5. 過去
「今から二年前、俺が中学三年で智花が小学生だったとき、両親が死んだんだ」
交通事故だった。
二人の乗る車に、逆走車が車正面から衝突したらしい。
逆走車に乗っていた人物は、酒に酔っていて、居眠り運転をしていたという。
家で両親の帰りを待っていた俺たち兄妹が両親に会えたのは、顔も亡くなった後。
それも、当時はそんなこと考える余裕もなかったが、おそらく正面からの衝突で顔がぐちゃぐちゃになっていたのだろう。
俺たちが最後に両親に会えたのは、言葉が届かない壁を隔てて、全身を布で覆っている状態の両親だ。
別れの言葉を交わすことも、顔を見ることもできず、そもそもあれが本当に両親なのかすらも分からず、俺たち兄妹は両親を失うことになった。
「俺たちは
さすがに俺たちだけでやっていくことは厳しく、学校辞めて働くことも難しかった。なので、血縁の近い唯一の親戚だった、母の妹である叔母に引き取られた。
叔母は若き敏腕社長として働いており、ここに帰ってくることはほとんどない。そのため、この家は、実質俺と智花の二人暮らしということである。
「叔母さんとは上手くいってるの?」
「まあな」
叔母とは昔から仲が良かったので、全く不仲ということはない。
叔母は歳も近く、独身だったこともあり、俺たちはずっと可愛がられてきた。そのこともあって、引き取られるときにも、そういう意味での不安は全くなかった。
「確かに叔母とは上手くいってると思う。むしろ、そこらへんの家族よりも。――でもそれは親戚としてだ。家族としては三流以下」
今でもしょっちゅう電話がかかってくるし、会えなくとも心配してくれているのは分かる。
そもそも、俺たちは叔母のお金で学校に通えているし、今飯を食べて生活が出来ているのだ。
でも、俺たちは未だに家族と呼べる関係ではないだろう。
叔母から生活費を貰っているが、俺は最低限のお金しか使わないようにしている。
そのために料理も必死に覚えた。上手い買い物も覚えた。俺たちは、まだ叔母に遠慮している。
叔母も俺たちのことを、叔母としてしか知らない。
「葬式で、智花はずっと泣いてたんだ。父さんと母さんの棺の前で」
今でも鮮明に覚えている。
雨に打たれることも気にせずに、土砂降りの中でも聞こえるくらい大きな声で泣いていた智花のことを。
あれから二年。今の智花はとても笑顔が絶えない。
笑顔が絶えない。絶えない
「今でもたまに夜、泣いている声が聞こえるんだよ。でも、叔母はそのことを知らない。気づいてないんだ」
叔母は、智花は立ち直ったと考えているのだろう。
でも、あいつは少しも立ち直ってない。ただ、我慢強くなっているだけだ。
でも、俺は叔母には何も言わない。
これは叔母が自分から気づくべきことだと考えているからだ。
「俺は智花の唯一の家族なんだ。俺が智花を支えてやらないといけないんだ」
叔母には感謝している。してもしきれない。
でも、俺はどうしても叔母を家族とは考えられない。
どんなに智花が元気そうにしていても、どこか無理しているのは、声を聞くだけでもすぐ分かる。家族なら。
そのことに気づいているのは俺だけだ。
なら、家族である俺が支えないといけない。
智花を支えられる人は他にいないから。
だから俺は、自分を犠牲にしてでも、智花を支えなければけない。
俺が話を終えたところで、有岡は口を開いた。
「事情は分かったよ。もう妹さんのことで、とやかく言わない」
「そっか。分かってくれたのなら良かったよ」
有岡も分かってくれたようだ。
「でも――」
しかし、有岡が続けて発した接続詞は、逆説――否定だった。
「――あなたはどうだったの?」
「え?」
彼女の言葉を、俺は理解することができなかった。
「葬式の時、妹さんは泣いていたって言ったよね? 瀬川はどうだったの?」
「……そんなの泣けるわけないだろ! 俺は智花の兄ちゃんなんだ。俺が泣いてたら妹を支えられないだろ!」
「だったら!――」
そう言って彼女は、とても悲しそうな顔をした。
「だったら、誰があなたを支えてくれるの!」
「っ!」
彼女の言葉は、予想もしないものだった。
俺が支えられる? なぜ?
「妹さんのために体を張る理由は分かった。否定はしない。――でも、苦しんでいるあなたを、誰が助けてくれるの!」
「っ……」
彼女の言葉に、俺は言いよどんだ。
俺が苦しんでいるのだろか? いや、そんなことはない!
