『白い腕』⑧




●山口雄大、三日目(前)




 今日の部会後問い詰めよう、と思っていた。


 小畑が、無防備に家に置いておくわけはないと思ったからだ。何か鞄に入れて持ち歩いてくると予想していたが、部会には手ぶらで歩いて来た。やっぱ違うのかもしれん。


 今は自分の部屋に、恵理と二人でいる。


 今日は部会が早めに終わり、二人でカラオケに行ってきた。


 そのまま夕食の材料をスーパーで買って、さっき二人で作り終わったところだ。二人で、といっても、俺は野菜や水を入れたり、火の強弱を調節したりと、恵理が言ったとおりに動いただけだったが。


 今晩は、カレーだ。


 俺のアパートは大学から徒歩十分。打ちっぱなしのコンクリートが無骨な感じの、なかなかに洒落たアパートだ。部屋は一番上の五階。風が強い日は、外に出るとすごく気持ちがいい。景色も悪くないので、家にいて煙草を吸うときは、たいてい玄関先に出て吸う。


 部屋は片付いている方だと思うが、恵理に言わせると、


「ギリギリアウト、かな」


だそうだ。


 たしかに、ただでさえ狭い部屋にベッドにテレビ、ソファに大きめのスピーカーや多くのCDを置けば、テーブルと座るスペースでいっぱいになってしまい、快適とは言えなかった。ベッドには、練習着や練習道具が置いてある。ベッドを使うならば、それらはソファへと、移動される。ソファの場合は逆だ。


 それに、それぞれの収納もこだわって決めているとは言えないので、この狭さにこの物の量であれば、満点を目指すのは難しいとも言えた。


 テーブルの上には、カレーとスプーン、水の入ったコップが二組ずつ。水が入った水筒が一つ。それだけだった。


 そのテーブルが、俺と志田恵理に挟まれている。


 恵理は、かわいい。


 恵理は写真部の後輩だ。先月言い寄られ、特に断る理由もなかったので付き合うことになった。


「おいしいね」


 一口食べて、恵理が言う。


「そうやな。カレーは焼肉に並んで、最高にうまいものの一つだ」


「ふふ、そんな大きな体して、意外に舌はお子様のままだよね」


 スプーンを持った右手を、口に当ててくすくすと笑いながら、恵理が言う。


「いいんじゃね。好きなもんは好きだし。つっても、俺、魚の煮付けとかも好きだぜ」


「魚の煮つけかー。まだ上手くつくれないな。上手に作れるようになったら、食べさせてあげる」


「作ったことはあんだ? 自炊は四月からなんやろ?」


「一応、高校生のときにお母さんのを手伝ったことがあるかな。でも身がくずれちゃったり、塩がききすぎちゃったりして、いつもと違う、なんて弟がぼやいてた。けっこう和食って難しいんだね」


 困ったような顔で笑うのも、かわいかった。


「俺は料理しないからなー。その辺はよくわからんけど」


半分ほど食べて、水を飲む。


「恵理と一緒に作って食べるのは、うまくて楽しいよ」


 自然に笑ってしまう。


 作り笑いでなく、自然に笑えることが嬉しい。


「そう。そう言われるのはー、嬉しいかも」


 照れているようだったが、恵理も喜んでくれたようだ。それがまた、嬉しかった。


 少し会話は止まる。


 俺は一杯目を食べ終わり、水を飲んだ。


「おかわり、おかわりー」歌うように言いながら、席を立ってキッチンへと向かう。


 キッチンといっても、玄関からダイニングに向かう廊下の横にコンロとシンクが取り付けられただけだが。炊飯器を開けて、ご飯をよそう。ルーの入った鍋に向かったまま、恵理に訊ねる。


「恵理―。おかわりするかー?」


「んー、わたしはいい。残ったら明日にでも食べてー」


「そーやな。一日寝かせたカレーはうまいしな」


 全部食べようかと思っていたのだけれど、思い直して一人分残すことにする。


「ありがとう。ちょうどいい量つくってくれたよ」


 言って、テーブルに戻る。


「どういたしまして。ていっても一緒に作ったんだから、お礼言われるのも変だけどね」


 やっと半分を食べた恵理が、水を飲みながら言う。


「いや、俺一人じゃ作れないし、作んないし。作ったとしてもこれよりうまくないのを大量につくって、一晩で全部食べてたよ」


「雄大、色々体育会系の部活入ってるのに、自己管理できないよねー」


 また、右手で口を押さえながら、くすくすと笑う。


 恵理は、かわいい。


 先週から、名前を呼び捨てで呼んでもらうことにした。ついでに敬語もやめてもらった。名字で呼ばれるのは、嫌いだった。俺は、自分の名前が好きだ。恵理には以前から人より多く名前を呼ばれていたので、実は山口さん山口さんと呼ばれるのは、少しだけうっとうしかったのだった。


 雄大と呼んでもらうようになってから、また恵理を好きになれた気がした。


「そう言えば四月頃、小畑さんちでカレー作ってもらったなー」


「あぁ、木下先輩がメール回してたな。俺は行かなかったけど」


 食いながら言う。


 こっちのカレーの方が、うまいに決まっていた。


「もう。いい加減に仲良くすればいいのに」


 表情から察したのか、呆れ顔だった。


「わたしには小畑さんの何が気に入らないか、全然わからないんだけどなー」


 軽くのびをして、恵理が言う。


「んー。なんか、言葉では伝えにくいんだよ。顔っていうか、雰囲気っていうか」


 わかるわけもないので、適当に答える。


「顔ってー、別に悪くはないと思うけど。ていうか、むしろかっこいいんじゃない? あっちは頑張ってスタイル維持しようとしてるみたいだし」


 心なしか、早口になって言った。


「別に、男が男を顔の良し悪しで判断しねぇっつの」鼻で笑う。


「それに、何が気に食わないかって言ったら、別に試合だのの目標でもなく、痩せるために痩せるってのも理解できないし、気に食わないとこだな」言って、食い終わった。


 スプーンが皿の上に落ちるカラン、という音が、静けさの中では響いた。その音に、恵理が小さく体を震わせた。


 スプーンが鳴った余韻だけを残した静寂と、下を向いた恵理の表情だけ切り取られて、時間が止まる。


 ――しまった。


 今さら、不機嫌な声で喋っていたことに気づいた。恵理を見ると、笑顔が少し曇っていた。


 あまり、かわいくなかった。


「あー。ハハ、ごめん。機嫌悪そうな声出してたな」


 笑ってみた。恵理も、笑った。だけれど、お互いに苦笑いだった。あまり、かわいくはない。


「……ごめん、ちょっと外で煙草吸ってくる」


 水を飲み、ベッドの上にあった煙草とライターを取って、玄関を出た。



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