27. 父「制度の外側で俺がみた景色をお前にも見せよう」

「違和感を言語化できずに苦しいか、和人」

父にこう言われて、ぼくは戦意をくじかれてしまった。父の議論は、親として親切に諭している体裁で、自分の現在の立場を肯定している。ぼくの将来への漠然とした不安や、その不安を魔法のように誰かに消してもらいたいという甘えを、父は見透かしている。ぼくは、どうしたって、父の話にすがりつくように聞き入ってしまう。どす黒いコールタールのように心にへばり付く不安に対して、父を説得して連れ帰るという母の願いはあまりに無力だ。

だいたい、ぼくごときが父を説得して連れ帰るなんて不可能だ。いったい母はどういうつもりだったんだろう。


父はこれまで以上に優しさに満ちた声で、ささやくようにこう言った。

「違和感をもつのは当然だ。誰だって初めは、宿主から蜜を得ることが研究への動機なんかじゃない。知るとは、何か偉大なものとしか表現しようのない対象に近づいていく体験だ。雷に打たれて神の意思を知った宗教家がそうであるように、この世界を理解するという使命の崇高さへの誇りが我々にはある。だからこそ、我々は先人が築いた制度を利用すればいいじゃないか。

たしかに制度には世俗化という側面がある。世俗化は一定の腐敗は免れない。それでも制度は生産能力を持たない我々に機会を与えてくれる。制度の枠内で活動することで、我々も生活のための蜜を吸えるんだ」


それを聞いたぼくはもう、先ほど感じた違和感すら無くなっていた。父の言うことは完璧に正しい。父のこの完璧さが対象とする範囲すらも完璧だった。父は、現代的な学術研究をすべて包含するように抽象化していた。つまり、完璧さを生むために父が設けた柵は、あらゆる良い土地を囲い込んであった。この父が囲った柵の外は、岩だらけの不毛の地で、そこにいる哀れな羊たちは痩せこけて歩くのもままならないことが想像された。柵の外側で生きていくことを考えると身震いがした。


そのぼくの恐怖心を敏感に読み取ったのか「最後に、制度の外側で俺がみた景色をお前にも見せよう」と硬くて冷たい声色で言い、父が制度から離れて柵の外にいる間に起きた出来事を語り始めた。



「個々の研究活動をミクロに見た時、その本質とはなにか?それは、多腕バンディット問題であるということだ。

カジノにあるスロットマシーンはわかるか?目の前に並んだスロットマシンから一台選んでコインを入れ、アームを引くとリールが回る。リールが止まった時に絵柄が揃ったら当たりで報酬をもらえるが、絵柄が揃わなかったらコインは没収。得るものは無い。そのマシンに再びコインを入れるか、もう止めるかはプレイヤーの自由だ。別のマシンに移ってもいいし、もうプレイを止めたっていい。

研究とは、人生の時間と引き換えに得たコインで、そのカジノのスロットに挑むようなものだ。スロットを回すには、誰かの人生の時間を差し出さねばならない。コインが無ければスロットは回らない。

このスロットで当たりを引いたときの報酬は、たくさんのコインじゃない。知識だ。カジノにあるスロットならコインがもらえて賭け金を取り戻せる。しかし、時間を取り戻すことは不可能だから、時間を賭けるスロットは時間を返してくれない。その代わり知識が手に入る。まとまった時間を差し出して、当たりそうなスロットマシンのアームを何度か引き続けると、まだ誰も知らない知識が得られるんだ。

ポイントは、当たりが出ることを信じて、何度もアームを引き続けるということだ。いくら設定が甘いマシンでも、一回目で当たりはまずでない。設定が甘いマシンだと、半年くらいの時間を投下して淡々と回し続ければいい。間違いなく甘い設定になっていれば、ちゃんと当たりが出る。日本だと、学部や修士の学生はほとんど全員が設定の甘いマシンを回している。指導教員の仕事は、煎じ詰めれば初心者向けのマシンを上手に見繕って渡してやるのが仕事さ。初心者は大きな報酬——知識——を狙いたくなるが、教員としちゃ留年させるわけにいかないんだ。


おれが七年間かけて挑んだスロット台は、いかにも危ないムードが漂っていた。もう何年も挑戦者がいなかったせいで、埃が積もっていたよ。それは、アームを一度引くのに、一ヶ月の時間を差し出す必要があった。

だいたい、そのスロットマシンは目立たない場所にあって、得られる報酬の魅力にすら気づいている者はいないようだった。賭け金ばかりが高くて、たいした報酬はなさそうに思われた。

そのスロットマシンを見つけたのはな・・・」


なぜかそこで父は言い淀んだ。父が言い淀むことなど、ぼくの記憶でも初めてのことだった。


「違う、お前は勘違いしている。スロットマシンを見つけたのは・・・」


父は自分に言い聞かすように言った後、つばを飲み込んでから目を閉じた。その額には汗が浮かんでいた。その一瞬、部屋の中からすべての音がなくなった。音を伝える空気が無くなってしまったのかのようだった。息苦しかった。父は、その長い一瞬の間に、喉に詰まっていた石を無理やり吐き出そうとしているみたいだった。


その一瞬の後、父はゆっくりとポケットからハンカチを取り出して口を丁寧に拭い、額に浮いた汗を拭き取った。瞬時に部屋は空気を取り戻した。ハンカチを几帳面に折りたたんでポケットにしまうと、握った両方の拳でこめかみをグリグリと押してから、音を鳴らして首を左右に倒した。父はしばらくの間、独り言を言いながら首を何度も回していた。それは自分で自分に悪魔祓いをやっているような奇妙さがあった。最後に、左手の親指と人差し指で、薄っすらと髭が伸びた顎を三度つまんだ。

それが終わると、ぼくに向かって「すまない。最近、発作的に頭が痛くなることがあってな。運動不足だな」と言った。


そして父は仮面のような顔と抑揚の欠けた平板な声で、まるでニュースを読む国営放送のアナウンサーのようにこう言った。

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