28. 父「大蛇が腹で蠢く恐怖を感じながら、俺は七年間を過ごした」

そして父は仮面のような顔と抑揚の欠けた平板な声で、まるでニュースを読む国営放送のアナウンサーのようにこう言った。

俺がお前に伝えるべきことは、凡庸な者が研究者をやりたかったら、制度化された研究に携わる道しか無いということだ。


そのときの父はぼくの方を見ていたが、焦点が定まらず、意識が無いまま本能だけで行動しているゾンビのようだった。下腹部に潜んでいる黒く湿った大蛇が、ずるりと音を立てて動いた。


やりたい研究をやり抜きたい。それで満足だ


勝手にやればいい。なぜそんなことを宣言するのだろう。それは、根源的な恐怖を感じているからだ。


その恐怖とは、死だ。死の恐怖がすべての生命を縛っている。生命の根源的な制約とは死だ。


よく知っているぞ。それは黒く湿った大蛇だろう。そいつは悪魔だ。神の対概念だ。目を持たず、頭を持たず、尾も無い。光でも影でも、倫理でも邪悪でもない。無という存在の意思だ。いつもは腹の中でおとなしく眠っているが、魂が本来の居場所を離れると目を覚まし、その魂めがけて這い上がってくる。


それはまるで、群れからはぐれた子羊を見つけた大蛇だ。ずるりずるりと静かに近寄り、恐怖で逃げ出せずに震えているばかりの子羊を飲み込む・・・。


父はまた苦しそうな表情で話を止め、頭の周りを飛ぶ蠅を手のひらで追い払うような仕草をした。


頭の周りの中空を手のひらで叩きながら、父の顔は徐々に生起を取り戻していき、大きく息を吐いてから「スロットマシンの概念は理解できたな」とこちらを向いて言った。



その大蛇が腹で蠢く恐怖を感じながら、俺は七年間を過ごした。


はじめは半年で片付けるつもりだった。半年もすれば、見通しが立つと高をくくっていた。だが、何の前進もなく数ヶ月がたった。そんなことは人生で初めてだった。それを初めて感じたのはその頃だ。何が起きているのか理解できなかった。全身に鳥肌が立って、脇の下が汗でぐっしょりと濡れた自分を観察し、いったいこれは何だと思った。だが、まともな思考はできなかった。両手で頭を抱え、それが諦めて下腹に戻っていくのを待つ以外に方法がなかった。一年が過ぎるまで、毎日のようにそれが現れた。逃げることしか考えられなかった。真っ白な頭で解くべき問題を愚直に解こうとした。そんなことで解けるような問題ではなかった。

二年目は、知ろうとした。俺は何も理解していなかった。おぞましいそれが何なのかわからなかった。そいつが這い出してくると、俺はそれを観察しようとした。脇の下から喉のあたりに這い上がってくるそれを感じようとした。それの腹が俺の皮膚に吸い付くのを感じ、表面から粘液が分泌されていることを感じようとした。それの細部を感じることは、叫び声をあげたくなるほど不快だった。そうしていると、それがただそこにあるだけだということが理解できた。おぞましく不快で気味の悪い存在として、ただそこに存在していた。そのことを知ったところで、それの忌まわしさはそのままだった。だが、俺はそれの存在を感じながら、自分が何をしようとしているのか観察できるようになった。そうして問題そのものの理解が始まった。

問題は、森の中にごろりと転がった大きな石のように、野生のまま存在していた。食べやすく小骨まで抜かれた魚の切り身とは真逆の存在だ。そんな加工食品のような問題は、入学試験や資格試験のような人工的な環境でしか生存できない。自立した問題ではない。それは管に繋がれなきゃ生きられない存在だ。理性主義者を自認するお前たちは、食べやすい切り身のような問題ばっかり相手にしている。問題を綺麗に切り刻むことができると信じている。だから、本当の問題を見ても、それが問題だということにすら気づくことができない。解かねばならない野生の問題は、目の前にごろりと転がっているというのに。


