第2話 前世と現世
今日も深夜残業になってしまった。疲れ果てた体を引きずり会社を出る。
いい大学は出たものの、長く続く不況で就職はうまくいかなくて、就職は氷河期でブラック企業に就職せざるを得なかった。
「とりあえず、ご飯は食べなくちゃね」
彼女はコンビニ入ったが、食欲はない。サラダパスタとコーヒーを買って店を出た。
自宅マンションまで歩いていると同じ歩調でついてくる足音に気付いてドキリとする。まただ。ここ数日帰りが遅く誰かにつけられている。振り返るとスーツを着たサラリーマンのようだが、ちょうど街頭の陰にいて人相までは見えない。
(不審者? それともストーカー?)
大学入学同時に東京に出てきて以来一人暮らしだ。住んでいる場所を知られるのは怖い。
彼女は直接、家には向かわず全速力で大通りに向かって走った。するとやはり足音もついてくる。
必死に逃げ回っているとやがて後ろをついてくる足音は消え、振り返ると誰もいなかった。見事に巻いたようだ。ほっとして家に帰るべく、信号待ちしているといきなり背中に強い衝撃を感じた。気付けば大通りに投げ出されていた。
パパパアという警笛と共にぎらつくヘッドライトが眼前に迫る。次の瞬間体は飛び、骨が砕ける音を聞いた。
◇◇◇
意識を取り戻し目覚めたフェリシエルは、幾重にも美しい布が重なる豪華な天蓋ベッドの上で叫び声をあげた。
「いやーーっ!」
恐ろしい記憶に心臓が早鐘を打つ。それが夢などではなく、自分が実際に経験したことだと本能的に悟った。
「お嬢様!」
「大丈夫ですか!」
慌てて侍女のヘレンとセシルが部屋に飛び込んでくる。
「意識が戻ったのか、フェリシエル」
続いて父のネルソン、母のウィルヘルミナ、兄のシャルル、他の使用人も続々と彼女の部屋に詰めかけてきた。
「よかったわ! 本当によかった。雷に打たれたときはどうしようかと思ったわ」
母が目に涙をうかべて喜ぶさまをみた。
「すぐに医者をよべ!」
父と兄が使用人たちにてきぱきと指示を出す。
フェリシエルは皆の騒然とした様子をどこか他人事のような目で見つめていた。豪奢の家具でしつらえられたフェリシエルの広い部屋。今見た妙に生々しい夢は……。
雷に打たれたせいか、目覚めと同時に前世の残念な記憶が蘇ってしまったようだ。
(本当に前世なんて存在したの? そのうえ侯爵家の娘である私があんなみじめな下賤の者だったなんて……うそでしょ?)
そしてこの世界は前世で彼女が夢中になってプレイしていた乙女ゲームの世界と酷似している。中近世風な街並みであるのにもかかわらず魔法により進んだ文明。魔道具により、生活の快適さは前世とさほど変わらない。これは間違いなく、あの乙女ゲームの世界だ。
フェリシエル・ファンネルこの名前、聞いた覚えがある。もしや……。
「セシル、鏡を見せてくれる」
「はい、ただいまお持ち致します」
侍女に命じると彼女はすぐに体をふくためのホットタオルと鏡を持ってきた。
金髪に青い吊り上がった目、整っているがきつそうな面立ち。間違いない。ヒロインが王子ルートを選んだ時専用の悪役令嬢フェリシエル・ファンネルだ。
さらに残念なことにヒロインはフェリシエルの大嫌いなぶりっ子令嬢メリベル。そして、フェリシエルの婚約者第一王子リュカを絶賛攻略中である。
(終わった)
皆が狂喜乱舞してフェリシエルの目覚めを喜ぶ中で、彼女は死んだ魚のような目をして横たわっていた。
(なぜ、殿下を選んだの? 他にいくらでもルートはあるでしょうに)
その後彼女の思考は停止して、再び眠りについた。
◇◇◇
フェリシエルは療養が終わるや否や神の加護持ちと言われてちやほやされた。雷に打たれて加護って何なのだろうか。思わず遠い目をしてしまう。
罰が当たったの間違いではなかろうか? おそらく前世の記憶がそう感じさせるのだろう。
彼女が雷に当たって助かったのは、雷属性の魔法に適性があったからだ。王宮の一角を占める魔法院でもそう判断している。しかし、王子の婚約者であるため、噂が尾ひれをつけて貴族の間で広がってしまった。
これが前世を思い出す前なら、フェリシエルは大喜びで、今まで以上にお妃教育に精を出し、尊大な態度をとったことだろう。自分こそが選ばれし者とばかりに。
だが、認めがたい前世を思い出してしまった今、全力で婚約を回避することしか思いつかない。
療養中、日々の観察のより、ここが乙女ゲームそっくりの世界だと確信した。いや、乙女ゲームそのものだと言ってもいい。ビジュアルもみなそのままだ。
フェリシエル・ファンネル、顔はきついが絶世の美少女だった。だが残念なことに美人オーラがない。まあ、地位も金もある家に生まれれば傲慢にもなるだろう。
そしてこの国は科学ではなく魔法が発達しているので前世より、不便ということはほぼないといえる。トイレは魔道具を使った水洗だし、風呂もある。ただ移動手段は馬車だけで街並みや城は中世風、公害もなく、まさに剣と魔法の世界として進化を遂げていた。
便利かつ大貴族の令嬢なので前世より、条件はいいはずなのに喜べない。このままいくと、まもなくメリベルと王子のバカップルが爆誕する。
その後、フェイリシエルは宰相の子息、騎士の子息、第二王子に断罪されるだろう。それからとんとん拍子に婚約破棄にお家取り潰し。
残念なことに断罪劇のある舞踏会まであと半年くらい。ゲームはすでに終盤に差し掛かっていた。だが悪役令嬢のバットエンドルートは意外にバラエティーに富んでいる。思い出せただけでも五つ。
1斬首コース
2暗殺コース
3自ら毒杯をあおる
4国外追放
5幽閉
フェリシエルは眉間にしわを寄せ真剣に考える。3は絶対にない。この国の毒杯は神経毒だ。絶対にパス。4の国外追放も絶対無理。籠の中の令嬢が生きていけるわけがない。下手したら、1の斬首の方が一瞬終わってましなレベル。
いまさら魔法の練習? 残念ながら、冒険者になれるほどの適性はないだろう。魔力は強いが魔法の勉強は制御を習ったくらいで、お妃教育をメインにやってきたので、使いこなせるとは言い難い。
よって一番ましなのが幽閉ルートだ。ちなみ2の暗殺はナイフで急所をさっくりのスマートなものではなくぼこぼこに撲殺。ひどすぎる。これもありえない。
今まで必死に厳しいお妃教育を乗り越えて来たのすべて水の泡。前世でも頑張っていい大学をでて就活したのにブラック企業に就職。慌てて、侍女が部屋に飛び込んできた。
彼女はそこまで考えて自室の床に崩れ落ちた。床を拳で叩いて泣き叫ぶ。
騒ぎを聞きつけた侍女ヘレンが慌てて部屋に入ってくる。
「お嬢様! いったいどうなさったのですか!」
続々とフェリシエルの部屋に人が集まり、再び公爵家はてんやわんやの大騒ぎとなった。
◇◇◇
雷で撃たれた傷が癒えるころには彼女の気持ちも少し落ち着いた。この国は治癒魔法が発達しているので、傷もほとんど残ることがない。前世なら一生傷が残ったはずだ。そこらへんは感謝しかない。まあ、婚約者である第一王子が腕の良い王宮医を呼んでくれたこともあるが……。
そよ風吹くテラスで、白いティーテーブルに腰かけ一人冷静な頭で考える。幽閉って、前世で言うヒキニート? 高等遊民? プライドを捨てられれば、案外楽かもと前向きに考えをあらためた。
前世の記憶が蘇ったとはいえ、フェリシエルはフェリシエルだ。貴族令嬢としての矜持がある。
しかし、やはり絶望している。今まで彼女がメリベルにした嫌がらせは、コップの水をかける程度、それも失礼なことを言われたからだ。あとはメリベルがわざとらしく転んだふりをして殿下に助け起こされたとき、どさくさに紛れてべたべたしていたので、叱責したくらい?
こんなちっちゃい嫌がらせで、自分が罪に問われあまつさえ命の危機に陥るなど納得がいかない。「乙女ゲーム」理不尽。
それならばもっと徹底的に悪役令嬢らしくメリベルを懲らしめておくべきだった。
だがメリベルに腹を立てている割には、王子に対して恋心が驚くほどない。ひとかけらも、全くない。むしろ自分の命が一番大事。
プライドや名誉欲から彼を愛していると勘違いしていたのだろうか?
ヒロインから王子を奪うことも考えたが、恋心もないうえにすでに王子から愛されるとは到底思えない状況。リュカはいっそ清々しいほどフェリシエルに興味がない。婚約者というただの記号のような扱いだ。
よって後はエンドでいかに軽い罪にできるかにかかっている。実に腹立たしいが、ここで癇癪を起している場合ではない。なにせ自分の命と実家の没落がかかっているのだ。
横で心配そうにフェリシエルを見る侍女ヘレンをよそにクッキーをさくりと齧り、優美なカップに注がれた薫り高い紅茶を飲みながら、夢で見た前世をできる限り思い出してみた。
なんとかこのゲームという名の運命の呪縛逃れたい。だが、大切な場所には靄がかかり、どこをどうプレイしたのか、細かいことまで覚えていない。というか前世は「社畜」とかいう存在で、それほど遊んでいなかったののだろう。
それがもどかしくて、三枚目のクッキーに手を伸ばす。
「お嬢様、三枚目でございます」
ヘレンが口から注意をする。王子の婚約者として、美しくあるために今までダイエットしていたのだ。だが、今は……。
「ああ、いいのそういうのやめたから」
「はい?」
侍女のヘレンがぽかんとした表情を浮かべる。
「もう太っても構わないのよ」
フェリシエルの今までの努力はすごかった。食べたいものも我慢して美容に励んできた。二枚目のクッキーに手を出すことなど決してなかった。王子に好かれようと必死に努力をし、勉強も礼儀作法もダンスも頑張っていたのだ。
だが、そんな前世の「社畜」と変わらない生活ももう終わり。
その後、彼女はさくさくと音をさせ、美味しそうに五枚のクッキーを平らげた。
――このフェリシエルの急激な変化に、ファンネル家の使用人達は目を白黒させた。
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