僅かだけれど、おぼえていること
あなたは、あなたの人生で一番の桜がありますか。一番きれいな、一番心を動かされた桜が。
テレビで見たのかもしれない、あるいは本で読んだのか、「日本中にソメイヨシノが植えられていて、それが地域ごとに一斉に開花する。それはきれいだけれど、そのためにソメイヨシノ以外の品種が注目されず、あるいは数を減らし、云々」ということがあるそうだ。
私もそれにある程度同意する。なにしろ今は生物多様性ですから。
*
私が中学時代に好きだった子は、明るい声をしていた。結局3年間同じクラスにはならなかったが、学校へ向かう最寄り駅が同じだったために、駅のホームや学校の廊下で少しだけ言葉を交わすことがあった。
私は、あまり真面目に学校に通う生徒でなかった。午前の授業の途中に、あれは確か文化祭の準備だったと思うが、遅れて登校し、寝ぼけ頭で、片方の肩からリュックサックのひもを垂らしながら、校舎の階段を上がっていた。
「もう授業が始まってるよ」と彼女は言った。
下の階から駆け寄って、私のリュックサックの垂れ下がった肩ひもをつかんで、それを肩に掛け直した。
「ほら、しっかり持って」
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今思うと、彼女は私の後ろから現れることが多かった。
「完全な不意打ちである。ほんとに腹立つよな」
*
時は流れ、私は大人、もしくはおじさんになり、時はあらゆるものを奪っていった。私は木工細工の工房で働き、毎日そこへ自転車で通っていた。
田んぼに挟まれた幹線道路を走り、川を二つ超えて行った。
春になって桜が咲いた。田んぼの中の一区画に車の整備場の廃墟があり、もともと駐車場だったあたりに廃車が積み重なっていたのだが、その朽ちた車の隅にその桜が咲いていた。私の見たことがない品種だった。
八重桜のように、瑞々しく柔らかな花弁が幾重に重なっていた。白い花弁やピンク色のもの、ワイン色のもの、またそれらが混ざったものなどが自由に広がっていた。
イチゴとラズベリーに牛乳をかけて、スプーンでつぶしたような色だった。
私は、自転車を道の脇に寄せて、時間の許す限り、仕事に行く途中に、それを眺めていた。私がそこに立っている間、私と同じように、その桜に足を止める人はいなかった。
何日かそれを続け、おそらく今日で最後だろうという日になった。花びらも散りだし、天気予報では明日から雨が続くそうだった。
その日私は、幹線道路を離れ、田んぼの中に入っていった。自転車でしばらく下ると、いつもは通勤で通り過ぎる河川の水辺に出た。そこは私が子供の頃によく遊んでいた場所だった。
私は靴を脱いで、靴下を取り、ズボンの裾をまくった。止水のための堤で水位が浅くなり、流れに泡立っている所に足を入れた。冷たい水が肌を刺した。
「仕事にいかないの」と彼女が岸から声をかけた。
「うん」と言って私は顔を上げた。
「あのさ」私は大きな声で言った。
「ずっと好きだった、ずっと君に好きだと言いたかった」
川は水しぶきを上げて、とめどなく流れ、二人の声は誰にも聞こえなかった。
終
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