三話
街の中心地から離れて、行き交う人も少なくなって来た。
喧騒も鳴りを潜めれば、街の静けさの中に微かな自然の音がある事に気付く。
意外と意識してみれば、随所に緑の残る街だったんだなと智絵は知った。
「暗くなっちゃったなあ」
自転車で走る智絵は空を見て呟く。
夕焼けのコントラストは美しく、少し先にある公園の桜と相まって、より綺麗だ。
そうして見惚れていたからか、智絵は小石に自転車の車輪を取られ、よろめいてしまう。
「おわっ、ひぃっ!」
驚きの余り変な声を出してしまう智絵は、必死に体勢を直そうとハンドルを左右に揺らしてバランスを取るが、それが裏目に出てしまい――
がしゃーんっ!
見事に倒れてしまった。
「痛つっ、腰いたあ」
腰を撫でる智絵は大した怪我がないことを自覚してから、自転車に向き合う。
その後部に居たぬいぐるみ、もといエリザベスは、自転車の下敷きになって無惨な姿を晒していた。
「エリザベスゥー!」
エリザベスに駆け寄る智絵。
何処にも異常がない事を確認すると、また先程同様にぎちぎちに括り付ける。
いや、先程よりきつく締めたのか、目玉が飛び出しそうな程に窮屈そうだ。
「これでよしっ。自転車は……大丈夫そうかな」
自転車は特に可笑しな所はない。
壊れてないなら問題ないと、智絵は自転車に跨って発進。
そこで異変に気付く。
「あ、あれ、嘘でしょ」
足下を見てみれば、チェーンが外れてしまっていた。
落胆せずにはいられない。
智絵はすぐに脱落したチェーンを元に戻そうと、忙しなく手を動かす。
だが中々元に戻らず、智絵は次第に感情的になっていく。
「もう、もうっ。直ってよお」
目は少しずつ潤いが増し、夜の人工的な明かりを映して、きらきらと光る。
きらきら、きらきらと。
その輝きは美しさを増していく。
そして、動かしていた手は止まり、顔を俯かせてしまった。
――ドッドドッ
低い重低音が智絵の身体を震わせる。
その低く重厚なエンジン音はより鮮明に鳴り響き、智絵の直ぐ近くで止まった。
そして――。
「ねえ、大丈夫?」
智絵は声の方のした方へ反射的に振り向く。
綺麗な声だと感じた。
だがそれは声だけではなく、智絵はその容姿に目を奪われてしまう。
一言で言えば美しい。
だが、智絵は自分にはないある印象を捉える。
大人っぽいという、抽象的な言葉に集約される印象は、彼女の落ち着いた佇まいからか。それとも達観した、見透かされる様な目付きからか。
智絵には分からなかったが、実際の年齢差だけではない、人生経験の差から生じる精神的な格差を実感させられたのだ。
整った顔立ちには何となく安心を覚えて、もう大丈夫だという安堵から、智絵は堪えていた涙を頬に垂らす。
そして智絵は、彼女の髪色と肌の白さ、色素の薄い瞳から外国人だと予測して、思わず英語で助けを求めた。
「へるぷ、みいい!」
「……うん?」
彼女は首を傾げる。
智絵はおろおろと、自転車が壊れてしまって直せないことを伝えようとするのだが、上手く説明が出来ない。
「チェーンが、チェーンがっ!」
拙い言葉で何とかその異常を伝える。
「うん、見れば分かる。ちょっと任せてくれる」
「もっ……勿論です! よろしくお願いします!」
彼女は座り込んで自転車に向き合う。
直ぐにどうすればいいのか理解した様子で、チェーン駆動部を弄り始めた彼女に、智絵は目をやる。
横顔の表情はとても真剣だ。
だから智絵は嬉しくなって、自身の気持ちの昂りが平静を取り戻していくのを感じ、目元に残っていた雫を指で払う。
彼女の手元を真剣に見つめた。
「これで大丈夫」
元通りに戻った自転車を見て、智絵はパァッと笑顔になる。
「凄い! ありがとうございますっ、本当に助かりました!」
綺麗なお辞儀でお礼を言う智絵を見て、彼女は照れているのか頬を指で何度か撫でる仕草をした。
そして彼女は頭を下げる智絵に言う。
「気にしないで。それより、チェーンが外れて直すことも出来ないんじゃ困るでしょ。やり方くらい覚えておいた方がいいよ」
少しばかりキツい言い方だと、周囲に人が居たのなら思ったかもしれない。
だが、智絵はそうは思わなかった。
彼女の言葉を素直に受け止め、その言葉に嬉しそうな笑顔で返す。
「あっ、そ、そうですよね……ありがとうございます! 覚えておきます!」
そんな笑顔を向けられて、彼女は何故かどぎまぎした様に視線を彷徨わせていた。
智絵は再びお礼を言う。
「助かりました。本当に、ありがとうございました!」
「いいえ、大した事はしてないし。私はもう行くから」
やや食い気味の返答をした彼女。
「あ、はい……」
智絵が頭を上げると、彼女は既に乗って来たバイクの元へ歩いて行ってしまっていた。
智絵はその後ろ姿に向かって、一歩踏み出す。
何を言う訳でもないが、何故かその後ろ姿を引き止めようと身体が反射的に動いていた。
が、そんな智絵の行動は、彼女の声に静止させられてしまう。
彼女はバイクに跨りヘルメットを被りながら、智絵に向けて言った。
「……あと、余り無茶な事はしない方がいいと思うよ。それじゃ」
彼女の視線はぬいぐるみの下に固定されたバッグと、自転車の前籠に入ったリュック、それから智絵の背負う二個目のリュックを捉えていた。
それだけの身支度をしていれば、何をしているのか想像に難くない。
家出にしろキャンプにしろ、拙い知識でやる事ではないという分かりにくい忠告。
智絵は思い当たる節があったので、直ぐにそれを理解する。
「えっ? あ、待っ――」
ドッドド――。
重低音が鳴り響き、智絵の声は掻き消される。
「まっ、待ってくだ――」
そしてガコンッと、ギアを入れた音がして、彼女はバイクを発進させた。
「……行っちゃった」
離れて行くその背中を見つめる智絵は、その背中が見えなくなっても、暫くそこで立ち尽くしていたのであった。
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