一話

『えー、であるからして、新入生の皆さんにはこれから、我が校の生徒たる意識を持ち、級友とお互いを高め合う――』


 壇上に上がって話す人が、校長だったか教頭だったか、定かでない。

 ただ、偉そうな事を言っているので偉い立場の先生なのだろうと、生徒の半数は当たりをつけ、ぼうっと話を聞いているだけだった。


 全校生徒が女生徒からなる市立の女子高。

 まだ内外共に改装をして間もない校舎は白く美しい。

 これからの三年間を良いものにするぞという期待とやる気。それから、ちょっとばかりの不安を胸にした生徒達。

 彼女達は逸る気持ちを抑えて、壇上で話す教諭の声を、右から左へ聞き流す。

 そわそわとした、どこか落ち着かない雰囲気がそこにはあった。



 入学式を終えた生徒達はそれぞれの教室へ向かう。

 口数は疎らで、まだ知らぬ級友にいつ話しかけるかという、水面下での抗争が繰り広げられている。

 誰に話し掛けるか。

 早く友達を作って、ひとりぼっちから脱却したい。

 そんな様々な想いから、周囲への出方を伺う彼女達。


 そんな空気を、ある女生徒が平然と打ち破る。


「ねぇねぇ、中学校どこだったの?」


「この辺の人?」


「あたし、篠原智絵。よろしくね」


「あ! その女優さん、あたしも好き!」


「そうそう! あの辺で前に――」


 流れる清流の様にゆらゆらと、クラスを問わず多くの生徒達と会話していく智絵は、楽しそうに友人を増やしていく。

 それがきっかけとなって、他の生徒達も近くにいた級友へ声を掛けていく。

 それだけでクラスに着く頃には生徒達の大半が賑やかになり、先程までの静けさを掻き消していた。

 智絵はそんな様子を見て嬉しそうに微笑んだ後、自分の席に座る。

 名簿順ではなく自由席だった為、智絵はそそくさと、窓際の一番後ろに陣取った。

 眠そうに欠伸をして肘を着き。外を眺める。

 少し開いた窓から暖かい風が吹き込むので、智絵はほうっと微睡みそうになるのを堪え、頭を軽く振った。眠気を追い出す事に成功したらしい。


 小鳥の囀りが穏やかな風と相まって、智絵はとても澄んだ気持ちになっていくのを感じていた。

 久しぶりに、心が休まった気さえした。


 教室に、担任の教師が入って来る。

 まだ若い女性教師は穏やかそうな微笑みを浮かべて挨拶をした後、生徒達に自己紹介をするように言う。

 智絵から一番遠い席から順番に始まったが、それをただ眠そうな目で眺めていた智絵は、途中で窓の外に目を向け、小さく呟く。


「……なんか、嫌だなぁ」

 

 それはとても、息苦しそうな声だった。

 それに対して隣に座る級友が、何か言った? と聞いて来る。それに対して智絵は柔かな笑みを浮かべて、

 何でもないよ。

 と、応えた。

 そうして智絵はまた外に目を向け、小さな吐息を吐く。


 窓に映る智絵の目は、とても辛そうに俯いているのだった。





 智絵は早速、帰り道が同じであった隣の席の生徒を含めた複数人で、自宅へ続く住宅街を歩く。

 まだ青さもまだらなイチョウ並木の歩道。

 その中を進んだ先、更に進んだとっつきにあるマンションが、智絵が暮らす住まいだ。

 智絵は笑顔で級友達と話しながら、重い足取りで前に進む。


 途中で別れた級友達を尻目に、智絵は自宅に到着した。

 ここまで来れば、脚は鉛の様に重い。

 教室に居た時よりも深い溜め息を吐いて、エレベーターに乗り込む。

 エレベーターを降りれば自室の部屋は直ぐそこだ。

 智絵は部屋の前で一旦立ち止まる。

 そして気を引き締め直し、いつものように笑顔を浮かべて、部屋のドアを開けた。


「――ただいま!」


 元気な声が廊下に響く。

 

