第64話 はじめから、みじんも愛していなかった 後編
彼女は、叛逆者だった。
彼女はとんでもない裏切り者だった。
一時の色恋沙汰にうつつを抜かし、愛という不気味なものに心を奪われ、永遠を捨てた___間抜けなモノ。
そして、私が大切にしていた方。
私をまるで“人”のように扱ってくれた方。
私を捨てた方。
私に心だなんて余計なものを植え付けた方。
彼女は、とんだ罪人だった。
嫌いだ……ああ、嫌いだ!
もう彼女の顔を見たくない。
笑いかけてくれる顔を、寂しそうな笑みを、二度と見てたまるか!
こんなものが、愛であってたまるか。
「アサギが___ヨザキ様を殺そうとしています。
彼女は救済の暁への叛逆を犯しました!」
ヨザキ様にそう叫んだ時のこと。
なぜかは知らない、だけど___
だけど、私の頬には目から垂れた滴が漂っていた。
* * *
「桜坂の血は途絶えさせろ。
特に桜坂風磨と桜坂澪は___絶対に殺せ」
ヨザキ様の命令で、私が“蝶の羽”という名の孤児院に向かったのは___今からちょうど10年前のことだ。
その命令に、私はいっそ
……だって、桜坂の血を途絶えさせたのなら。
そしたら、もう二度と“桜坂アサギ”の名を思い出すことは無い。
そしたら、二度とこんな苦しみを味わうことなど無い。
……私は、ヨザキ様の従順な奴隷である。
救済の暁の為に仕えるものである。
その邪魔である桜坂の血も、こんな苦しみも捨てるべきなのだから。
だから___無いはずの心臓よ、私を締め上げるな。
火のついた孤児院は、あまりに簡単に燃え盛ってしまった。
本当にあっさりと、単調に。
___きっと、このまま此処は燃え落ちるだろう。
だが、桜坂の血を消えさせるには、ちょうど良い。
その為に火をつけたのだし。
私は目の前の怯える少女を見ながらそう思った。
___桜坂澪。
それが少女の名前。
「……桜坂澪、で間違い無いのよね」
私が問うと、彼女は小さく身を震わせた。
「おね……え、さん…だれ…?」
その瞳に映るのは、ただの赫。
炎と、それと化物の赫だった。
その左目は、微かに___その色に染まっていた。
ああ……あの人の色だ。
彼女の目の中の化け物が、眉を顰める。
思い出したくはないのに。
その色を。
その手のナイフが、振り上げられた。
……さっさと、殺してしまおう。
そうしたら、もう苦しまなくて済む。
そのはずだから。
振り下ろしたナイフは、呆気なく彼女の小さな体を裂いた。
鮮血が、ただでさえ赫い部屋を赫く染める。
___あれ、この色。
私はふと、思い当たった。
この色___アサギ様の色だ。
「……ぁ」
そう思い当たってしまった。
「……ぁぁああ……あぁっ…!」
目に染み付いて離れない、その色は。
夕焼けのようにどこまでも赫く、赫く、赫い色は。
それは、あの人の色だった。
なんで、どうして、私は。
私は澪ちゃんを殺してしまった?
今、なぜ私はナイフを振り下ろした?
あんなにあの人が愛した子だというのに…!!
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
取り返しのつかない赫。
アサギ様が守りたかったものを___私を捨ててまで守りたかったものを。
それを、私は私の手で壊してしまった。
「___お、澪…!」
どこからか聞こえてくる声。
メキメキと折れる
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい___」
梁が折れて、小さな声の主を押しつぶす。
___ああ、彼の羽織るフードは。
あの赫も、アサギ様の色だ。
桜坂風磨が、そこには倒れていた。
私が知っていた彼より、少し大きくなった彼が。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい___」
何もかも、もう救えない。
そう分かっていてもなお、私は小さな望みを夢術に掛けてしまった。
___夢術:癒
もう何も癒せないのに、元に戻らないのに。
そんな皮肉だけが、私の最後の希望だった。
* * *
「久しぶりですね、桜坂轍」
私、神奈月玲衣は彼を睨んだ。
轍は、静かに私に視線を向ける。
“私”が“この場所”で、彼と会うのはたった二回目だった。
「……悪いけど、この先は通せないよ」
彼は、何事もないかのように言い放つ。
……だが、それはむしろ確かな意志を感じさせた。
彼の言う“この先”に何があるのかは、私にも良く分かっていた。
そして、彼もまた___私が“この先”で何をしようとしているかを分かっているのだろう。
分かっている上で、彼は私を止めようとしている。
「勘違いされてるようですが」
私は構うことなく歩みを進めた。
脳の裏で警鐘が鳴る。
これ以上進むな、これ以上見るな。
これ以上……知るな。
だけど、私は足を止めない。
「私は___神奈月玲衣として、此処にいます。
……どいてください。やらなくちゃいけないんです」
私が歩みを止めたのは、彼の目前15センチ。
たった一歩で触れ合うような、そんな距離だった。
___以前会った時よりも、ほんの少しだけ轍が小さく思えたのは___きっと私が成長したからだろう。
夢喰いの環としてじゃあない。
ヒトとして、玲衣として。
「どかないと言ったら?」
彼は、静かに言う。
その言葉に一切の焦りはなかった。
___だったら、私も焦る必要はない。
私は矢を彼の眼前にかざす。
「この矢で貴方を刺します」
目の前にチラつく矢尻に、轍はわずかに眉を顰めただけだった。
「残念だけど、君に俺は殺せないだろう?
俺が死んだら君も死ぬ。
___無条件に、しかも存在ごとね」
「………貴方も、私を殺せないでしょう」
私は、環の“核”だ。
よって、私には夢術“癒”がある。
私自身の手で壊さない限り、私は死ぬことは無い。
轍は、何も言わなかった。
……いや、何も言えなかったのだろう。
だって、私のやろうとしていることは___
「___本当に、自壊を選ぶのかい?
神奈月玲衣」
環を殺して___自壊を選ぶことなのだから。
「“それ”を殺したとして、私は“死ねる”という選択肢を得るだけです。
たったそれだけです」
私は淀みなく答えた。
……そう、それだけなんだ。
風磨くんを救う唯一の方法を、得るだけ。
ゆっくりと、私は轍の身体を押し退ける。
私よりも背が高いその体は、案外抵抗なく、動かせてしまった。
振り向かずに、私は牢の奥へ向かう。
「……環」
小さな呟きが、背後から聞こえた。
「君は、生きれてよかった?」
暗い牢の奥、その少女は横たわっていた。
あまりに私によく似た少女。
「……」
その肌はどこまでも白く、固く閉じた瞼の内側には赫い色がはまっている。
「……ええ、とっても」
私は答える。
環___横たわる少女の、代わりに。
「とっても良かったです。
優しさに、温かさに、心に触れられた。
みんなと一緒に生きれて、本当によかった」
矢の先を、少女の胸に向ける。
___
それは、殺すことだった。
自分を、殺すことだった。
アサギ様が死んだその日から___私は、誰よりも私を殺したかったのだ。
ポタポタと丸くシミを描きながら、私は言った。
「……“私”は、幸せでした」
環は___幸せだった。
もう二度と戻れない、その
私は、矢を環に突き刺した。
65話に続く。
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