第68話 神様、人間様 前編
第68話
感情というものが、分からなかった。
人間が感じるという、心の揺れ。
……まあ、なくても当然だった。
初めから、俺には___俺達には、心臓だなんてものは備わっていなかったのだから。
人間様になんて、なれなかったから。
真っ黒い空、ひび割れた地面、誰かの悲鳴。
俺たちが生まれた時___もう、それは1000年も前になるのだろう。
その時、世界はそれに包まれていた。
逃げ惑う人の怒号、恐れる目、後ろ指。
その世界を、俺と姉は逃げ出していたのだった。
* * *
まだ僕が幼い時、僕とアサギは洞窟で生活していた。
___否、物心ついた時には、既に洞窟の中が僕の世界だった。
それは1000年近くも前のこと。
世界がまだ自然災害から復活していない時___文明が崩壊したままの時だった。
「
洞窟の外には出ちゃいけないからね」
朝霧が何度も繰り返した通り、僕は洞窟から出ずに暮らしていた。
早朝、洞窟を出る朝霧を見送る。
そして、僕は洞窟の中を探検するのだ。
湿ったい洞窟ではあるが、その奥には泉も滝もある。
岩の間から差し込む一筋の光に反射して、キラキラと輝く水面を見るのが、好きだった。
そうやって、夕方頃に食料を抱えて帰ってくる朝霧を待つのだ。
その繰り返し。
毎日。
食料は、その日を凌ぐので精一杯。
何も食べれない時もあった。
___それは決して豊かとは言えない。
だけど、僕はその生活を苦しいとは思ったことがなかった。
「お姉ちゃん、美味しいね」
「そうだね」
屑野菜を煮込んだだけのスープを喉に入れながら、そんなことを話していたのだ。
味は今も昔もよく分からない。
味覚というものが理解できていないからだ。
___だけど、その時は確かに美味しいと感じていたのだった。
味がわからなくても、ずっと腹が満たされていなくても、確かに“美味しい”という感情があったのだ。
そんな風に思えていたのは、きっと僕が幼すぎたからだろう。
___僕と朝霧は、世界にとって異質であること。
人間様なんかじゃなかったこと。
それを僕自身が理解できていなかったから。
* * *
洞窟の外には出ちゃいけないからね、と言葉を残し、その日も朝霧は外に出て行っていた。
それから数時間。
僕は洞窟の中をうろうろとしていた。
あっちには野花を、こっちには蔦を。
___洞窟で見つかる数少ない“飾り”で、洞窟を飾り立てていたのだ。
お姉ちゃんは食料を持ってきてくれるが、僕はお姉ちゃんに何が出来ているだろうか?
きっと、何もできてはいないんだろう。
なら、少しでも喜ばせてみたい。
僕には“嬉しい”なんてわからないけど___それでも、お姉ちゃんにとって、それは素敵だということは分かる。
それなら洞窟を飾ってみるのはどうだろう?
……少しでも、“嬉しい”って思ってもらえるかもしれない。
「どんな反応するかなぁ」
まだ幼かった僕は、朝霧の反応に心を躍らせていた。
天井にシロツメグサを飾った、その時だった。
ザッ、と洞窟の入り口から足音がしたのは。
「あっ」
朝霧が帰ってきた。
そう思って慌てて洞窟の入り口に走る。
光が口を開ける、洞窟の入り口。
そこにはやけに赤い陽光が射していた。
赤?
___違う。
陽の光じゃなかった。
そこにあったのは、大きな炎だった。
「いたぞ、あいつだ!」
怒号にも似た叫び声に、僕は動きを止める。
お姉ちゃんじゃない。
お姉ちゃんよりも大きな人々が、手に松明を持って立っていた。
その目は恐れと怒りを持って僕に向けられている。
「___気持ち悪い」
人々の中から、そんな声が上がった。
「…え?」
予想外の声に、僕の思考は止まる。
そもそも、一人ぼっちで他人と会ったことは今までになかった。
姉越しに誰かを見たことはあったが、僕自身が誰かと向き合うのは初めてだった。
「えっと、あの…」
僕は何を言ったら良いのか分からず、
だが、人々の方が待ってはくれなかった。
「立ち去れ」「バケモンめ」「早く殺してあげよう」「お前らのせいで」「赫い目なんて呪われている」「かわいそうに」「何年経っても姿が変わらない」「どっかに行け」「救ってあげなきゃ」
口々に彼らは言葉を吐く。
何言ってるの?
かわいそうなんかじゃない。
僕はお姉ちゃんと一緒に居れるから良いのに。
バケモノ?
救う?
どういうこと?
僕の中でぐるぐると言葉が回った。
わからない。
わからないけれども___少なくとも、彼らは僕を嫌っている。
その感覚だけはわかった。
そして___
「神よ、彼に救いを!」
松明が、僕の目の前に振り下ろされた。
___ああ。
その炎に照らされて、僕は気づく。
この人達の目、赫くないな。
なんで彼等が僕に向けてこんな事をしようとしているのかは分からない。
でも少なくとも、松明を振り下ろされれば火傷をする事を僕は知っていた。
なんで僕は火傷させられているんだろう。
ジュウ、と肌が鳴く。
炎の先が僕の瞼に触れたのだった。
「ぼ、く」
一歩よろめいて、僕は地面にへたり込んだ。
「僕、わ、悪い事をしましたか…?」
僕は炎が触れた方の目を押さえて言う。
悪い事をしたら謝るべきだと、朝霧に教わった。
この人達に僕が悪い事をしたならば、素直に謝ろう。
そしたら、きっとこんな事はやめて貰える。
少なくとも、何が悪かったのかを教えてくれると思った……だから。
「悪い事をしたなら、あ、謝ります。
だから、なんで___」
「黙れ異端者め!」
ガン、と頭蓋骨に拳が響いた。
松明を持った人の背後にいた人が、僕を殴ったのだ。
「あぁ気持ち悪い」
「神を信じないから」
ざわざわと響く、雑踏の囁く声。
ろくに食べ物を食べていない僕は、その殴打で地面に転がった。
そこに覆いかぶさってきたのは、足だった。
人々の足が、拳が、僕の上から降ってくる。
「なんで、僕は、どうして」
どうしてこの人達は話を聞いてくれないんだろう?
どうして、なんで___たった目の色が違うだけ?
それだけ?
彼らのいう“神様”とやらに、嫌われたの?
それだけ?
やっと僕は姉が僕を外に出したがらない理由がわかった。
僕らは、この人達とは違うんだ。
違うから、嫌われる。
嫌われるから、殺される。
「やめて、僕は___」
松明から落ちた炎が、飾り立てた花を燃やす。
それは呆気なく灰となって落ちた。
「もう止めて___!」
夢術:影
僕の知らない文字が、僕の左手に浮かぶ。
人々がハッと息を呑んだのも一瞬だった。
突然に、攻撃が止む。
先程まで降り注いでいた足の雨が、止んだ。
___だが。
一瞬の静寂の後、僕に降りかかってきたのは、真っ赤な色だった。
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