「あら、おかえり、智絵。高校はどうだった? お友達出来そう?」

「楽しそうだよ。クラスの半分くらいの人とはもう話したかなあ」

「良かったあ、それなら大丈夫そうね。こっちでの生活も」

「まあね」


 嘘ではない。

 実際、智絵は既にクラスの半数以上と一度は話している。

 コミュニケーションを取ることは智絵にとって楽しいものであり、何の障害もないものだった。

 

「それよりお母さん、奨さ……お父さんは?」

「ふふっ、まだ慣れないなら、無理してそう呼ぶ事もないのよ」

「そういう訳にもいかないでしょー。一緒に暮らし始めたんだしさあ」


 智絵は自室へ入る。

 バタン、と。扉を閉めて、まだ整頓し切れていない室内を見渡す。

 

「早く収納して片付けないと……」


 面倒臭そうな顔で、智絵はベッドにぼふんっと、音を立てて寝転がった。

 すると疲れたのか、瞼が次第に重くなる。

 まだ閉じ切らない瞼の下で、色素の薄いヘーゼル色の目が、壁に掛かった愛らしいピンク色の時計を捉えた。

 十二時十九分。


(少し、三十分だけ……)


 起きたらお昼ご飯にしようと、そんな事を考える。

 そして直ぐ、智絵の大人しい寝息が静かな部屋に浸透していくのであった。





 ――智絵は目を覚ます。

 

 眠そうに瞼を擦って起き上がった智絵。

 少し皺のついた制服を見て、やっちゃったと、面倒臭気に肩を落とす。

 そして壁に掛かった時計に目をやる。

 十六時四十九分。

 昼時はとうに過ぎ去っていた。

 気付けば窓の外に見える空は、やや色合いを変え始めている。

 

「あー、寝過ぎ。何やってるのあたし。夜寝れないよ、もう」


 自身に悪態を吐きつつ、智絵はまだ開き切っていない目を軽く擦りながら部屋を出る。


「あれ、お母さん?」


 母の姿を探す。

 部屋は薄暗く、人の気配が無い。

 どうやら母は外へ出掛けているらしい。


「買い物かな」


 少しお腹が空いていた。 

 何か冷蔵庫にあるかなと、智絵はリビングへ。

 新居は割と部屋数が多く、それぞれの部屋も広い。自室からリビングに出るまでの距離も、廊下の広さも、リビングの吹き抜け感も新鮮で、何となく落ち着かない。これまで住んでいた家との差を、智絵は改めて実感する。

 

「……あれ」


 テーブルの上に何か書かれた白い紙があった。

 書き置きだ。

 その達筆な文字からして母が書いたものだろう。

 智絵は紙を手に取る。


「寝てたから起こすのも悪いなと思って。奨さんと出掛けて来ます。まだ片付けが終わってないから自炊はしないようにね。ご飯は食べて帰るから、何か買って食べてね……母より」


 書かれていた文字を読み上げて、智絵は数秒を、その意味を呑み込むまでに有した。

 長い髪の下で、智絵は顔を曇らせる。しかしそれは、何処か晴れやかな表情にも見えた。


 心と身体が、矛盾した反応をしているかの様だ。


「あー、一人で気楽。新婚だしね、ラブラブで良い事だよ」


 智絵は自室に戻って、再びベッドに横たわる。

 段ボールばかりで生活感の無い閑静な室内に、チクタクと、時計の秒針の音だけがやけに大きく聴こえた。


 数分、ぼうっと何もせずにいた。

 そして心の奥深く、弛んだ意識の隙間から、言葉となって溢れ出る。

 

「――もう、嫌っ」


 智絵は枕を壁に投げつけた。

 それから発した言葉にハッとなって、自身が何故そんな言葉を言い放ったのか、目を閉じてよく考える。


 そうしてよく考えて。

 自分の心を良く噛み締めて。

 


 智絵は決心する。



「うん――もう、家出しちゃおう」


 開き直った清々しい声色で、智絵はベッドから跳ね起き、直ぐに支度を始めるのだった。

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