古い名、新しい名前(本編終了10年後)
シガールームに充満するのは煙ではなく、酒の匂いだ。ソファーに凭れて微かな寝息を立てるアレックスを見て、男はこの部屋にもう一人いる若い男に声をかけた。
「そろそろお開きにするぞ」
「まだ飲めるんすけどぉ、俺。でも、ヤバないすか? なんでケインさん、それだけ飲んでなんで全く飲んでない風なんすか?」
自分と同じ色の髪と同じ色の瞳、顔は亡き父を含めたシュミットメイヤーの面影がよく出た強面だが、その表情は愛嬌や人当たりの良さがあり親しみやすい。
叔父ベネディクトの孫、従甥にあたるライモンドだ。
彼はレジーナの異母兄であるリアムと公爵令嬢ソフィア・ベルグラードが人買いに売られた時に彼らを助けて、共にリベルタにやってきた。
呂律が怪しくなってきたライモンドに水のグラスを渡して、自分の前のモラセス酒のグラスを開ける。
アレックスの用意する酒はどれも質がいい。それらはどれほど酒精が強くても水のようなもので、酔えたことなどない。
とはいえ、目が潰れかねない悪い酒を箱で飲んで、かろうじて味わうことができるかもしれない酩酊を今更試す気にはなれなかった。
「対毒訓練を受けた。まあ元々特別強かったみたいで酒はほとんど水だ。特にここに用意してある酒は質がいいから飲んでも無駄だ」
「らるほど……。逆にアレックスさんは痛飲するとか飲まずにはやってられないとか言ってた割には弱いですね。あと、なんていうか酔うとエロ……」
「指の先から刻んで鮫に食わせるぞ。お前は言っていいことか悪いことかの区別をつけろ」
「おぉ怖。さーっせん。ところで対毒訓練ってどこまでやったんです?」
「蓄積毒以外はほぼ通らなくなる程度までやってる」
「俺もやらされましたが、最後の方きっついですよね……。多少強くなりますけど致死量が上がるだけで効かないわけじゃないですし」
「個人差があるからな。俺はそこまで影響が出なかった。逆に影響が強い人間もいるな。リアム殿下が虚弱のはそのせいじゃないか?」
ライモンドはリアム王子の護衛として母親である男の姉が選んだのだろう。
そう納得が出来る程度に出来がいい。
多少浮ついているが最低限以上の仕事はする。
だが、まだ若くて経験が圧倒的に足りていないし、自分と違い、フィリーベルグでまっすぐ育てられた彼はその性根が善良だ。
だから、水を向けるとあからさまに視線が泳いだ。
「なんの、コトデスカ?」
「もう少し態度に出ないようにしろ。ユリアは毒で亡くなった。だからヴィルは毒を盛られても生き残れるようにあの子を鍛えているはずだ。違うか?」
「毒……そうですね。精神的な気質も強いですけど、毒で胃が荒れていて虚弱になってる部分もあるでしょうし。今でも健康状態を見ながら服毒させられてますし。こっちにきて少し健康的になりましたね。しかしなんていうか、おっかない…ほんとおっかないですね。陛下は。あの人、なにを隠して飲み込んでいるんですか? 怖いんれすよ……。今日の話もそうだし、あんただって生きてたし、学校で教えてる歴史もめっちゃ改竄されてるし。あと二十年、いや十五年あればノーザンバラの圧政に苦しむ小国をまとめて連合させた王と、それに義憤から手を貸した傭兵団、そこで出会った男女の愛の結晶の温厚で優秀な後継である新王の出来上がりだと思うんれす。テオドールのクソガキとその一派がネックですけど」
そこまで言って水を一息に飲んだライモンドは、男に対して疑問をぶつけてきた。
「そういえば、けいんさん、あなた死んでることになってるじゃないですか? 名前、大丈夫なんれすか?」
「大丈夫? ああ、死んだはずなのにとか、そういう話か?」
男は今、ケインを名乗っている。それについて彼は疑問に思っていたらしい。こくり、とそれにライモンドは頷いた。
「ケイン・トレヴィラスは一人だが、赤毛のケインなんて世の中にたくさん転がっている。それに『ケイン』は犯罪者ではなく、王宮で犬に噛まれて死んだ子供だろう。公文書の中ではな。ランスは生きている人間だが、王妃と駆け落ちした噂が広がってきて使いづらくなった。どんな名前を使うか悩んだ時に……おい!」
派手ないびきに話を止められてライモンドを見ると完全に眠っていた。
先程頷いたのは、肯定ではなくて単に船を漕いでいただけらしい。
休みにすると言っていたが、何を休みにするとは言っていない。仕事は休みにするにしても、稽古はいつも通りにやって泣きが入るまでしごいてやろう、と決意して彼を肩に担いで部屋に放り込んでシガールームに戻る。
座っていた自分がいなくなって、ソファーの上に足まで乗せ丸まって眠っていたアレックスを、男は壊れものを扱うように抱き上げる。
こちらに来てから三年ほど経った時だったか。
男は名前をどうするか考える必要に迫られた。
ディフォリア大陸で王妃と駆け落ちしたランスの話が充分に浸透し、リベルタに来た住民にも広がりはじめていたからだ。
そうなって、他の名前に変えるべくヴィルヘルムに渡された身元証明を確認したところ、何故かケインという名の物が混じっていた。
それを見つめてた時にアレックスが言ってくれたのだ。
「ヴィルにとってお前はケインなんだろう。わだかまりが解けてその名を使えるようになった時を考えて入れたに違いない。どうだ? 髪の色も戻したんだ。この名前に戻さないか?」
「だが、ケインという名前は……」
「引っ掛かりを覚える気持ちはわかるし、その名を付けたリヒャルトの顔も浮かぶが、俺はお前のことをケインと呼びたい。ケイン・メルヒオール・トレヴィラスでもシュミットメイヤーでもない、新しいケインとして俺と生きよう」
その躊躇を察したようにアレックスはケインを抱きしめてくれた。
だから、自分はその名前を再び使う気になったのだ。
腕っぷしという意味では自分が彼を守っているが、心のありようは彼が自分を守ってくれている。
あの時のアレックスの腕の温もりを思い出して微笑んだ男は首を支えて彼を抱えなおすと、その額に唇を落とした。
※続編「NTR王子は悪役令嬢と返り咲く」連載始めました。よろしくお願いします。
こちらの更新は不定期ですが、また番外編がありましたら投稿させていただきます。
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