二話

 桜の花弁が吹雪の様に舞う。

 日差しが暖かくなって来る頃だが、夕方にもなればまだ風は冷たい。

 服から露出した部分の肌が冷えて、智絵は自分を抱き締める。


「ちょっと寒いなあ」


 さあっと吹く春風が智絵の頬を叩く。

 ほんのり色づいた頬に手を当てて、智絵は止めていた脚をせかせか動かして先に進む。

 年季の入った自転車は、車輪を回す度にぎっぎっと、音を立てる。

 重いペダルを踏んで、智絵は街道を走る。

 行き先は、母方の祖父母の家。

 つまりは母の実家なのだが、母は祖父母とは疎遠で余り話をしているところを智絵は見た事がない。

 恐らく仲が良くないのだろう。

 だから、智絵は家出先に選んだのだ。

 家出に関しては既に連絡を済ませてある。その際も特に内情は聞かず、祖父母は快く許可を出してくれた。

 母には内緒でというお願いすら快い返答を貰ったのだから、何も臆することは無い。

 智絵にとって祖父母は、今、唯一頼れる大人なのだ。

 

「……怒られるだろうなあ」


 最終的にはとてつもないお叱りを母から受けるであろうことは明白で、その事を思えば、ペダルに込める力は弱まっていく。

 だが止まる訳にもいかない。

 もう決めたのだ。

 逃げよう、と。


「あれ、こんなところにゲームセンターあったんだ」


 知らない道を走っていた所、ゲームセンターを見つけた。

 この街へ越して来て間もないから、こうした新発見も多い。

 智絵はこれまで、母にこうした場所に行く事を禁止されていた。

 よく分からない適当な理由で行ける場所が限られていた反動が来たのだろう。

 家出する程の反抗心からか、智絵は自転車を近くにあった自転車置き場に停めて、ゲームセンターの自動ドアを潜った。

 チカチカと光る明かりが智絵の眼に刺激的に映る。

 UFOキャッチャーにリズムゲーム。どれも漫画やドラマで見た事があるものばかり。

 やってみたいと思っていたけれど、やったことの無いそれらを前に、まるで漫画の中に入った様な錯覚に陥る。

 

「なにこのキャラ、可愛い!」


 一台のUFOキャッチャーの中に並んでいたのは、間抜けで緩く寸胴な、巨大なぬいぐるみだった。

 何がモチーフになっているのか定かではないその巨大ぬいぐるみは、憎たらしい表情で智絵に向けて助けを求める様に目を向けているようだ。

 智絵は悪く言えば不細工なそれに、可愛い可愛いと絶賛して駆け寄る。


「これは……取らないと、ダメだ」


 私服のポケットから小さなガマ口の財布を取り出して、智絵は百円を機械に投入。

 貯めていたお小遣いは全て持って来たが、有限だ。余り多くはない。

 しかし今の智絵の頭からは、そんな事はもう綺麗さっぱり消えている。

 ただ目の前の不細工なぬいぐるみを取る事。

 今、その残念な頭にある事は、それだけだった。


「これを、こう……で、いけ!」


 ボタンを操作して狙った対象にアームを下ろす。

 寸胴なぬいぐるみの脇を、二本のアームが捉えた。

 だが重量があるのか、アームからつるっとぬいぐるみが抜け出してしまう。


「くっ、でも狙いはいい。いけるよ、わたし!」


 自身を激励し、更に百円を投入。

 

「ああーっ、もうちょっと左!」


 また百円を投入し三回目。


「おしいっ」


 また投入。


「くうっ」


 またまた投入。


「今度こそ!」


 ……止まらぬ散財。

 ぬいぐるみは最終的に手に入れる事が出来たが、財布の重さは半分になっていた。





 ふんぬっ、と。

 力んで荷台にぬいぐるみを括り付ける。

 智絵は自転車の荷台にあったゴムネットをぬいぐるみに巻き付け、半ば無理矢理に、どうにか後部に固定する。


「これでよしっ! 落ちないでねぇ、エリザベス〜」


 センスの欠片もない命名をされたエリザベスを乗せて、智絵は自転車置き場から抜け出して、祖父母宅へ向けて再び走り出す。

 旅の供を得て、その足取りは軽くなった様に見えた。


 その時――スマホの通知音が鳴る。


 智絵は漕ぎ出していた脚を止めてスマホを取り出す。

 メッセージの送り主は祖母だった。

 

「ええっ、嘘でしょ!?」


 そこには智絵にとって都合の悪い、けれど、それよりもっと心配になる文言が並んでいた。

 直ぐに智絵は祖母に電話する。


『はいはい、智絵ちゃん?』

「お爺ちゃんが倒れたって本当!?」

『そうなのよ、今救急車で運ばれてねえ』

「だっ、大丈夫なの?」

『ああ、ギックリ腰よ、大丈夫だから心配しないでね』

「え……ぎっ、ギックリ腰って」

『久しぶりに智絵ちゃんに会えるからって、あの人、使ってなかった部屋の片付けをし始めて。それでやっちゃったの』

「ええ、そんな事しなくても良かったのに……」

『そのまま家に住んでもらっちまおう、なんて言ってたのよ。それはもう嬉しそうにねえ』

「そっかあ。そうしたら、お爺ちゃんに安静に、お大事にしてねって伝えといて」

『言っとくわね。ああ、そうそう、家出だけど数日待ってくれる? あの人が退院してからじゃないと、流石に、ね』


 智過は祖母の言葉に顔を少し青くする。


「入院……そんなに酷いの?」

『盛大にやったのかね、ちょっとばかり大変なようでね。あとはほら、歳だから。でも、そんな心配しないで大丈夫よ』


 そうなんだ、と言いつつ、やはり心配しないというのは難しい。

 だが、それより今はもっと心配すべき事がある。


『後で連絡するわね』

「うん、じゃあ、また後でね」


 電話を終えた智絵はスマホをポケットに仕舞って考えを巡らせる。

 今更、自宅に戻ることなんて出来ない。

 かと言って頼るべき人も行く当てもないとなれば、取るべき選択肢は――。


「野宿か」


 自分で言って、流石に無理だと肩を落とす。

 野宿をするくらいなら、家出をしない方がまだ良い。

 

「仕方ない、かあ……」


 息が詰まる生活をする事にも耐性が出来た。

 壁を感じても目を塞いで考えなければ、自分を誤魔化せる。

 だからあと数日くらい、どうって事ない筈だ。


 ……いや、違う。

 限界だったのだ。

 もう我慢出来なかったのだ。

 だから今、こうして、こんな所に居るんだと。智絵は心の内を整理して、帰るべきでは無いと自転車をまた漕ぎ出す。

 行く当てもないしお金もない。

 けどどうか、今だけでも、智絵は目の前にある離れられない現実から、逃げ出したかった。

 

「――何処か、遠くへ」


 そうして智絵は、ペダルを強く踏み込んだ。

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