第7話 市立動植物園にて その3
――そう言えばカノン先輩、何処に行ったんだろう。
動物達の所を一通り周った僕達は、植物園の方へ足を伸ばして写真を撮っていた。ファインダーの向こうに広がる花畑を眺めつつ、僕はいつの間にか集団から居なくなっていた佳音先輩の事を気にしていた。
「——時永君、だっけ?ちょっとそこ、邪魔になってるかも」
考え事に耽っていた所に、不意に横から声を掛けられ、周りを見渡してみる。
「あ、ごめんなさい!」
他の新入生の一人——確か、
「休日で人も多いし、気をつけないとね」
「教えてくれてありがとう、気をつけよう……」
当たり前の事だけれども、この場所にいるのは自分だけではない。周りにも気をつけないと、と胸に刻んで、植物園の散策を続けた。
――そろそろ、目的地だったと思う。
僕達は細い階段を、一列になって上っていく。時折、そよ風の音に混ざって、小さくシャッター音が聞こえてくる。多分、後ろの方を歩く杁中先輩が、先を歩く僕達を撮っているのだろう。
「そろそろ着くと思うけれど、まだ桜は残ってるかな?」
すぐ後ろを歩く千草君のぼやきを聞いて、僕は動物園で咲いていた桜の様子を思いだす。ソメイヨシノはもう散り始めていて、緑の葉が顔を覗かせていた。早咲きの桜なら、完全に新緑に包まれているだろう事は想像に難くなかった。
「あまり、期待出来ないかもしれないですね……」
しかし幸いなことに、僕達の心配は杞憂に終わってくれた。次第に空を覆い隠していた深緑の葉に、濃淡の桃色が混ざり始める。そして視界が大きく開けた時。目の前に広がっていたのは、満開に咲く、様々な種類の桜だった。
「全然、心配しなくて良かったね!さて、どこから撮ろうかな?」
目を輝かせて歩き出す千草君に続いて、僕も桜の森の中へ歩みを進めた。
「何かあんまり上手く行かないなあ……タクマーさん、教えて下さい!」
「どれどれ……多分、主役にしたいのはこの花かな?なら、もう少し近づいて――」
「ちょっと絞りすぎたかな?じゃあ、あと1/3段絞って――」
一度は森のあちこちに散らばった僕達だったけれども、いつの間にか、また一団に戻って写真を撮っていた。先輩に意見を仰いだり、1人で細かく調整を重ねたり。柔らかい春の陽射しが照らす桜の木々を、出来る限り理想の姿で写そうと、集まった皆はそれぞれのやり方で撮影に没頭していた。
――よし、と。
僕は撮った写真がイメージ通りだったことを確認して、カメラを下ろした。次に撮りたい所を探して、眼下に広がる桜の丘を見渡しながら歩く。寒梅のような濃いものから、純白に近い淡いものまで、何十色もの"桜色"が、複雑なグラデーションを描いていた。
――これを写真に収めるならば……
一度下げたカメラに、僕はまた手を添える。レンズのズームリングを時計回りに目一杯、"17"の目盛が振られた所まで回す。その場でしゃがみ、地面すれすれの所でカメラを構える。ファインダーの中が、なるべく桜で埋められる様に、細かく構え方を調整して、シャッターを切る。バックモニターに出力された写真を見てみると、幸いなことに、おおよそ思った通りの写真が撮れていた。
「……よし!」
思わず、口に出てしまっていた言葉を聞いていたのは、さっきまで周りにいた筈の旭部長達ではなく。
「いい写真、撮れたかな?」
「——カノン先輩」
何処からか現れた、佳音先輩だった。
「何とか、上手く行きました」
「そっか、良かったわ。……隣、ごめんね」
佳音先輩は短くそう言うと、僕の右隣にしゃがみ込む。身に着けたジーンズが汚れるのも厭わず片膝を着き、右側に提げていたカメラを自身の正面に持ってくる。ズームリングを少しだけ調節すると、ファインダーを覗いて撮影の体勢に入った。
カシャッ
1回、シャッターが下りた。佳音先輩はモニターの表示を確認すると、カメラの背面のボタンを幾つか触り、カメラの右肩のダイヤルを少しだけ回す。それから再びファインダーを覗くと、小さく息を吸い込んで、薄紅色の唇を引き結んだ。微風に揺れる桜の枝が止まるのを、待っているのだろうか。その真剣な表情は、最初に駅前の公園で佳音先輩を見た時のそれと全く同じで。
――何ていい顔で、写真を撮るのだろう、この人は。
自分の体が、熱を帯びるのを感じる。ふと、その姿を写真に収めたくなり、首に提げたままにしていたカメラに手が伸び掛けて。
「——皆さんに1つだけお願いです。トラブル防止の為、親しい友人以外を撮影したり、それを公開する事は止めて下さい。」
旭部長の一言が脳裏をよぎり、慌ててその手を止めて、眼下の桜に目を遣った。その時、隣で小さくシャッター音が鳴る。ちらりと佳音先輩の方を窺うと、またあの時の柔らかい笑みを浮かべていた。
「おーい、佳音ちゃん、時永君!そろそろ帰ろうか!」
斜面の上の方から、僕達を呼ぶ旭部長の声がした。
「わかりました!」
「すみません、今行きます!」
一足先に駆け出した佳音先輩を追いかけて、僕も走り出す。
――胸の奥に産まれた、小さな願いを抱えて。
(その4へ続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます