不義の騎士、海賊に囲まれる
一等客室であっても、天井が低く狭い船の部屋は圧迫感がある。だがランスはそれとは違う不穏な気配を感じ取っていた。長年戦場に身を置いていた故の直感と言ってもいい。
ランスは真鍮のランプをつけると小さくイリーナを揺すり起こした。
「最低限の身支度をして貴重品だけ持って。私はレジーナ様を背負うので荷物を持てない」
不安そうな顔で起き出したイリーナは小さく頷くと言われた通り質素なワンピースを身につけて靴を履く。
その支度を待つ間にランスも剣帯を穿き、丈の長い上着を羽織る。裏には暗器と金貨が仕込んであるので少し重いが、イリーナの荷物と合わせればなんとかなるだろう。
「俺の後ろから出ないで。なんとしても護るから」
「頼りにしているわ。私のランス」
イリーナの腕がギュッと腕に絡み付く。昏い焔にも似た歪んだ充足感がじりっとランスの心を満たした。
そっとイリーナを引き剥がすと彼女の眦に優しく口づけを落とす。
「この危機も必ず切り抜けられる。王の追手も上手くまいて来れたんだ。新大陸にたどり着けば、邪魔するものもいなくなる」
「そうね……大好きよ。ランス」
ランスはそれには答えずに動きでイリーナを扉から遠ざけるとキャビンの扉の前で剣を構える。
次の瞬間荒っぽい動きで扉が開き、男が殺気を纏って部屋に飛び込んできた。
「なっ…?!」
まさかこちらが準備万端待ち受けているとは思わなかったのだろう。戸惑いの表情を浮かべた髭面の男の腹を刺して蹴り倒すと野太い悲鳴を上げる男に剣を突きつけ冷たくランスは問うた。
「メルシアの刺客か?」
「ちが……っ。助けて……」
大陸公用語で尋ねると訛りの強い言葉が返ってくる。
「ではノーザンバラからの刺客か? ああ、訛りもそちらの訛りのようだ」
「ちがう……刺客じゃない……」
「ならば賊だ」
そう結論づけ、ランスは男に刃を突き立てる。
血を吐いて絶命した男の骸を雑に退かし、頬に飛んだ血を指で拭うとイリーナに笑顔を向ける。
「では行こう。ランプも持ってもらっていいか?」
怯えた顔を見せながらもイリーナは頷いた。
船尾にある部屋を出るとそこはすでに地獄だった。夜闇で獲物を逃さないための松明が焚かれ、赤く照り返した甲板を一方的に殺された死体が転がり、船員や乗客が逃げ惑っている。
南海の熱風に混じる鉄を思わせる生臭い匂いは潮の香りではなく血臭だ。戦場で嗅ぎ慣れたそれに神経が研ぎ澄まされる。
夜闇に乗じて乗り込んできた海賊の掠奪が既に始まっていた。一等客室が真っ先に狙われると思ったが、抵抗を防ぐために中甲板の船員から殺していったのだろうか。
死体の懐を漁っていた賊がこちらに気付いて襲ってくるのを一刀で斬り伏せる。
「ランス……待って……」
血飛沫が派手にかかり、しゃがみ込んだイリーナがその場で嘔吐した。それを介抱する余裕もなく、こちらに気付いた賊を始末する。
「しっかりしろ。逃げなければ次は我々がここに転がる羽目になる。ボートを下ろすか賊が乗ってきたボートを奪い取らないと」
「ごめんなさい……」
よろよろと立ち上がるイリーナを助けると、周囲を警戒しながら言葉をかける。
「謝る必要はない。この状況で失神しないだけでも助かる。ただ逃げないといけないんだ。厳しい事を言ってすまない」
『姫は見つかったか?!』
『まだです』
『うっかり殺っていたらタダじゃすまねぇぞ』
ノーザンバラ語で怒鳴る声が聞こえてランスは後ろを振り向いた。
「イリーナ、あの男達は何と言っている? ノーザンバラ語だとは思うんだが」
