トライアングル

みやま

第1話

『トライアングル』総まとめ


一章 初恋


-午前七時。

さほど広くない駅のホームには、月曜の憂鬱を主張する会社員や学生の背中が疎らに立っている。決して雲行きが悪いというわけではないが、晴れ渡ってもいないしどろもどろな空を仰ぎ、鈴木佑斗は溜め息をついた。

こうして電車を待っている時間は、数分であるとわかっていながらなぜかしんどい。毎日定刻通りにホームにやってくる無機質な鉄の獣をスルーすれば、今日一日、面白さの欠片もない授業なんか受けずに自由にできるのだ。

そう考えると、あの「通勤ラッシュ」と呼ばれる地獄の密室に足を踏み入れる勇気が更に削がれる。

そも、労働者に対しての世の中の配慮が足りないのだ。真面目なサラリーマンも、車内で単語帳をめくる学生も、仕事をそっちのけで徘徊する遊び人も、全員同じ電車に乗り込まなくてはならない。いつになったら努力している人々は報われるのだろうか。

そんなことをつぶさに思いながらも、佑斗は今自分が置かれている状況を思い出し、更に気持ちが意識の底へと沈み込んだ。


「中間テストかぁ…」


佑斗の高校では、六月上旬に五科目の中間テストが行われる。一週間後に迫ったそれのせいで、勉強を義務化させられ、ただでさえ慣れない高校生活にプラスアルファの重石を背負うことになる。

せっかく受験戦争を勝ち抜いてそれなりの高校に入ったかと思えばこれだ。人生楽じゃない、というのはまさに自分のことだと独りでに頷いた。


『まもなく、一番線に電車が参ります。黄色い線まで…』


今では聞き慣れた抑揚のない構内アナウンスをBGMのように聞き流し、駅の奥の方からやってくる先頭車両を無心で眺める。


次第に減速するというよりかはむしろ急ブレーキをかけたように列車が停まり、佑斗はホームに貼られたステッカーとドアが勘合符のように正確に照合したのを見て、運転手の腕の良さに思わず唸らされる。

ホームに停車する際は自動運転だと思われがちだが、それは一部の地下鉄のみで、ほとんどの路線は運転手が直接行っている。ステッカーとドアの誤差は運転手の技量に比例するので、毎朝こうやって品定めしているのだ。

佑斗の感覚だと、朝はピッタリと停まることが多い。そういえば、朝の混む時間帯はダイヤが乱れぬよう、ベテランが運行していることが多いと聞いたことを思い出した。


正直どうでもよいような早朝の鑑定を終え、ホームから魔の領域へと足を運ぶ。

車内は当然の如く満席で、とうやら馴れ初めの男子高校生に一瞬の同情も与えないつもりのようだ。

満員電車とまではいえないが、それぞれの肩が触れ合うくらいの窮屈に顔をしかめ、押し出されないように中の方へと流れていく。


ここまでのルーティンワークを終えると、佑斗は安堵の表情を浮かべ、リュックから歴史の教科書を取り出してパラパラとめくってみる。

びっしりと詰め込まれた文字が羅列している。こうまで徹底されると、歴史の教科書を作る人は知識人なのかバカなのかわからなくなってくる。

しかしこう、電車内で勉強というのは未だに体が受け付けない。

形では勉強しているものの、机に向かって取り組む時よりは明らかに頭への入り方が違う。いっそのこと、テスト勉強なんて投げ出してしまいたい。


佑斗は身の入らない学習を即座に諦め、教科書を閉じて左脇に挟み、窓からふと外を眺めた。朝の静かな電車から見るその景色は、まるで無音のホログラムを見ているようで、さっきまでの葛藤が戯れ事にも思わせられる。

静かな気持ちで揺れる地面を感じ、その心地よさに首を落として、近くの吊革を手に取った。


そのつりかわはやさしかった。


毎日握るプラスチック素材のあの三角形が、まるで今日までの徒労を労うかのように全てを包容し、佑斗の疲れた心に語りかけた。一車両に大量にぶら下がる吊革のなかで、佑斗が今日無意識に選んだそれが何か特別なものと気づかせるには十分な愛おしささえも感じられ、一瞬にして彼の背中に鳥肌が走った。

最初は意識の向こう側で起こった出来事だろうと思っていたが、佑斗は次第にその妙な感触に異常さえ感じ始め、恐る恐る白い床を眺めていた顔を上げた。


-そこには、自分の手に握られる白く美しい女性の手があった。



その瞬間、「あっ」と子供な反応で手を放し、何事もなかったように演ずればよかったのかもしれない。もしくは今しがたの落ち度を認め、謝罪の言葉で場を繕うことも出来たであろう。

しかしそんな逃避も小細工も佑斗が実行に移すことはなかった。

否、実行できなかったのだが。


今もなお吊革の細い指を握っている手は、その持ち主の意思云々で動かすことができないまでに硬直していた。

佑斗は凍りついた腕を必死に剥がそうとするが、頭上の三角形に二つの手をまるごとくくりつけられているかのような痺れを感じ、肉体が現実に干渉してこない。


佑斗は手を解くことを諦めた。それは即ち彼女の手を握り続けるという非合理的な覚悟だ。

だが、それでもなお絡み合った手から視線をそらすことができない。これ以上横に振り向けば、二つの顔が相対してしまうことは目に見えていたからだ。

中身がありもしない拳を握りしめ、唇を噛み締めることでせめて羞恥から逸脱しようとする鈴木佑斗は、正しく醜態そのものだった。


されど、そんな異質な風が流れる空間に、


「離してくださいっ」


必死で抵抗するような、しかし鈴音のように白く細かく震える美しい声がポロリと落ちた。

それは先頃の包容のように、佑斗を癒す力があった。その一言で、佑斗の凍りついた手が今にも溶けようとしていた。

その、瞬間だった。


『神様はなんて意地悪なんだろう』


言葉にすればいささか女子らしい叫びが具現化する。


突如として訪れた衝撃は常人では立っていられないほどのものだった。


-閑静な住宅街を走り抜けていた列車は、その古錆びた車輪とレールのあげる悲鳴と共に急ブレーキをかけたのだ。


すぐに異変に気付いた佑斗は、進行方向に直立していた体勢を即座に整え、誰かの手を握っていることも忘れて吊革を強く掴み直した。慣性の法則で後方に吹き飛ばされそうになりながらも、中学時代にサッカーで培った体幹が味方してなんとか踏みとどまることができた。

乗客はガクガクと旅客機の如く揺れる車体と音に怯え、血相を変えて各々手すりに掴まるか壁に体重を乗せるかの応急措置で転倒を防いでいた。

何かが起こった、それは無言の共通認識として一瞬で車内に広がった。


そんなところに、佑斗の腹部に柔らかい何かが飛びついてきた。

変な感覚だ。ちょうど水風船のような、弾力を伴う至福の感触。


しかしそれが決して冷静に比喩していられるほどのものではないことが直ぐにわかった。

ついさっきまで隣にいた人物が、片手塞がりのアンバランスに耐え兼ね、自分の胸に片腕で抱きついていたのだ。それを佑斗は自然と体で受け止めていた。

片手を拘束されつつ抱きつく少女とそれを支える少年は、傍から見ればそれはとんでもない状況下にある。


ただ、そんなイレギュラーな展開の中、危険な現状を把握した少女の口から飛び出た言葉は、先程の抵抗とは全く対照的なものだった。




「離さないでくださいっ!」



佑斗は少し高揚していた。

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トライアングル みやま @miyama25

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