第44話 気づき

走る、走る、走る。


ただひたすらに俺は走った。


叶の声がだんだん遠ざかっていくのがわかる。

心がぎゅっと絞られるような苦しさが、地面を駆ける足の音が俺の耳の鼓膜を震わせる。


「ああ、あああ……っ!」


喉の奥からうめき声とも何とも言えないような声が漏れた。 


つくづく、どうしようもないやつだと思う。あそこで逃げるなんて、どうにもならないのに。それでも、俺は逃げてしまった。


どうして素直に相談できないのか。


悪いのは、全部俺なのに。


全部全部、俺のせいなのに。


知らぬ間に降り始めた雨に打たれながら、俺は道路脇の鉄柵に座り込む。そのままがっくりとうなだれながら、俺は頭をぐしゃぐしゃと右手で掻き回した。


「…………なんだ」


そして気づいた。このどうしようもない事実に。


今更、気づいてしまった。


「俺、結局……出会った時からから叶のことが───」


‘‘恋愛的な意味で‘‘好きなのだったのだ。


はは、と枯れきった笑い声が出た。


ゆっくりと曇天の空を見上げる。



好きだから、嫌われたくない。


恋愛的な意味で好きだから、嫌われたくない。


俺は叶のことが恋愛的な意味で好いているという事実に、ただずっと目を背けていただけなのだ。家族として好きだということにして、誤魔化してきたのだ。


今思えば、「俺たちは恋人だ」なんて冗談を言ったのも、心の奥底では彼女とそういう関係になりたいと思っていたからに違いない。


「クッソダサいな」


今まで自分のこの感情に蓋をしてきたのは、兄としてしっかりしなければならないという先入観のせいだ。


『今日からあなたのお義兄にいちゃんになる高山律くんよ』


この一言で、俺は叶に対する恋愛感情を心の奥底に封印してしまった。


叶に対して可愛いと思った時も、愛おしいと思った時も、自動的に「家族として」という枕詞をつけてしまっていたのだ。


「でも………」


水気をしっかり含んでしまった服を掴み、ぐっと握る。


ドクン、ドクンとようやく落ち着いてきた心臓の鼓動。だけど、依然としてその心臓の周りには「恐怖」の感情が黒いモヤとして絡みついている。


「好き」だとわかったところで、この気持ちは解消されない。むしろ、それを自覚してしまったことでさらに強まったとも言える。


どうしたら、いいんだろうか。


「……っ」


俺はやり場のないこの気持ちにもどかしさを覚え、歯を食いしばった。大量の雨粒が俺の髪に飛び込んだ後、先から垂れ落ちる。


考えるのをやめ、俺は目をつむり聴覚のみに意識を傾ける。


20分の間そんな無意味な時間が経過する。


そのくらいそうしていると、サクリ、サクリと湿った砂利を踏みしめる音がこちらに近づいてくるのが分かった。それが、世界に残った唯一の音のように思えた。


ずっと聞こえてた雨音が、何かプラスチックに当たるような音に変わる。


ふわりと、果実のような香りが鼻をくすぐった。




「りっちゃん」




それは1つの知った声だった。


だが、叶ではなかった。


聞き馴染みのある呼び名。しつこいと感じたこともあるその呼び名。


その声の主を俺は理解してから、ゆっくりと顔を上げた。


そして視界に、その声の主を捉える。


「…………りっちゃん、どうしたの?こんなところで、びしょ濡れじゃんか」


その声の主──白川千聖が、少し安心したような表情をして俺の目の前に傘をさして立っていた。


対して俺はどこか安心したような、けれど結論を先延ばしにしてしまったかのような罪悪感に襲われていた。


何も言い出そうとしない俺を見て、白川さんは単刀直入に話かける。



「叶ちゃんと喧嘩、したんだって?」


「………まぁ、喧嘩というか、嫌になった俺が一方的に叶から逃げたというか」


「なるほどね」


白川さんはそれ以上は何も言わず、俺の隣に座った。そして、俺と彼女の間に傘を置く。


「というか、なんでこのこと知ってるんだ」


「いや、だってりっちゃんの家で料理作ってたらびしょ濡れで叶ちゃんが帰ってきたんだもん。それで事の次第を聞いたら、なんか『律を怒らせちゃったみたい……』って落ち込んでたから、これは何かあったなと思って」


ツッコミどころはあるけど、今はそんなことを言う気力もないので「ああ、そう……」としか答えなかった。




「ねえ、りっちゃん」


しばらくの沈黙のあと、白川さんは意を決したように切り出した。


「どうして、りっちゃん──いや、律くんは叶ちゃんから逃げたりしたの?」


いつとは違う、真面目な表情。


そのせいか、俺は話さないといけないような焦燥感に駆られた。いや、この気持ちを誰かに吐き出したかったのかもしれない。誰かに聞いてもらいたいのかしれない。


俺は気づけば、おのずから話し始めていた。






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