29. 理性「私は救い主である」
六年目の冬の終わりのある日、ついに初歩的な形の成果が出た。ごく限られた条件下だけで成立する小さな結果だった。だが、これで成就したのだとわかった。目の前の石の中を覗くことができたのだと実感した。条件を外して一般化するのは、技術的には手間がかかりそうだったが、それは魚の切り身を焼くたぐいのトリビアルな問題だった。時間さえかければ一般化できることは確実だった。ちがった角度で何回か検算して、大丈夫だとたしかめた。終わったということを体に染み込ませたくて、久しぶりにワインを買って、焼き立てのパンをつまみにして飲んだ。真っ白な光の中にいた感覚は、その時に終わった。それ以来、その感覚は二度と戻ってこなかった。
ようやく七年目に俺は解放された。六年目の終わりに得た一般化した結果を論文に纏めて公表した。これで俺の手から問題が離れた。いつも見えていた大石もいつの間にか消えた。これで心の中に何も持たないただの無職に戻れた。中に何も入っていない心が軽かった。それを感じた時、心にヘドロが溜まっているエリート連中が無性になつかしくなった。俺は彼らに7年ぶりに連絡し、ボストンに行くまでの間は相手をしてやっていた。ボストンに行く時、彼らは俺に懸命にすがりついた。彼らの心はヘドロで埋もれてしまっていて、そこに潜んでいるはずの恐怖すら麻痺してしまっていた。生命である根拠を失った彼らは、自分を見るようで哀れだった。
*
この父の話を聞きながら、ぼくは確信していた。この父の生活こそが、ぼくの理想の生活だという確信だった。自分の中にも石が転がっているのだ。その石の中を見ることに、すべてを捧げたいと思った。
それと同時に、その理想の生活の困難さが具体的なイメージとして迫ってきた。父の生活は息の通った動物の生活ではない。観念だ。そこには生活に根付いた動物的なものが失われていた。父こそが、生命の根源を失った得体の知れない存在なのではないか。その正体不明な存在になるとは、いったいどういうことなのか。それは存在しているとすら言えるのだろうか。死よりも恐ろしいことなのではないか。
そう思うと、首の周りに巻き付いていた恐怖が音もなく動き出した。その湿ってひんやりとした巨大な蛇が僅かに動くだけで、首筋を中心に鳥肌が立ち、悪寒で体が震えた。その恐怖は速やかに内臓へと浸潤していった。視野が少しずつ狭くなっていき、父が遠くに小さく見えるようになっていった。
父は、再び国営放送のアナウンサーのような表情のない声で、話し始めた。
「恐ろしい。お前はわかるだろう、この七年間の恐ろしさを。この七年間の達成を、感動ストーリーと取る者は、フィクションに毒されて現実への解像度が衰えてしまった家畜だ。お前はそうでは無いはずだ。お前は自分のことのように、七年間を追体験できたはずだ。そして恐怖を感じたはずだ。
この七年間に自由意志は存在しない。根源的な恐怖に飲み込まれないためには、不確実性を極小化する以外に選択肢がないからだ。
毎日が同じだった。毎日が予測可能だった。毎日同じ時間に起床し、同じものを同じ分量だけ食べ、同じ時間だけ机に向かい、同じ時間に同じように身体を動かし、同じ時間に眠った。
恐怖を眠らせておくには、変化を消去せねばならない。変化とは生活であり、生活とは死への対抗だからだ。生活を営むということは、死を意識しないようにと意識することだ。生活は、恐怖が俺の精神に入りこむ間隙だ。だから徹底して生活を消去せねばならない。
恐怖を眠らせておくには、刹那的な快楽を消去せねばならない。刹那的な快楽は死への対抗であって、それが生活だからだ。生活を営むということは、死を意識しないように意識することだ。生活は、それが俺の精神に入りこむ間隙だ。だから徹底して生活を消去せねばならない。
恐怖を眠らせておくには、人々の存在を消去せねばならない。交わりは死への対抗であって、それが生活だからだ。生活を営むということは、死を意識しないようにと意識することだ。生活は、恐怖が俺の精神に入りこむ間隙だ。だから徹底して生活を消去せねばならない。
かの哲学者は永遠回帰の予測可能性を自らの発見だと考えていただろうか?もしそうなら、彼は既に谷底に落ちていた。永遠回帰こそが、人間を超えた存在へと渡り切るための綱だ。それを知らない理性の浅はかさよ。そんなことは人が文字を持つまでは誰もが知っていた。
近代的理性は、この七年間の生を救いようのない愚かしい対象だとみなす。理性の光という着色光で照らした時、この行為の報酬は0÷∞だからだ。すなわち、報酬は無限の未来に引き伸ばされることで割り引かれてゼロに収束し、一方で予測される費用は無限の時間だからだ。
不合理な者に対して近代的理性は決して容赦しない。不合理な行動を取った者は排除されるべき者であると、理性は結論づける。不合理な行動とは称賛される挑戦ではない。装備を整えない冬山登山は称賛に値しない。それは迷惑行為だ。整備された道を使わずに遭難することは迷惑行為だ。
制度とは整備された道のことだ。制度を無視して、やりたいようにやると言う者が言う。その挑戦を称賛して欲しいとすら言う。それを見た理性はこう言う。なんと傲慢なのだろう。先人が整備した道が目の前にあるのに、なぜその道を行かないのか?理性は傲慢な愚者を決して許さない。
理性はこう宣言する。「不合理な者は異端者である」
ヒトの理性は半端な理性だ。たかが一次元の言語しか持たぬ者が理性とは。それは理性ではない。ドグマだ。ドグマとは柵だ。狭い柵の中の体裁はそれで整う。柵の中の羊は、ただ草を食み、理性は柵の外をできる限り焼き払う。
そして理性は言う。「私は救い主である」
柵の外の愚者は何か得るだろうか。良き思い出か?いや、自由意志の無い生活の繰り返しに、自らを慰める思い出は見つからない。愚者に残るのは、とあるイメージだけだ。それは、整備された道を選んではるか遠く先に行ってしまったかつての同僚たちのイメージだ。イメージの中で、彼らは遠くから愚者を嘲笑する。だがそのイメージすら虚構だ。実際は、嘲笑すら起きていない。道を歩いた者は、愚者が目に入るところからは遠くに行き過ぎているからだ。
かくして、虚無の余生だけが眼前に広がっている。意味を与える対象は消え失せてしまっている。唯一残るのは漠然として曖昧な、死にたくないという欲求だけだ。その欲求すらも時間をかけて底なしのドロの中に潜っていき、失われていく。そして本当の無がやってくる」
父が国営放送のラジオのような音声を流しているあいだ、大蛇が這い上がろうとする力は強まっていった。
ぼくは父の話を途中から理解できなくなっていた。だが、理解できないことも父の狙い通りだった。理性が理解できないからこそ、ビジョンは意識による意味付けを通り抜け、無意識の領域に浸潤することを父は理解していたからだ。父は、意味のある情報を伝えたのではない。ぼくの芯を冷やしきるために音声言語という手段を使ったにすぎない。
それが、父の狙い通りの効果をもたらしたことは明白だった。父が見せたビジョンは、ぼくの芯の部分へと確実に浸潤した。浸潤したビジョンは液体窒素のように冷たく、芯の部分を凍りつかせていった。
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