ノーザンバラ語は知悉していたが、それをおくびにも出さずにランスはイリーナにかまをかけた。
「金目のものは見つかったか?と。海賊のようね……」
「ならば切り抜けられる可能性はあるな」
実際と違うのは承知の上でわざとらしく口にして、ちらりと声の聞こえた船尾楼の上を見る。リーダー格の男がそこに陣取って指示を出しているのだろう。
目的はイリーナとレジーナ。
海賊に偽装こそしているが、二人を連れ戻しに来たノーザンバラ帝国の人間だ。
イリーナは元々ノーザンバラ帝国からメルシア王国に輿入れした妃である。
彼女の夫であるメルシア連合王国国王ヴィルヘルムはかつて、大陸西端の小国群の一つであるメルシア王国の第二王子に過ぎなかった。
だが、即位目前だった第一王子が外遊中に海賊に襲われて死亡し、その妻と継嗣、さらには王までもが次々と亡くなって彼は王位についた。
ヴィルヘルムが手を下したとも、彼を王につけたかったノーザンバラの差し金とも言われているが、ともかく王位についた彼は瞬く間に頭角を現し、ディフォリア大陸西部の小国郡を侵略併合していった。
そしてそれらをメルシア連合王国として束ねて大陸の三分の一を制するに至り、ついにその牙をノーザンバラにかけたのだ。
当初はノーザンバラの忠実な狗としてメルシアへの援助を惜しまなかった帝国も、豊かな小国郡を支配下に置かれ、帝国内でも比較的温暖な穀倉地帯を掠め取られるに至ってメルシアとの敵対を明確にし、イリーナとレジーナは難しい立場に追い込まれた。
彼女達は大陸の覇権を狙う両国にとって押さえておきたい駒であり、別の思惑を持つ者にとっては目の上の瘤でもあったからだ。
ランスが王命で二人の護衛騎士に任命された時、孤独な王妃は疲弊しきっていた。
どこの手とも分からぬものに命を狙われたり、身柄を拘束され拉致されそうになる。彼女らを護るべき王は大陸の覇権を握るための駒として二人を遇しており、愛情を持った家族として接していたわけではない。
彼女らを命懸けで護り、優しく彼女に接したランスに王妃は恋に落ち愛を囁き、ランスも誘惑に乗って情を通じた。
そして、イリーナに新大陸へ逃げたいと懇願されて、二人を連れて王宮から逃げ出したのだ。
だが気が変わったのか、それともこれがそもそもの計画だったのか、今この船にはノーザンバラの追手が来て、彼女は自分に対して偽りを述べている。
「この上に敵が固まっていそうだ。一度下に戻って船首の方から上甲板に昇ろう」
先程昇ってきた梯子を戻り、死体の山を抜けて船首側から上甲板に再び上がる。そこは既に一方的な虐殺が終わった後の光景だった。
戦場に慣れたランスでも胸がむかつくのは、知り合いとなった無辜の人々の死体も転がっているからだろう。ディフォリア大陸から新大陸までの航路は長く、そこそこ親しくなる人間もいた。子供連れで開拓に向かうのだと笑っていた一家が抱き合うように折り重なり骸となって転がっている。
「小さな子まで……酷いことをする」
目を見開いたまま亡くなった彼らの瞼を下ろすのにしゃがみ込んだランスはその行為が命取りになったと悟った。その動きで背負っていたレジーナが起きてしまったのだ。
「……んっ……な…」
背後の少女が、悲鳴を上げるのを咄嗟に止める術はなかった。
大人でも見知った者の死体を見るのは耐え難い。ましてレジーナは子供だ。
目を開けた瞬間に昨日まで仲良く遊んでいた友達の血まみれの死体を見たのだから仕方がない、そう頭では分かっていても、今、この場で悲鳴を上げられ縋りつかれたのは痛手だ。
