第70話 奇跡は起こるはずだから
振り下ろしたクナイは、確かにシオンの喉笛を切り裂いた。
途端に凄まじい量の返り血が、俺を___竹花優希を濡らす。
諦めにも似た感情で、俺は横たわるシオンを見下ろした。
ぜえぜえと呼吸にならない呼吸をしながら、彼は固く目を閉ざしていた。
……まだ、生きてる。
俺は彼の喉元に手を触れた。
赫い華を咲き散らせながらも、そこに彼の体温はまだ残っている。
意識は流石に飛んだんだろうな。
……もう、シオンと会う事は二度とないのかな。
俺は口を開いた。
「……お前、俺に怒ってるとか言ってたけどさ。
俺も怒ってるんだよな。
多分お前の数倍は」
誰にも届かないとは分かっていながら、俺は呟く。
残念だったな、シオン。
俺、裏切ったお前を許せるほど優しくねぇんだわ。
ゆっくりと俺はマフラーに手を掛ける。
もう、2人分使えるほど、俺に夢術は残っていなかった。
それでも。
___夢術:
「死なせてなんかあげねぇよ」
自分にかかっている夢術を解いた途端、長い髪がふわりと肩に落ちた。
私はそのままシオンに夢術を使う。
……私の夢術は、人の怪我を治せるような素晴らしいものじゃない。
結局、何かを騙すことしか出来ない夢術だ。
それでも、シオンの怪我を一時的に塞ぐことくらいなら出来る。
病院で手術を受けられるまで、彼の命を繋ぎ止める事は。
これが、私の復讐だった。
シオンにとっては、ここで殺してあげるのが1番だろう。
……だけど、そんな生優しい事なんてしてあげない。
一生悔やみながら生きていけばいいんだ。
“相棒”のいない世界で。
私は立ち上がる。
塞がったシオンの傷口に、マフラーを投げかけた。
「ざまぁみろ、シオン」
もう私は桜庭見廻隊には戻らない。
もう夢術を使うこともないのだろう。
今確かに、“竹花優希”は死んだのだった。
* * *
瓦礫の隙間から、僕は空を見上げていた。
いつのまにか、夜は明け始めているらしい。
黒かったはずの空は、だんだんとその色を赤く変えていく。
「……綺麗だな」
もうきっと、青空は見えないのだろうけれど。
僕___桜坂風磨は目を細めた。
視界の端を埋める赫い色は、きっと空の色じゃあない。
僕の血の色か、はたまた。
___だけれど、辛いとは感じなかった。
痛みだってとうに飛んでしまっている。
瓦礫に挟まって、動けなくなっている僕の身体は、きっと血で汚れているんだろう。
だけど、もうその汚れも気にならないほど___僕の目は空を映していた。
___僕の心臓は壊れた。
壊れて、核となった。
そして、その核すらも僕は壊した。
___行く末は、わかっていた。
今更死ぬことを怖いとは思わない。
いや、怖いのは怖いのだけれど……それを目の前にした今、恐れても意味はなかった。
むしろ、どこか穏やかな気持ちすら感じていた。
唯一苦しいことを挙げれば、ただ、もう家に帰れないことだけだろう。
……澪に顔を合わせることなく、死んでしまうのが……ただ、惜しい。
だが、それも緩やかな眠気に呑まれていく。
……あぁ、もう死ぬんだ。
そう直感した。
せめて、最期に誰かの声を聴きたかったな___
「……風磨、くん」
幻聴のように、耳の裏に鈴のような声が響く。
いや、幻聴じゃない。
確かにそれは音だった。
僕は落ちかけた瞼を少し開いた。
瓦礫の隙間、空をバックに映ったのは___玲衣さんの姿。
その目は、心なしか潤んでいるように見える。
僕は、喉から声を絞り出した。
「玲衣さん……僕に出来ること……頑張って、みました」
僕にできること、全てやったつもりだ。
僕の成すべきことは、成した……そのはず。
「ああ、でも駄目ですね。
……一緒には帰れないみたいです」
一緒に帰ろうと言ったのは僕なのに、約束を破ってしまった。
ごめんなさい、の呟きは声になったかどうかも分からなかった。
ぼやけた視界で、玲衣さんがふっと息を吐く。
「……きっと、それは私もです。
先に約束を破ったのは私の方ですよ」
彼女の言葉は、どこか諦めたように静かだった。
___そうか、玲衣さんもか。
きっと、彼女は環を殺したのだろう。
それが自分の最期にもなることを悟った、その上で。
そういえば少しだけ、玲衣さんの姿が透けているように見える。
環が消えた、あの時と同じ___彼女の“最期”なのだろう。
「でも、最期に風磨くんと居られて……本当に良かった」
「……僕もです」
僕らは独りじゃない。
それなら……寂しいことはないんだ。
「……ねぇ風磨くん!」
玲衣さんが、ひときわ明るい声を出す。
「手、繋いでおきましょう!
ほらちょっと……は、肌寒いですから」
瓦礫の上から、彼女が手を伸ばす。
「……ですね」
僕は力の入らない腕をどうにか瓦礫の隙間から出した。
血まみれのそれを、力一杯差し上げる。
気を抜くと眠ってしまいそうだった。
それでも、僕は玲衣さんに手を伸ばす。
___指先が触れ合った。
彼女が身を乗り出し、僕の手を掴む。
微かに玲衣さんの体温が伝わってきた。
やけにそれがくすぐったく感じる。
こんなことをしていたら、夜明けだって忘れてしまえそうだった。
「ありがとうございます、玲衣さん」
僕はポツリと言った。
忘れてしまおう、明日のことなんて。
僕らの未来がないことだなんて。
今はただ、静かな温度に身を任せていよう。
やがて、日が昇ってきたのだろう、朝日が鋭く僕の眼を射抜いた。
その光に耐えきれず、僕は瞼を閉じた。
夜が明ける。
僕らは___ここで、終わるんだ。
その時だった。
くす、と玲衣さんが笑ったのは。
「風磨くん、私、自分の夢術に……今なら誇りが持てます」
___夢術:
「だって私は___1番大切な人を、守れるのですから!」
その言葉に、僕は目を見開いた。
「駄目……っ」
思わず出た叫びは、彼女には届かない。
駄目だ、夢術なんて使ったら___
ここで夢術なんて使ってしまったら___玲衣さんは消え去ってしまう。
きっとその事実も、彼女は分かっていた。
分かっていながらも、彼女は笑った。
胸のネックレスが、ピシピシと音を立てる。
赫く亀裂の入ったそれは、呆気なく砕けた。
「迎えに来てください、風磨くん!
私を忘れても、私が居なかったことになっても。
きっと___」
きっと奇跡は起こるはずだから。
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