第54話 彼女は、生きていた。 前編
第54話
「はじめまして___会えて嬉しい」
その子に初めて会った時、アサギは開口一番そう言った。
俺とアサギの___子供。
「……すごく、小さいのね」
俺の腕の中で眠る赤ちゃんに、環が不思議そうな目を向けた。
彼女にとっては、赤ちゃんを見るのも初めてなのだろうか。
アサギが部屋の奥からやって来て、赤ちゃんの頭を撫でた。
「良かったわ、元気そうで」
赤ちゃんは、俺の腕の中でもぞもぞと手足を動かしている。
「男の子か、女の子か___どっちですか?」
環が、アサギに向かって尋ねる。
彼女は俺から赤ちゃんを受け取りながら答えた。
「男の子よ。
それに、人間なの」
そう、俺たちの間に出来た子は、人の子だった。
その証拠に、胸に耳を当てると心音が聞こえてくる。
「……人の子って、最初はこんなに小さいんですね」
環はまた不思議そうな顔をした。
どこか憂いを含みながら、知らないものを見るような目で赤ちゃんを見つめている。
___そう、環は知らないんだ。
自分がかつて子供だった事を、親から子に注がれる愛というものを。
「ええ、そうよ_____だから、私たちが守ってあげなきゃいけないの。
そうね……環ちゃんは、お姉ちゃんになったとも言えるわね」
クスクス、とアサギは笑った。
「環がお姉ちゃんか………この子に優しくしろよ?」
「……分かってるわよ」
不貞腐れたように、環が頬を膨らませる。
彼女が、恐る恐るその子に手を伸ばした。
割れ物に触れるように、辿々しく触れる。
___実は、子供の名前は既にアサギと話し合って決めていた。
朝の霧を晴らす風に、轍を埋めて磨く。
これからこの子が受けるであろう苦難が___ちゃんと消え去りますように。
そんな願いを込めた名前。
「初めまして___風磨、くん」
差し出された環の指を、風磨がぎゅっと握った。
「……!!」
彼女の目が、嬉しそうに見開かれる。
「あらあら、もうこんなに仲良くなって」
お母さん嫉妬しちゃうわぁ、とアサギが口を尖らせる。
口ではそう言っているが、アサギ自身もまんざらでも無さそうだった。
「あ…えっと、あの……アサギ様…」
風磨に指を握られたまま、環がおずおずと言う。
「……もし、アサギ様が良ければなんですけど___わ、私にも名前を下さらない…でしょうか…?」
それで、アサギは目を瞬いた。
「……環、名前って一人一つなんだよ?」
キョトン、としているアサギの代わりに、俺が環に言った。
だが、環は分かってるわよ、とでも言いたげに唇を尖らせる。
「環って名前は、ヨザキ様から頂いたものなの。
……だから、その……」
彼女は頬を赤くして下を向く。
「……私が風磨くんのお姉ちゃんだっていうのなら……私にも、家族としての名前が欲しくて…」
「あら、可愛いこと言うのねぇ。
そうね……あだ名としてなら、持っていても良いんじゃないかしら?」
アサギが、クスリと笑う。
「環ちゃん………“
「玲衣……ですか?」
環が、目を見開く。
俺は口を開いた。
「ああ、確か“
「そうよ。
それに、“
アサギが、俺の言葉に頷く。
「玲衣……」
環は何度もその名前を復唱した。
「……素敵な、名前です」
そして、その言葉を抱きしめるように笑う。
___まるで、それは本当の“家族”のようだった。
むしろ、家族だったと言い切っても良いのかもしれない______
そう思えたはずの日々は、突然に終わりを告げた。
「……っ」
赫が垂れるのは、俺の頬だ。
それは地面に落ちて、赫い花を撒き散らす。
「うわ___ぁぁあぁん___」
赫い色が怖かったのだろう。
風磨が泣き叫んだ。
「……どうして、だ」
俺は前を睨む。
そこには、弓矢を構えた環がいた。
「そこを退きなさい、桜坂轍」
彼女はギュッと矢を握りしめる。
彼女の目線は俺を超えて___風磨と澪を庇うアサギに向けられていた。
「貴方が庇っているアサギさ___その夢喰いは、救済の暁に叛逆の意志を示した。
だから、ヨザキ様から殺せとの命令を仰せつかまつったのです」
俺はアサギを背後に回し、一歩前に出る。
「……叛逆?
