梅ガムをポケットに入れて

 これは今年の春、ちょうど梅から桜に代わる頃だから、3月の終わりだろうか。私は登山をしていて、ロンTにウインドブレーカーを着こんで、うっすら汗をかいていた。私は梅ガムを噛みながら、イヤホンでラジオを聴いていた。


ラジオDJは般若心経の話をしていた。

 「不生不滅 不垢不浄 不増不減と仏教ではあります」

 「生まれるということもなければ、滅してしまうということもない。汚いということもなければ、清いということもない。増えることもなければ、減るということもない」

 「それならなぜ私たちは、良い行いをしようとするのでしょう、またそれができずに苦しむのでしょうか」


 太陽が雲に隠れ、また現れて、登山道に光が差し込んだ。冬の間にはいなかった羽虫が出ていた。一か所に集まり飛んで、祭りをしていた。私は、それを避けながら歩き、また時にぶつかって、鼻がかゆくなった。


 私は、歩きながら梅ガムを噛み、味がなくなると包装紙に包んで脇道に放り投げた。耳からイヤホンを外し、右手に持つステッキが地面を打つ乾いた音を聞いていた。野鳥が楽しそうに囁きあっていた。ウグイスが今年も鳴き声の練習をしていた。


 アスファルトで舗装された道を抜けて、地面が現れた道に入った。所々、土から木の根が張り出していた。


 

          *


 今、これを書いているのが5月の中半で、ほとんど暑い日ばかりになってしまった。冬頃から春の初めには、あれほど薄着で過ごせる日を望んだのに。今になって、寒さをしのぐためレッグウォーマを巻き、手袋をして、わずかなウララ日に喜んでいた日を懐かしく思う。


          *



 舗装されていない道を歩いてしばらく経ち、私は立ち止まった。桜が咲いていた。山桜だった。花びらが落ちるとき、それが所々、日の光に反射した。高い木々で影ができた細い道の中で、それは細かく切った銀色の折り紙のように輝いた。


 桜と対面する位置に手作りの長椅子が置いてあり、20代から30代と思われる女性が座っていた。水色のアウトドア用のバケットハットを被って、水筒で何か温かそうな飲み物を飲んでいた。

 横に座ってもいいか私は聞いた。その人は、いいですよと言い、初めから脇に座っていたのに、さらに隅に詰めて座り直した。


 私は、ポケットから梅ガムを出して、口に含んだ。一つを女性に進めた。彼女はありがとうと言い、あとで頂くと、リュックサックからポーチを出して、それにしまった。

 

 「遠くから山を見て、ちらほら桜が咲いていることは、見たことがあるけれど、実際にその下に行って、それを見るのは初めてです」と私は言った。

 「正直言って、こんなに綺麗だとは思わなかったな」

 彼女は、驚いたように目を丸めて、それから微笑みながら、

 「そうですね、本当に綺麗。だけど、、それをきれいだと思うのは、あなたが綺麗だからじゃないですか」と言った。

 私はそれに答えて小さく笑った。

 私はその会話をしているときに、ずっと梅ガムの包装紙の折り目を指先で伸ばしていた。


 彼女は下山する途中だった。私は彼女にこの登山道にはよく来るのか聞いた。彼女はよく来ると言った。私は、胸ポケットからペンを出して、梅ガムの包装紙に携帯電話の番号を書いて彼女に渡した。

 だから私は2度彼女を驚かせることになった。


 彼女と別れても、私はしばらくその桜の前に座っていた。雲は気まぐれに、太陽を遮って影を作り、日が差し込むと鳥たちが、楽しそうに歌った。桜の花びらは、登山道に通る風に舞い、その一片一片が輝いた。



 私は、梅ガムを噛んでは包装紙に包み、それを力いっぱい放り投げていた。



               

          終


 


 

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