南溟の楽園
ミセリコルデ(60話続き)
「そうして、俺はメルシアに戻り、しばらく間を置いて護衛騎士としてお前についた。身を挺して庇ったのだって、そう見えるように立ち回っただけだ。お前を命懸けで庇う人間など、いると思うか? いるものか。かりそめでも愛されて幸せだった? その間、俺は最悪の気分だった。無関係な子供を殺した時よりもな。気が狂うかと思った。あんたと寝た日は本当に吐いた。そんな時は、ただ、こうやって復讐する日を思い描いて乗り越えたんだ。それに比べると少し物足りないが、仕方がない。エリアス様の命には代えられない」
お前は誰にも愛されない、そう知らしめるようにイリーナの腹をつま先でにじる。
恐怖と絶望で、イリーナは顔をぐしゃりと歪めて泣き崩れた。
その二人を横目にアレックスはなんとか立ち上がる。
毒と失血で身体は自由になりきらないが、気力を振り絞って先程イリーナの手首と共に吹っ飛んだナイフを拾い上げ、イリーナとランスの間に体を割り込ませて、膝をついた。
「イリーナ。貴女に自分の幸せの為に生きて欲しいと言ったことを覚えているか?」
「だから、ヴィルヘルムさまの敵を排除したのに! どうして?!」
そうして嗚咽を漏らすこの娘は、根本から分かっていなかった、そうあるように作られて育ってしまった。
誰も幸せにならない道を、それが自分の幸せに繋がる道だと信じ込んで、選んで、
そのせいで、それに巻き込まれて、自分が、家族が、そして、無関係な人々すら巻き込まれて死に、あるいはその人生を大きく変えた。
煮凝った憎悪が腹の中に溜まっている。
掌中の珠と愛しんだ娘は、毒に喉を掻きむしり死んだ。見ることすら叶わなかった息子は縊り殺され、相愛だった妻は狂死した。弟と義息は復讐者となってノーザンバラと巻き込まれた国々に不幸と憎悪を振り撒いた。
己が身を振り返れば、臣を殺され、強姦され、奴隷として競売にかけられて、その証の刺青を彫られて、毎日のように男のモノを咥え込まされた。
知恵を重ねて幸運が重なって、奴隷の身分からは逃げ出すことは出来た。
が、結局、この世界の果てで、あの海賊の影に怯えながら、弟を疑って世を拗ねて帰る事も出来ずに日々を暮らしていた。
ああ、だが、自分は復讐者にはなりきれない。
『何故』を考えてしまう。そして己の罪とて見えてしまう。
それらを無視して感情のまま、目の前の女をめちゃくちゃにしたら煮凝った復讐心も少しは晴れるだろうに、その後を考えてしまう。悲しむレジーナを想像してしまう。
「それは、貴女が自分の為に生きていなかったからだ。その為に他者を害する手先になっていたからだ。この島での貴女は幸せそうだったよ」
それが思い込みに過ぎなかったとしても、誰かを愛して愛されていると思っていた彼女は幸せそうだった。間違いを告げれば、イリーナの啜り泣きの質が変わった。自分の為だと信じていたものが違ったと理解したに違いない。
「私がノーザンバラの申し出を受けてヴィルと貴女を娶わせた事がそもそもの失敗だ。だが、それでも私は貴女がノーザンバラとの事を割り切ってメルシアに馴染んでくれれば、貴女も含めて家族が楽しく幸せに、あの小さく豊かな国で暮らせると思っていたんだ」
ほんの一瞬夢想する。
ユリアのために作った木苺の庭でのピクニック。
レジーナとその兄がはしゃぎ、彼らよりほんの少し年上の名もなき息子が嗜める。
そんな光景を眺めながら、自分と妻、年頃になったケインとユリアが寄りそい、ヴィルヘルムとイリーナが仲睦まじく語る様を。
そんな事はありえないと分かっている。やり直しなど出来はしないのだ。
ゆるりとアレックスは後ろを振り返って男を見上げた。
割って入った事で、アレックスがどんな行動を取ろうとしているのか、息を呑んで見極めようとしているようだ。
『ケインの事をよろしく頼みます。大人びてよく出来た子だが、それでもまだ子供なのです』
リヒャルトとの約束が胸によぎる。
子供というにはいささか以上に大きくなってしまった。すでに立派な大人になり、その頃の面影などほとんどない。背は実の父親よりも高くなり、表情は険しく、眉間には皺が寄ったまま。瞳に湛えた光はひたすらに澱んでいる。
だが、子供ではなくなったとしても、リヒャルトに託された、もちろん託されなくても義父として守ろうと誓っていた対象だ。
振り返れば、彼は何度か自分のことを話そうとしていたように思う。
戻ってきたら救われた人間もいたと言っていた。
ノーザンバラの人間に対する噴き上がるような憎悪も見た。
全て終わったら告白を聞いてくれとなにか覚悟の決まった眼で言われた事もあった。
その時に聞いていれば、こんな状況に陥ってなかったかもしれない。
復讐を止められたとは思わないが、彼がイリーナに拙速に恨みをぶつけて怒りを燃え上がらせて、こんなところで乱暴に嬲り殺そうとするような事はなかっただろう。
彼女にとってどちらがマシかは分からないとはいえ、ある程度時間をかけて自分の心とも折り合いをつけて復讐をなしただろう。
だが、彼が今一気に復讐を果たしたら、彼に何も残らないのではないか。
復讐は人生を毀損する。
壊れ、壊し続けたこの十年、最後の一撃をもって彼は壊れてしまう。
そう予測して、アレックスは覚悟を決めて割って入ったのだ。
「ケイン。もう、復讐に手を汚すのは止めておけ。十分だ。お前自身を壊してまで、やる事じゃない」
「何を言っている! 自分の妻子の死に目を聞いてもなお、この女に情けをかけるのか?! 聖人君子もそこまでいくと愚かしい!」
激昂し掴み掛からんとするケインに、アレックスは頭を振った。
「まさか。かける情などないよ」
「ならば止めるな!」
「いや、俺はお前を護りたいんだ。これ以上、ほんの少しも、自身を毀損して欲しくない。お前を護るのは、死ぬ前のリヒャルトとの約束で、それがなくても私の使命だから……こういう事だよ」
そうケインに笑って見せたアレックスは、過たずにナイフをイリーナの心臓の上に突き立てた。
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