第8章 愛と執着心

ちょっと休憩、にならないかも、しれませんが横道にそれてみます。


全てはエネルギーで、脳という構造が場における残像となり、意識を存続するという仮定にもとづいて、我々生命と自然にはどんな違いが有るのでしょう。例えば、自然におけるカオス理論のような、我々人間には到底作れない自然の造形や、想像するに無限に存在する自然界のパターンの数々。それらを目の当たりにした瞬間、知性の有る人間はそこに美しさや畏怖の念を抱いてしまうのは何故なのでしょう。

私はそれを、究極の愛の形だからなのではないかと思うのです。人間は知性を獲得したせいで、自然の一部から取り残されてしまった気がするのです。だから人間は自然を美しいと感じ、恐怖を抱く、それは自然という偶然の生み出す産物に本能的なあこがれが有り、そうなりたいという欲求が生まれてくるのではないでしょうか?


まだ長いとは言えない程度しか生きてませんが、既に沢山の心残りが有ります。息子に会いたいという気持ちは片時も薄れることがありません。執着心がずっと強かったので、いつも薄れるのは前髪だけなんです。息子に会って何かをしてあげたい思う気持ちは愛でしょうか。求めるは恋、与えるは愛、だとか愛は真心、恋は下心、なんてのもありますよね。


もう何年も逢ってないし、ちゃんと育ててあげられなくて後悔の一念です。この気持は殺意や怨念にも匹敵する強いもので、愛という言葉では語りきれない強い思いです。おそらく親になった人は殆どの人が子供を愛し、その気持は自分の命すら顧みない強いものだと思います。


でも、はたして、これを愛というのはどうだろうか。


まぁ単純な言葉の定義の問題で「それを愛と言うんです」と言われれば、ああ、そういうものなのね。で別段問題はありませんが、私はこの息子を思う気持ちは、愛ではなく執着心なのではないかと感じています。我が子を愛するがゆえの執着心、その物が愛、といった感じでしょうか。


そもそも人間にとって理想的な愛ってなんなんでしょう


私の思う愛というのは偏見や差別なく、腑に落ちる(受け入れる)事だと思うのです。例えば、美味しそうなものがある。腹をすかせた子がいる。食べさせてあげるのも愛だし、奪っても愛。一緒に食べるのも愛。ただし、そこに深い意味がない場合に限る、というのが私の理想的な愛です。


同じ奪う、という結果でも、俺が食いたいから食わせねぇ、なら愛ではなく、どっちでもいいや、あ、わりぃなんか食っちゃった。であれば愛なのです。変な話なのですが、そのほうが腑に落ちるのです。


自然は文句を言いません、山をみて美しいと思うのは愛だと思います。山は見られて嫌がりません。樹木から果物を奪っても、川を汚し山を削っても、たとえ地球を破壊したとしても、自然は一切の文句を言いません。全てを与え、愚痴1つこぼさない、これが私の考える究極の愛の形で人間には成し得ないものなのかもしれません。ですが、それを理想と掲げ、努力し目指してもいいではないんでしょうか?

人間の社会の場合に置き換えて考えます、例えば自然の美しい山を見るように、同じように通りすがりの美しい女性に一瞬、目が行くのは愛です。感動したり心を奪われたり一目惚れは愛だと思いますが、目が行く時に何らかの意図があったらそれは愛ではなくなります。お、良い体してんな、とか、かわいいじゃん、とか、ふしだらな想像をしてしまったり、見返りを求めてしまったら、それはその瞬間愛ではなくなり、欲だったり、差別だったり、偏見だったりという、愛以外の別の何かになります。


まぁこればっかりは、科学とか物理ではないので、人それぞれで良いんですが、私にとって愛とは、普通でいること、当たり前であること、動じないことであって、それが理想的なのかな思っています。


それはなぜかというと、やはり、この世界は愛にあふれているからです。何故かと言うと全ては同じものでできていて、ただのエネルギーの一形態でしかないから。

豚を屠殺しても死んだあとに、なんで殺したと責められたりはしません、もし言われたとしても気にしないのが愛、命をありがとうと思うのも愛、死んだあとに文句を言ってきたらその豚は愛を持ってない豚ということになります。


私は当然殺されたくないので殺される前は抵抗しますが、殺されたって文句言いません。言えないのではなく、死んだあとに言わなくてもいいと思えることが愛なのかなと思っているのです。

死んでもいい、のではないですよ? 何度も言いますが私は殺されたくないので、殺されそうになったら死ぬ気で抵抗すると思いますが、もし殺されてしまったら死んだあとに、あーまーしゃーないか。死んじゃったし。と思うだけになりたいと思ってます。仕方ないよね死んじゃったんだからw


この世界がただのエネルギーの形状でしかなく、とても単純な構造で成り立っていて、万が一「真実の世界」(死後の世界)があったとしたらいま生きていることに大した意味はありません、元々意味なんか無いんだと思いますが。


たまたま生まれてきて、たまたま生きてる、そしてたまたま死んでいく、それがこの世界であり、私が世界の愛の一部になるために必要な条件に私自身が愛になる必要がある。この考え方が一番腑に落ちた結論です、別に世界の一部にならなくても良いんですが、既に私を含めたすべてのものがも世界の一部なのです。今も今後も、死んだ後も、私は世界から取り残されたと感じたり、特別な物になってしまったと感じたくないのです。


そもそもが全て同じものでできていて、その違いは大差なく仕組みは単純、脳という器官が少し複雑でその構造の中に私がいるのであれば、いま生きている体はただの借り物や乗り物に過ぎません。


全ての物、事象、事柄、それらをそのまま受け入れて、ああそうかと納得すること、これがおそらく、究極の愛なんだと思ってるんです。が、実践は超難しいです、おそらく生きてる間は出来ないと思っています。


世界は愛で出来てるのに、人間は生きてる間に愛を実行するのがなんと難しいことか。生きていると欲が生まれ偏見に満ち、差別することで自らを許すしか無いんでしょうかね。私は息子を愛していますが、それは他の子供達より息子を愛しているという差別とも言えます。愛は無条件に与えるもので普遍的であること、そこに差別や偏見はないのが理想だと思うのは、世界(人間社会だけでなく、物理も余剰次元も超えたすべてを含む世界)は、偏見や差別を持ってませんから、この世界はまさに愛そのものなのだと思うからなのです。


とまぁ、結構面倒くさい話なのですが、この愛という言葉の定義は本当に人それぞれで、私の考える愛を不愉快に思う人も多いようです。まぁこの人はこういう考えなんだな、くらいで思ってください。


でも、世界は同じもので、できてるんです


この考え方に執着心を持っている時点で愛を体現できてないんですよね。僧侶が修行したり瞑想したりするのはこいういう無限ループから抜け出すためなんでしょうかね。でも、この世界の仕組みを想像して、たどり着いた結論が腑に落ちた時ちょっとだけ愛に近づいた気がするんです。


だからといって何かが変化するわけでもないんですが、とりあえず生まれてきちゃったし、いま生きてるから、いろんな事を考えながら生きてる、それでいいんだと思います。


世界はそんな私も、文句ひとつ言わず受け入れてくれてますから。


私が死んでも世界は動き続け、文句ひとつ言わないでしょうしね。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る