番外編
働き方改革
ノックをしても返事のない書斎の中にランスが足を進めると、カンテラを複数個置いて手元を明るくした中、アレックスが黙々と書類の決済をしていた。
手慣れた様子で紙を仕分けながら、時折眉間を寄せて何かを書き込み、あるいはサインをしていく。
子供心に感心した書類仕事の速さは、大人になって色々分かってから見てもやはり破格で、これほど仕事の早い人間を見たことがない。
『兄貴がなまじ仕事が出来ただろ。王族の仕事にされた事が多いのなんの。あいつが口先で騙くらかして王に権利を集めたんだろうし、確かに国の安定を考えれば正しいんだが、何から何までやる事になっていてな。俺は兄貴ほど優秀じゃないから大変だよ……』
まだ幸せの残滓がメルシアにあった頃、ヴィルヘルムがそう愚痴っていたのを思い出す。
今考えると、エリアスは常に執務室で仕事をしていた。
このペースで仕事をして、早朝から深夜まで拘束されていたのだ。それを引き継がされた苦労は察して余りある。ヴィルヘルムは領土を広げる際に王の仕事を見直し、実力主義による官僚制を整備し、臣下に振り分ける体制を整えていた。
「悪い。気がつかなかった」
突然話しかけられ、考え込んでいたランスは肩を振るわせた。自分を見上げるアレックスの双眸が明かりの光を反射して金色に輝いている。
ランスと思いを交わし、レジーナを娘と定めた後、アレックスは今までの海賊然とした装いを改めて、その美貌を惜しげもなく晒すようになった。
その姿とシュチュエーションに、彼とはじめて会った少年時代を思い出して、胸がほんの少しだけ軋む。
「終わりにした方がいい。そろそろ真夜中だ」
「キリがいいところまでやりたいんだ。昼は客も多くて仕事が進まないし」
はぁ、と小さくため息をついて書類に視線を戻したアレックスはペンにインクをつけて決済のサインを書き込む。
「今日はこれで終わりだ」
ペンを取り上げてペン立てに戻すと、ランスはアレックスの椅子を引いて手を差し出した。
「せめて、これだけ済ませたいんだが」
未練がましく20cm程の書類の束を示した仕事中毒の手を取って強引に引き寄せ、手の甲に唇を落とすと、その目が恥ずかしげに伏せられた。
「この中で、明日の午前中までに終わらせないといけない仕事はあるのか?」
「無いが……なるべく早く終わらせた方がいいやつで……」
言い訳がましく口の中で呟くアレックスにランスは強く言った。区切りをつけないといつまでもやるタイプには強引に行ったほうがいい。
「なら、終わりだ。手が足りないなら明日手伝うから、二人きりの時間を持とう。それに父も口を酸っぱくして言っていたろ。よく食べて、よく寝て、鍛錬を怠らずに身体を作れと」
「あーあ。毎日こんな早くに寝かされて、近年稀になく肌がつやつやだよ」
「こんな早くって。もう夕の十一刻だろ」
「三刻も寝れば十分じゃないか。朝五刻半に起きるから、二刻半ぐらいまでは……」
「とりあえず行動できるだろうが、身体を維持するのにはそれじゃ足りないんだ。ほら、行こう。そうだ。眠くないなら、庭を歩かないか?」
アレックスは片腕を伸ばし、後手を逆の肩につけて身体全体を伸ばす。ずっと机の前にかじりついていたのか、バキバキと音がしそうな様子だ。
「そうだな。少しだけ」
アレックスの机の上に置かれたカンテラを各々逆の手に持ち、二人で指を絡めて手を繋いで書斎を出て、暗い邸内を歩いて庭に出る。
月明かりと煙るような星空を見ながらのんびり夜の庭を歩いた。
総督がメルシア旧王国の王宮の元庭師に依頼したという庭はどこか郷愁を誘う。
その庭師はゲルトナーの弟子に当たる人物で、イリーナが内廷の実権を握った時に解雇されたところを総督に雇用され、総督府をはじめあちこちにメルシア王宮風の庭を作っており、特にここの庭はこだわりを持って作らせたという。
