第9話 絶望の笑みを
第九話
桜庭町の北側には、大きな総合病院が一つある。
「
そう大きな看板が掲げられた入院棟の、とある一室。
僕は月明かりが差し込む窓際に佇んでいた。
目の前には、白いベッドがひとつ。
その上では、一人の少女が淡々と眠っていた。
まるで、甘い夢でも見ているように安らかな寝顔。
僕は彼女の前に膝をついた。
そして、彼女の名前を呼ぶ。
「…
大丈夫だよ。
お兄ちゃんが、僕が絶対に君を目覚めさせてみせるから…。
聞こえているはずがないことは分かっている。
だけど、僕は彼女の耳元で言った。
「もう少しだけ…まってて」
僕は足音を殺して、見廻隊の本部に戻った。
裏庭を静かに通り、玄関の方に回り込む。
僕は、そっとドアノブを掴んだ。
一呼吸置いて、それを回そうとした時。
「…おかえりなさい、風磨さん」
風が吹いた気がした。
それも、夜の、刺すように冷たい風が。
僕はドアノブから手を離し、パッと振り向いた。
そこには、玲衣さんが口を結んで立っている。
彼女の目は懐疑心を孕んでいた。
彼女が口を開く。
「夢喰い狩りをしていた…というわけではなさそうですね。
毎晩、誰にも言わずに何処に行ってるんですか?」
僕はドアノブを後ろ手に掴み、彼女から目を逸らした。
「玲衣さんには関係ないことです。
訊かないで下さい」
彼女は唇を噛み締めた。
「…打ち明けてはくれないんですね」
「はい」
僕ははっきりと言い放つ。
玲衣さんは、ショックを受けたようだった。
「私たちは…仲間、じゃないんですか?
私は…私は、風磨さんに信頼されていないんですか…?」
彼女の声が微かに震える。
僕は息を吸った。
「…仲間ですよ。
それに、玲衣さんには感謝もしています」
彼女は少し目を輝かせた。
僕は、その輝きを断ち切るように吐き捨てる。
「だけど…悪いですが、これ以上立ち入ることは余計なお世話ですので。
心配してくれてありがとうございます…では」
僕は後ろ手にドアノブを回した。
そのまま玄関に逃げ込もうとする。
「待って…!」
しかし、彼女の声で思わず固まってしまった。
それだけ彼女が挙げた声は悲痛だったのだ。
彼女は自分の服の裾を掴む。
「風磨さんは…なんで、そんなに冷たいんですか…?」
そう言ったきり、彼女は俯いてしまった。
流石の僕でもバツが悪くなる。
僕は、ドアノブから手を離した。
パタン、と音を立ててドアが閉まる。
僕は低く呟きを吐いた。
「逆に、なんで玲衣さんはそんなに僕に構うんですか?
そんなことされたら_____」
そんなことをされたら、僕は甘えてしまう。
今の状況に甘んじることは、どうしても僕の中で赦せることではなかった。
だって、それは、僕が歩みを止めてしまうことになってしまいそうで。
玲衣さんは、肩を震わせて言った。
「…だって、だって風磨さん」
彼女は顔を上げる。
その目は僅かに潤んでいた。
「一度も…笑って、くれないじゃないですか…!」
「……え?」
僕は思わず聞き返した。
一瞬頭の中が真っ白になる。
…僕が、笑っていない?
そんな馬鹿なことあるはずがない。
毎日、僕は僕なりに生きているはずだ。
そう、ちゃんと笑って____
そこまで考えて、僕は固まった。
…思い出せない。
自分の記憶の中の僕は、いつも笑顔じゃなかった。
_____そういえば、最後に笑ったのって、いつだったっけ?
10年前。
「あの日」まではちゃんと笑っていた。
笑えていたはずだ。
それは今でも鮮明に覚えている。
じゃあ…「あの日」の後、僕は笑っていたのだろうか?
ザリっと足下で音がする。
無意識のうちに後ずさっていたのだ。
「僕は…」
…僕は、笑えていなかった。
そして、その事実すら理解していなかった。
きっと、笑うという行為すら、心の底に押し込めて忘れていたのだ。
玲衣さんは、全てを吐き出すように言う。
「私は、風磨さんの心から笑うところを見たいんです…!
もしも風磨さんが抱えている“何か”が、風磨さんが笑顔になることを拒んでいるのなら…、私はそれを取り除きたいんです!
一緒に背負いたいんです…。
だから_____」
「やめて…っ!」
気づいた時には、もう叫んでいた。
胸が苦しい。
苦しくて苦しくて、喉が詰まる。
一度叫んでしまったら、後はもう止まらなかった。
「お願いだから、もう僕に構わないでくれ…!