ランスは慌ててレジーナを下ろすと少女を抱きしめて耳元で強く諭す。
「落ち着いてください。敵が来た時はどうするか覚えていますね。それを守れば私はあなたを守れます」
恐怖に歪んだ顔でレジーナはこくんと頷いた。
「敵が来ます。私の動きの邪魔にならない位置は練習しましたね」
ランスは剣を軽く振って血糊を落とし、レジーナの悲鳴で集まってきた敵に向き合う。
『見つけたぞ!』
『男は殺して構わ……』
「こんなところで死んでたまるか。あと一歩なんだ」
ランスは小さく呟いて、一刀のもとに一人の首を刎ね飛ばし、返す刀でもう一人を袈裟懸けに引き裂いた。
返り血が雨のようにランス達を濡し、その生暖かさに自分がまだ生きている、と実感する。
『笑ってやがる』
『殺せ!』
燧石式の銃を構えた賊の手元にナイフを投げつけ、手を押さえて銃を取り落としたところを両断し、銃を拾うと逆から来る男を撃つ。
目の前の賊を殺し尽くすとランスは船縁から下を覗いた。ここより船尾に近い方に小さなカンテラの灯と離れたところに船の灯が見える。男達はあの船からボートでこちらに侵入してきたのだろう。これならばあのボートで逃げる事も出来そうだ。
「くそ、やはり船尾近くまで向かわないといけなそうだ。レジーナ様、少し歩いてください」
弱々しく頷いたレジーナを前にイリーナを後ろに船尾に向かって歩く。このまま逃げ切れるのではと思ったが、そう上手くいくものではない。ランスの殺した死体を見つけたのだろう、船首側から警報を表す高いホイッスルの音が聞こえた。
レジーナを背負い、イリーナに告げる。
「走って! 近づけるだけ船尾に近づいてそこから飛び降りてあのボートで逃げます!」
「こんな高い所からは無理よ!」
「じゃあここで嬲り殺しにされるか?! こういう場で女は死んだ方がマシって扱いをされるぞ!」
駄々をこねるように足を止めたイリーナに、ランスは口を滑らせた。
「それとも姫君のように扱われるアテでもあるのか?」
「何を言ってるの?」
硬い声に失言を悟ったランスは舌を打つ。
「言葉の綾だよ。俺は戦場で嫌というほどそういう場面を見てきた。君をそんな目に遭わせたくないんだ」
「心配、してくれたの? ……ごめんなさい」
あからさまな言い訳はそれでも上手く通じたらしい。レジーナを背中から下ろして宥めるようにイリーナの肩を抱き寄せると甘い声を作って耳元で囁く。
「貴女は俺のものだ。他の誰にも渡さない」
「ランス……」
『のんきなもんだな』
そこに低い嘲笑が響く。顔を上げるとある程度の距離は取っているものの三人は取り囲まれていた。思った以上に向こうの動きは早く、統制が取れている。
『ノーザンバラ語で話して! 彼はノーザンバラ語が分からない』
「さて、どうしたもんか」
リーダー格と思しき隻眼の巨躯の男が底意地悪げに、手にした斧の柄で肩を叩きながら大陸共通語で呟いた。
『お兄様の命で私達を連れ帰りに来たのでしょう!』
イリーナは男の言葉を遮るように強い口調で尋ねた。
『姫君と娘御はメルシアを獲る為の要石ですから、大切に連れ帰りますよ。ただそのお気に入りの薄汚れた犬はここで捨てていただきます。ああ、ご心配なく。姫にこれ以上まとわりつかぬよう処分しますから』
『ダメよ! 殺さないで! ね、お願い。彼も連れていきましょう。腕も立つし王の護衛もしていたから役に立つわ。すでに彼は王を裏切ってここまで連れて来てくれた。国に来る事もきっと納得してくれる!』