しばらく歩いて、篝火で上品にライトアップされた噴水の側のベンチに二人で並んで腰を下ろした。
「綺麗だな……」
足元にカンテラを置き、ぼんやりと星を眺めていたアレックスがぽつりと呟いた。
「ああ。そうだな。メルシアでは見られない星もたくさんあって驚いた」
「男娼として部屋を与えられてバルコニーに出た時にそれを見て、違う空の下にいると絶望した事がある。だが、今は同じ空の下にいるんだな……」
「ずっと、共にいるから」
「ああ……」
おろした手指が重なり、先程と同じように繋がれる。
「ずっと、共にいるためにもっと健康に気を遣ってもらうから」
「待て、いいムードのところでそれか?」
「俺より十二も上なんだ。少しでも長生きをしてもらわないと。ムードなんかより、あなたが生きている方が大切なんだ」
鼻白んだアレックスのこめかみに軽く口付け、抱き寄せる。雰囲気だけは甘く作って、ランスは説教を続けた。
「まず睡眠時間、六刻が最低ラインだ。次に食事に関しては肉をもっと食べるべきだ。野菜を食べることは大切だが、肉を食べなければ力が出ない。だからちょっと動くだけで息切れを起こす。体力がなさすぎる。体力をつけるために毎日最低半刻は散歩をしてさらに半刻、剣の鍛錬してもらう」
「肉は脂が多すぎて、少し食べただけで胃がもたれるんだ。若い頃からそうだったから、無理してそんなに食べられないし、運動もそこまで体力がない……鍛錬は今やってる程度で充分だろ。というか、夜二人きりでデートしてるのにその話はいるのか?」
ぷぅと、頬が膨らみ、唇が尖るのが見えた。整った顔はそれをしても整ったままで、可愛らしいのに美しい。その尖った唇を啄んでランスは続けた。
「一番は、仕事量だ。もう少し他の人間に裁量を持たせて振り分けて、完全休業日を二日は持て。一緒に過ごせると思っていたレジーナががっかりしているのは知っているか?」
「知ってる。だが、こっちに仕事場を移したせいで回り切らないんだ。もう少し時間をくれれば落ち着かせる」
ラトゥーチェ・フロレンスに戻る予定だったのを取りやめたアレックスは、仕事場をエリアス島の総督府近くにあるこの別邸に移し、ランスとレジーナと共に過ごす事を決め、娼館の運営をデイジーに頼んだ。それで少し減ったはずなのに結局のところ仕事が増えているようだった。
こちらを見ずに言ったアレックスにランスは仕事を減らす気がないと判じた。だから、具体的に減らす仕事の量を告げてやる。
「全部自分で抱え込むな。前に倒れた時に少し見たが、振り分けられる仕事がたくさんある。八割は部下に投げられる筈だ」
「どういう根拠で八割なんだ? さすがにそこまでは抱え込んでないと……」
「ヴィルはあなたがやっていた仕事の八割を別の人間に振ったが、国の運営に問題をきたさなかった。前に見た仕事もそれが通じそうだった。だから八割」
「三割だ。三割なら任せてもいい」
「最終的に八割。まずは半分減らして、その分恋人と娘にその時間を使ってくれ」
不満そうなアレックスの唇を方向を変えて繰り返し喰んで、緩んだところに舌先を割り入れ、アレックスの柔らかなそれに絡みつかせる。
息があがったところで唇を離して、ランスはその柔らかな短髪をそっと撫でた。
「それが出来ないなら、足腰立たなくして十割減らして二割戻すから」
「なっ……!」
恥ずかしげに身を捩ろうとした恋人をその腕に掻き抱いて、ランスはつむじにキスを落とす。
「そろそろ部屋に帰ろう」
誘うように言うと、アレックスは小さく頷いて立ち上がり、独り言のように呟いた。
「二割か……それで今の領土を保てているんだ……。やっぱりあいつの方が王向きだったな」
ほんの少し苦く響いたそれをランスは聞こえないふりでやり過ごした。
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