優しくなんて、しないで…っ」
息が荒い。
胸の苦しさがつっかえたまま、何かが込み上げてくる。
…もう、何も言わないでくれ。
これ以上、彼女に何か言われてしまったら…。
僕は僕の全てを吐き出してしまいたくなってしまう。
楽になってしまう。
もし、そんなことをしたら…僕はもう此処にいられなくなる、から。
玲衣さんは、そんな僕を呆然と見下ろしていたが、やがて唇をぎゅっと結んだ。
「…風磨さんには、私が優しく見えるんですか…?」
僕は答えない。
彼女はすごく…ものすごく優しい。
だからこそ、僕は彼女から逃げたかった。
彼女が笑う。
…それを笑顔というには、あまりに歪だった。
何もかもを諦めた、まさに絶望を呑み込んだ笑み。
「…だとしたら、大きな間違いです。
自分が一番分かってます。
私は、優しくなんてないんです。
…だって、今だってエゴでしかこんなこと言えないんだから。
私、本当は笑うのが怖いんですよ…?
今も怖くて…仕方ないんです。
…自分自身が、怖いんです」
僕は彼女を見た。
彼女は哀しい笑顔のまま続ける。
あたかも、罪を独白するかのように。
「私には、二年半前までの記憶が…うっすらとしかないんです。
記憶喪失…とでもいうのでしょうか。
…だけど、今もはっきりと覚えていることがあります」
彼女は泣き出しそうな目で、一つ息を吐いた。
「…幼い頃、私は狭い鉄格子の中でしか生きていませんでした。
いわゆる、座敷牢です。
私は、その中で生活していたんです。
私の父は、私に最低限の食事しか与えてくれませんでした。
生きもさせず、死にもさせないギリギリの量を。
…これって、真っ当な人生を生きてきた人の感覚からしたら“酷い話”なのでしょうかね?
でも、私にとってそれは“普通”だったんですよ。
当たり前の日常です。
言葉もわからないし、感情も知らない。
悲しいなんて、酷いだなんて、全く知らないものだったんです。
だから、なんとなく“このままいつかは死ぬんだろうなぁ”としか思っていませんでした。
…でもある日…多分、13回目くらいの冬でしたかね」
彼女は言った。
「父が死にました。
殺されたんです…もちろん、夢喰いにですよ。
鉄格子の手前にあった障子の向こうで音がしたと思ったら、突然それが倒れてきたんです。
そこには、血塗れの父の死体がありました。
…ねえ、風磨さん。
それを見た私はどうしたと思いますか…?」
僕は呆然とした。
彼女の悲惨な過去に。
惨いとしか言葉が出てこない。
そんな仕打ちをしてきた父の死体をみた彼女はどう感じたのだろうか?
彼女のことだ。
少しは、悲しく感じたのだろうか?
しかし、玲衣さんは自らの手を合わせ、それを握りこんだ。
そして、彼女は吐き捨てた。
「笑ったんです、私は」
「…え?」
僕は耳を疑う。
彼女はもう一度繰り返した。
「…笑いました、初めて。
それが、私の中に初めて人間らしい感情が浮かんだんですよ。
それは、紛れもない悦楽だったんですよ」
彼女は淡々と続ける。
まるで、何かの物語を語るかのように。
「ああ…やっと、救われるんだって思いました。
自由になれる。
私は、私になれるんだって。
…自分の父親を殺したはずの夢喰いに、感謝すら感じてしまったんです。
その夢喰いに向かって手を伸ばしたことまでは覚えています。
…私は…自分の中の凶暴さが怖いんです」
彼女は辛そうにそう吐き出した。
「玲衣さんがどうして欲しいのか、僕には分かりません」
僕は呟くように言う。
何故彼女は、そこまで恐怖を感じるという“笑う”ことを僕に求めるのか?
彼女の話を聞けば聞くほど分からなくなる。
「…だからきっと、エゴでしかないんです」
彼女は先ほどと同じことを繰り返した。
「本当は、私は私を許せていないんです。
だけど、見廻隊のみなさんは、こんな私でも受け入れてくれた。
責めないで、許してくれた。
それで、それだけで私はすごく救われたんです。
…だから、今度は風磨さんに救われてほしいんですよ。
私だけが楽になって、他人が辛い思いをし続けるだなんて、あってはいけないんです」
きっと、それが彼女の戦う理由。
それは、彼女が彼女自身につけた呪いだ。
自分が救われないように、自分を許してしまわないように。
「…風磨さんがどんな人生を歩んできたとしても、私はその全てを受け入れる覚悟はできています」
彼女は微笑みを見せる。
それは、自分の醜さを見せてしまったという絶望の笑みでもあり、僕を救うための天使の笑みでもあった。
僕は彼女の手を取るかどうか決めかねる。
どうするのが正しいのか?
それに答えなんてなかった。
…だからこそ。
彼女の曇りのない瞳が僕を射抜く。
…自分を許すことができないのは、僕だって同じだから。
「分かりました…お話しします。
…できればあまり話したくない話なので、明日皆んなの前で話す…これでいいですか?」
僕は右目の眼帯に手を添えた。
信じてみよう。
玲衣さんを、そして見廻隊のみんなを。
十話に続く。
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