『姫の必死なお願いはたいそう可愛らしいですが、俺はメルシア人ってのが嫌いでね。特にそいつは気に食わない。今殺しておかないと後悔すると勘が囁いてる。諦めてください。見てくれのいい犬を飼いたいのであれば、俺が新しいのを見繕ってさしあげます』
彼女は常に茫洋とした表情をしている。ノーザンバラの貴族の子女は強い感情を見せないのが美徳とされているからだ。だが、珍しくその表情を硬く鋭くしている。きっと陽の光の下ならその頬が怒りで朱に染まっているのが見えたにちがいない。
「どうした」
何も分かってない風を装って尋ねるとイリーナは表情を取り繕った。
「……聴くに耐えない侮辱を受けただけ。貴方だけでもここから飛び降りて逃げて。彼らは同郷よ。私達の事は悪くしないわ」
「馬鹿なことを言うな。一人で逃げて何になる。それに俺の腕を見誤ってる。ここの敵を全て屠って新大陸に行こう」
「無理よ! やめて、彼を挑発しないで!」
こちらの会話が分かるようにあえてはっきりと大陸共用語でイリーナに返すと、悲鳴に似た声に被るように男の唸り声が聞こえた。
「小僧が言ってくれる。望み通り嬲り殺しにしてやる。掛かれ。女と子供には指一本触れるな。殺すぞ」
「俺が、この程度の輩に負けるとでも?」
カトラスや手斧を向けて襲いかかってきた男達をランスは次々と斬り伏せた。血飛沫が派手に飛び散り、レジーナが恐怖で気を失って崩れ落ちる。
八歳で騎士として初陣し、十一歳からは傭兵隊を率いて戦いに明け暮れてた。二人を護りながらこの人数をどうにかするのは難しいが、向こうが二人に手を出さない前提であれば全滅も狙える。息も乱さずに十人ほど斬り伏せた時にリーダー格の男が動いた。
「何やってんだ」
すでに及び腰になっている部下を威圧的に睨みつけ、こちらに斧を振り下ろしてくる。
とっさに剣でいなし事なきを得たが、ランスの背中にじわりと嫌な汗が浮かんだ。
男の武器の扱いは的確で速く鋭いと一撃で分かった。他の者と圧倒的な力量の差がある。
「口先だけじゃなかったようだな」
男が斧を振り回した。出鱈目で力任せに見えるその動きは、実際のところ完璧に制御されている。
防ぐのは問題なくてもこちらからの反撃を狙うことが出来ない。陸の上の戦いはなれているが、船上は勝手が違う。油断しなくても五分五分かそれ以下だろう。
飛び退って間合いを取り、懐のナイフを投げると易々とそれを弾いた男はランスの隙をついてイリーナの首に刃を突きつけた。
「剣を捨てろ。駄犬。お前の大好きなご主人様の命が惜しけりゃな」
「脅しはきかない。さっき女と子供を殺すなと言っていた」
「お前さんを確実に仕留める為の尊い犠牲さ。片方が生きてりゃどうにかなる」
「つっ!!」
薄く皮膚が切れたらしい。イリーナの唇から苦痛のうめきが漏れて、ランスは剣を投げ捨てた。
「これで満足か? 」
「さて、お楽しみの時間だ」
「ランス!!」
顔を引きつらせたイリーナ。部下に合図を送る下卑て不遜な表情を浮かべた男。こちらに迫る武器を持った男達。ランスはそれらを見て、瞬時に脱ぎ捨てた上着を男に投げつけ、レジーナを抱えるとためらわずに海に飛び込んだ。
「くそっ…!! 撃て! 撃ち殺せ」
男の怒号と銃声を気に留めずランスはレジーナを抱えて泳ぎ、彼らのボートに乗り込んでオールを持った。
いくつかの弾丸が飛んできてボートに穴を開けたが、とりあえず少しの間動かすのに問題はなさそうだ。ランスは帆船が追ってきにくい方向へオールを進めた。
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