「お、俺は苦しんでなんかない! だから、そんなのは必要ない!」
「そんなわけないでしょ! ご両親の話をしているときのあなたの顔、悲しそうだった! 苦しそうだった! ご両親の話をしたくなかったのは、苦しい思いをしたくなかったからでしょ? 思い出したくなかったからでしょ? そんなの、あなたの顔を見ればわかるわよ!」
彼女の言葉に、俺は反論を返すことができない。
そうだ。その通りであった。
彼女は言及を続ける。
「確かに、妹さんは無理をしているのかもしれない。あなたに寄りかかれるかもしれない。……じゃあ、なんで妹さんは夜に泣いているの? なんであなたに泣きつかないの?」
「それは……」
「私にだって分かるんだから、妹さんだって分かってるはずよ。あなたたちは家族なんだから。妹さんと同じように、あなたも苦しんでることを! でも、妹さんはあなたに寄りかからない。それは、あなたは一人で耐えているからでしょ! だから妹さんはあなたに寄りかかれないんでしょ! あなたが倒れてしまうから!」
「……」
「――でも、こんなことを続けていたら、あなたも妹さんも壊れてしまう!」
「じゃあ……」
俺はようやく口を開く。
自分でも、何をどう言いたいのか分からない。
「じゃあ――」
俺の口からは、俺の素直な気持ちが発せられた。
「じゃあ、どうすればいいんだよ! 俺には支えてくれる人がいない! なら、耐えるしかないだろ!」
俺の口から発せられた言葉は、彼女の言葉を肯定する言葉だった。
分かっていた。本当は分かっていたんだ。苦しいことも。このままじゃダメだってことも。
でも、俺にはどうすることもできなかった。だから、せめて智花だけは守ろうとした。
それが、今の俺だった。
俺の素直な言葉を聞いて、有岡は何かを決心したような顔を見せた。
「……だったら、私が支える」
「えっ?」
「私が瀬川を支える! 私があなたのお姉ちゃんになる!」
「何を言って――」
わからない。俺の姉になる?
彼女は何を言っているんだ……?
「そういえば、言ってなかったね。瀬川が打ち明けてくれたんだから、私も打ち明けるね」
彼女が取り出したのは、一枚のカード。
「これは――」
俺たちの高校の学生証だ。
生年月日や名前、顔写真が入っていて、身分を証明することができる。
このカードが証明しているのは、彼女――有岡愛菜の身分である。
しかし、それだけである。秘密でもなんでもない。
あるとすれば、彼女の誕生日を初めて知ったというくらい――。
「――え?」
いや、少しおかしい点がひとつある。
それは生年月日の欄。その内の、年の部分だ。
その年は俺らの学年の年ではない。
これはつまり――。
「そう。私、実は皆より一歳年上なんだよね。ちょっとした病気で、一年間入院してて。今もたまに病院行ったりしているんだけど、病気自体は完治してるんだ。でも、その入院のせいで入学が一年間遅れちゃって」
彼女の告白に、開いた口が塞がらない。
病気……。彼女はもう完治したと言っているが、完治したから良いというわけじゃない。その病気によって、彼女は一年間を棒に振ったのだから。
いや、ただの一年間じゃない。彼女の友人たちとの時間を引き裂いたということだ。
「このことは誰にも話したことないの。変な気を遣わされるのも嫌だったし」
それはそうだ。
大学と違って、高校は基本的に皆同い年である。もし一人だけ先輩がいたら、皆接し方に困るだろう。
告白を一度も受けなかったのも、それが理由なのかもしれない。
「でも、これで私は瀬川のお姉ちゃんになれるって証明できたよね?」
確かに、年齢的にはそうなのかもしれない。
彼女の話を聞いて、彼女に対する見方が若干変わったのも事実だ。
しかし――。
「なんでそこまでして俺を支えようとする? まだ話すようになって数日とかだろ? なのに、どうして……?」
なぜそこまで俺を信用するのか。
なぜ今の関係を壊しかねない秘密を打ち明けてまで俺に尽くそうとするのか。
俺にはそれが分からなかった。
「初めて瀬川と話したときのこと、覚えてる? 私言ったじゃん? 『優等生や人気者っていうような特別な目で見てほしくない』って」
「あ、ああ」
「私は一年間、病院で勉強してたの。ずっとベッドにいて暇だったからね。皆より一年間の時間があったんだから、優等生で当たり前なの。お化粧とかを勉強する時間があったから、人と上手く話す練習をする時間があったから、人気者になったのは不思議じゃなかったの。私がしたのは、卑怯でズルみたいなもの。褒められるようなことじゃない。だから、『優等生』や『人気者』って言われるのは好きじゃなかった」
「そんなことーー!」
たとえそうだったとしても、今の優等生なお前がいるのは、そこで頑張ったお前の努力があったからだろっ!
そう言おうとする俺に被せるように、彼女は言葉を続けた。
「私、瀬川があの時言ってくれた『努力まで否定する必要はない』って言葉のおかげで、何か変われた気がするの。だから私も苦しんでいる瀬川を変えたかった。それで思ったの。私が瀬川のお姉ちゃんとして、あなたを支える。もちろん、今すぐなるのは難しいかもしれないけれどね。瀬川や妹さんとたくさん仲良くなって、”家族”って思われるくらい努力する。努力は得意なんだよ? 瀬川の苦しみを、私が開放する。だから――」
俺を胸に寄せて、抱きしめる有岡。
温かくて、包み込まれるような感覚。
「私の胸の中でなら、泣いてもいいんだよ」
自然と涙があふれだした。子供のように。
彼女の服が濡れると分かっているのに、彼女から離れることも、涙を止めることも、できなかった。
「……っ、ぅ……、ぅわぁぁ!!! ぅぁぁ!!……」
なんの涙なのかは分からない。
あの日流せなかった涙なのか、これまでの苦しみに耐えてきた涙なのか。
有岡は、俺が泣き疲れて眠ってしまうまで、ずっと俺を抱きしめてくれた。
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