嘘を言うな……アサギがそんなこと___」
「ごめんなさい、轍」
だが、俺の肩を掴んで止めたのは、アサギ自身だった。
彼女は、寂しそうに笑う。
「……こうするしかなかったの」
「……え…」
俺は目を見開く。
彼女は、彼女自身の意志で逆らったというのか……?
アサギがゆるく首を振る。
「風磨と澪に___この子達に、“間違った救済”は残せない。
どうしても……この子達には幸せな世界で生きてほしいから。
……だから、救済の暁は私が終わらせるしかないの」
「アサ、ギ……」
彼女の赫く燃ゆる目が、俺を見る。
「大丈夫、私が終わらせる。
……だから、どうか轍は……この子達を逃して」
___あぁ、いつからだ?
いつから___彼女は一人で抱え込んでいた?
俺にも相談せず、一人で苦しんでいた?
風磨が生まれてから?
俺達が結婚してから?
___いや、彼女は最初からこうだった。
“抱えるのは、私だけで十分”
彼女のかつての言葉が、蘇る。
……なんだ、初めから抱えてたんじゃないか。
抱えていたのに……俺が解らなかっただけなんだ。
「……俺は、アサギのこと___ずっと、解ってなかったんだな……」
「……何言ってるのよ」
ふん、と彼女が優しく息を吐く。
「貴方は私の自慢の夫なのに、そんなこと言われたら困っちゃうわ」
泣き出しそうなアサギの、どこか呪文じみた優しさ。
その言葉に、俺は何も言えなくなる。
アサギは、そっと俺から離れると___環の方に歩を進めようとした。
「い……いかないで、おかあさん…!」
状況を理解してしまったのだろう。
風磨が俺の服の裾を掴みながら、アサギに呼びかける。
それはあまりに悲痛で____でも、どこか諦めたような懇願だった。
だけれども、アサギは悲しそうに笑ってかぶりを振る。
「…ごめんね、風磨。
ちょっと寂しいかもしれないけど…大丈夫よ、また会えるからね」
彼女がするりと自分のフードを脱ぐ。
赤いその服を、優しく風磨にかけた。
小さな彼の身体には、あまりに大きいそのフード。
俺は声が出なかった。
震える声で、環が言う。
「逃げても無駄よ。
……すぐにヨザキ様がここに到着するわ、だから____」
彼女の言葉尻は、掠れて聞こえなかった。
「…アサギ」
どうにかして声を絞り出した俺に、彼女が振り向く。
「絶対に追い着いて来て。
そして……二人を迎えにいこう」
彼女が帰ってくるまでだ。
「安心できるようになって……そして、もう一度風磨と澪と一緒に暮らそう」
「……ええ、そうね」
アサギが静かに頷いた。
そして、彼女の周りに現れる__桜。
舞い散る桜が、彼女たちの姿を霞ませてしまう。
それを背に、俺は風磨の手を引いて___澪を抱いて___歩き出す。
「……ぼくは、おにいちゃんだもん。
だから……だいじょうぶだよ」
振り返らないように、俺の袖に抱きつきながら、風磨が言った。
その手はぎゅっとフードの裾を握っている。
「そうだね、風磨。
……澪を、お願い」
この子にどれだけ悲しい思いをさせてしまうかと思うと胸が痛む。
……それでも、どうかこの子たちだけでも。
どうか安全に、どうか幸せに。
____アサギが死んだこと。
澪が夢喰いに襲われたこと。
____それを知った時には、既に後の祭りだった。
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