第65話 私の「お兄ちゃん」 後編
来るはずの衝撃。
___それは、いつまで経っても訪れなかった。
代わりに、俺___竹花優希に襲い掛かったのは、どこか暖かく、ドロリとした___“何か”だった。
「……え……ぁ…?」
言葉の形も成さない、嗚咽。
その声に、恐る恐る俺は瞼を上げる。
……目に映ったのは、赫く染まった自分の服だった。
俺の血じゃ、ない。
だって、俺は槍を突き落とされてないのだから。
「……何で…っす、か…」
彼の声に視線を上げた俺は、思わず顔を歪めた。
ボタボタと垂れるその血が出ていたのは、彼の腹部からだった。
彼が突き落としたはずの槍の先が、彼自身を貫いていた。
その手は固く槍の柄を握っている。
そして、槍をその身から抜いた。
切っ先から溢れる赫。
だが。
もう一度、彼は槍を自分に突き刺した。
叫び声とも咽ぶ音ともつかない音が、彼の喉から鳴った。
「嫌だ、どうして、なんで」
彼が口を開くたびに、赫い液体が漏れ出る。
内臓を貫いてしまうくらい、何度も何度も彼は自分の身体を槍で刺していた。
何度も何度も、その度に血を飛び散らせて。
その様子は、まるで自分自身でも制御が効かない様に見えた。
「……っ、やめろ!」
___そんな様子を、黙って見ていられるわけがなかった。
俺は彼に飛びつく。
抵抗なく、彼は地面に仰向けに倒れ伏した。
槍が遠くに転がる。
酷く泣き出しそうな目が、俺のすぐ目の前に迫った。
「聞こえてんだろ、本当は!
寝惚けやがって……いい加減目ぇさませ!
返事しろよ、シオン!!」
俺は、血だらけの彼に向かって叫んだ。
……声は、届いている。
そんな確証があった。
そもそもがおかしかったんだ。
シオンが……あいつが、何の策も講じずに夢喰いと“取引”するわけがない。
例え彼が本当に死ぬつもりだとしたとしても。
例えもう彼が俺を殺しても良いと思っていたとしても。
あいつなら、必ずどこかにバックドアを拵えているはずだ。
そういう奴だ、シオンという人間は。
未だ暴れようとする彼の首に、俺は躊躇なく手をかける。
……殺すつもりはない、あくまで一度意識を遠のけるだけだ。
意識を遠のけて___無意識の中のシオンに、声を届ける為に。
俺はぐっと手に体重をかけた。
だから、どうか……死ぬな。
耐えてくれ。
彼は苦しげに地面を掻いていたが、やがて___
ふっ、とその手から力が抜けた。
「……っ」
俺は目を見開く。
だが、その直後。
「……あはは、うまく死ねると思ったんすけどねぇ…」
彼は苦し紛れに笑った。
その言葉に、思わず俺は手を離してしまう。
途端に、咳き込んだ彼の口から血が漏れる。
それは地面を染め上げるほどの出血。
「……シオン」
俺は、彼の名を呼んだ。
だらりと地面に身を預けて、彼は目を閉じる。
「どうして、どうやって」
「北条先輩の白昼夢を、ちょこっと利用させてもらったっす。
先輩の“憶”、昨日ちょっと暴走しかけてたから___気づかれないように、ぼくの中の記憶の“一部”を一時的に消させてもらった」
彼は俺の言葉を遮って言った。
言いたい事は分かっている、とでも言うように。
「その分の記憶が、今ここにいる___“シオン・アルストロメリア”のバックアップっす」
あくまで淡々と、シオンはそう告げる。
憑神と取引する前に、シオンは自分の記憶の一部を消したのか。
憑神に支配されきることのないように、“自分だけ”の持つ記憶を作っておいた。
……そうすれば、“シオンアルストロメリア”は保てると信じて。
「……バックアップだなんて、言うなよ…。
お前はシオンだ。
……シオン以外の何者でもないんだよ」
そう思っていたかった。
バックアップなんかでもなく、憑神なんかでもなく。
本当にシオンが帰ってきてくれたのだと。
___そう信じたいのに、シオン自身がそれを認めさせてくれない。
俺の懇願に、シオンは目を瞬いた。
絶妙に焦点の遠ざかったその目が、寂しげに揺れる。
「しょうがないじゃないっすかぁ、本当のことだし。
……でもまぁ、ユーキにそう言ってもらえるなら……嬉しいっすね」
彼がそう言っている間にも、地面は赫く染まっていった。
___もう時間はないのだと、それが物語っている。
「ぼく、やっぱりユーキの事、殺せなかったんすよ。
もうどうでもいいやって思ってたのに……それでも、ぼくの相棒だけはどうしても殺せなかった。ぼくを救ってくれた大切な相棒だけは。
だって、未来は変えられるんだって教えてくれたのは、ユーキなんすから」
彼が気だるげに右手を上げた。
その掌が、俺の頬に触れる。
「ユーキ……最期のお願いっす。
今ならまだ“憑神”を抑え込んだままでいれる。“ぼく”としていられる。
だから___お願い。
どうか……」
まだ温度のあるそれを、俺はギュッと手で包み込む。
泣き出すまでもない。
ただ静かな諦念が、彼の口角を緩やかに引き上げていた。
やめろ、言うな。
なんとなくだけど………彼の言いたい事は分かってしまった。
だけど、どうしても聞きたくなかった。
聞いてしまったのなら___断ることが出来ないから。
だけどその言葉は___あまりに優しく、放たれた。
「___相棒として、ぼくを殺して」
66話に続く。
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