その野生の問題をありありと見ることができたとき、目の前に鎮座したその大きな石が愛おしくてたまらなかった。ずっとこいつに会いたかったのだと思った。来る日も来る日も、その石をじっと眺めていた。その石の小さな凹みまで空で思い浮かべられるようになったころ、視覚に煩わしさを感じ始めた。見ているからわからないのだと思った。それで、目を瞑って表面を擦った。抱きしめて臭いをかいだ。全裸になってそいつを抱いて眠った。

そいつと一緒にいると、無性に腹が減った。知識を詰め込みたい。そう思った。思いつくままに文献を漁った。人類の持つすべての知識が、あの大きな石に繋がっているように思えたし、その石からすべての知識が生み出されているようにも思えた。その石は限りのない存在であるように感じられた。


三年目には空腹は収まり、再び座って大きな石を眺めた。何日かそうしていると、その石は自分が思っていた石とは実はまるで違うのだと気づいた。その石のことを考えながら詰め込んだ知識が、自分を変えたのかもしれなかった。それまで、石は石として存在していた。だが、もう石は石として存在することをやめていた。石は切り刻まれてこの世界に埋め込まれていた。俺の知識も俺の精神も俺そのものも、すべてが切り刻まれて形を失っていた。形を失ってはじめて、俺は石を理解できるのだと思った。だが、その理解が石に届きそうになる瞬間に、下腹部でそれが目を覚まして蠢いた。それが蠢く時、俺は石とは違うのだとわかってしまった。


四年目には、もう何も起きなくなってしまっていた。あらゆる方向から石に近づこうとしたが、そこに見える景色には常に既視感があった。悪い魔女が住む森の中を彷徨っているように感じられた。まったく違う道を辿っているつもりで歩いても、どうしても元の場所に戻ってしまう。何度やっても同じ結果だ。そのたびに、下腹部から黒くて湿った蛇がヌメヌメと這い上がってきてきた。

俺がその時にやっていたのは、とある計算だ。その計算によって、目の前の石を完全に理解できるという確信があった。計算じたいにトリックがあるようにも思えなかった。だが、何度試しても堂々巡りだった。そのうち、自分のいる場所では、数学のシステムが歪んでしまっているのではないかと思えてきた。下腹に住んでいるあの悪魔が設計した公理系の内部に自分が収監されているというイメージが頭を支配した。これは悪魔の企みのせいだ。自分が間違えるはずがない。そう思えて仕方なかった。自我を保つためには、自分以外の何者かに押し付ける必要があった。数学を信じられなくなる一歩手前だった。もう一歩で崖から落ちそうだった。


五年目にはついに何も感じなくなった。堂々巡りを続けている中で、ふとある時に、感情のようなものが無くなったことを感じた。悪魔が歪めた公理系の中を彷徨うイメージは突如消え去った。さらりとした真っ白な光の中にいるだけだった。ただ真っ白だった。ついに崖から落ちたのかと思ったが、そうではなかった。

その絹のような真っ白な光の中で、鉛筆が勝手に紙の上を走っていた。そのひとつひとつがよく感じられた。この白さの中では俺と石との間でオートマチックに情報が出入りしている感じだった。俺が何かをしているという感覚が無くなった。計算の方針を立て、計算を実行しているのが自分だというのはわかっていた。たしかに俺は考えていた。だが同時に、俺はもう何もしていなかった。

それまでの俺は、こちらから働きかけた結果としてのフィードバックを受信している感覚だった。俺はぐじゅぐじゅと湿った培養皿の中にいる粘菌のようなものだった。その真っ白な光の中に入った途端、湿り気がすべて蒸発して、さらさらに乾ききった場所に来た。表面のゲル状の濁りはすべて揮発して乾ききり、硬質で鋭角な対象そのものが姿を表した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る