って寝てやっての繰り返しなんて爛れてる! それにそれでけろっとしてるって、どういう体力しているんだ! お前は」


「蜜月みたいで良かっただろ?」


「やりすぎだ! 馬鹿!」


 頬を膨らませ、キスのしすぎで赤く色づいた唇を尖らせるから啄んでやると、まんざらでもなさそうにアレックスはそれに応えて頬を赤らめた。


「上書きは出来たから許すけども……」


 ケインは清拭の道具を机に置いて服を脱ぎ捨てた。

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