25. 重すぎるハンディキャップ(2)
「はじめまして」鈴木さんとぼくは日本語で簡単に挨拶をした。鈴木さんが手を伸ばしたので、その手を軽く握り返した。鈴木さんの手は、決して大きくはないが、肉厚で暖かく柔らかだった。
「鈴木さんは、実験器具メーカーの営業部長なんだ。ぼくの大学に仕事でほぼ毎月いらっしゃっている」
鈴木さんは頷きながら「ダニエルは、きみのお父さんの秘書になる前に、大学の別の部署で働いていましてね。その部署で私と一緒に仕事をすることがあって、友達になりました。あなたのことは、ダニエルからよく聞いていますよ」
鈴木さんは、まるでぼくがダニエルの同僚であるかのように、丁寧に対等に話してくれた。
「鈴木さんは、ボストンは頻繁にいらっしゃるんですか?」これはマイクに聞いてすでに知っていることだったが、鈴木さんとはあくまで初対面だ。足元のマイクと空港で話したと言うわけにはいかない。
「ええ。月に一度は来ています。ダニエルはグルメでしょう?だから季節ごとに良いレストランを紹介してもらっているんですよ」と言ってダニエルさんの方を向いて丁重にお辞儀をする。ダニエルさんは「いえいえ」と言って笑う。
「私はごく普通の営業マンでして、視力があまり優れないという点を除けば特に個性が無い人間なんです。だから二人でレストランを巡るのもマンネリ化してしまうということで、最近はゲストを迎えて食事をするのが恒例になりました」
「それで、今日はきみがゲストというわけ。鈴木さんは十分に個性的だと思いますけどね」とダニエルさんは言い、鈴木さんと一緒に笑った。
「わたしはこのレストランははじめてですが、あなたは二度目だとか?」
「五年前にダニエルさんが連れてきてくれました。白身魚のソテーをいただいて、それはもう絶品でした」
「あれは美味しかったね。ぼくも覚えているよ。パーフェクトなソテーだったよね」ダニエルさんは、身を乗り出していかに美味しい料理であったかを鈴木さんに説明した。
「きみたち、そんなにぼくに期待させて大丈夫ですか?営業では、顧客の期待値をやや低めにコントロールするというのが鉄則だよ」鈴木さんはニコニコしながらダニエルさんをからかった。二人は兄弟のように親しく見えた。それを見ていると、ぼくも年の離れた末っ子になったような気持ちになってきて、ちょっとくすぐったかった。
「さあ、オーダーしよう。ぼくはいつも、お店のおすすめを尋ねた上で、たいていはおまかせでお願いしています」
異論があるはずはなかった。良いレストランでは、お店の方針に従うのが最良の結果を生む。
ぼくらは会話を楽しみながら、次々と運ばれる料理を心の底から堪能した。お店は、マイクに魚肉ソーセージを何本かサービスしてくれた。マイクはソーセージを一本ずつ上品に食べた。鈴木さんはユーモアのセンスが豊かな人で、絶妙なタイミングで冗談を言い、そのたびにぼくたちは腹を抱えて笑った。
その途中で、サラが怒っていなかったかとダニエルさんに恐る恐る尋ねた。ダニエルさんは笑って、サラの「率直で興味深い少年だった」という感想をぼくに伝えた。「大丈夫、彼女は嫌味を言うタイプじゃない。友情を感じていると思うよ」と付け加えてくれた。それを聞いて心底安心して「明日、彼女はラボにいますか?」と尋ねたら、ダニエルさんは「なんなら明日の夜の食事はサラを呼ぶかい?」と言ったのでぼくはひっくり返りそうになった。
デザートに出てきたミルフィーユも絶品だった。パイ生地からは、濃厚なバターの風味とともに、全粒粉のわずかな苦味が感じられた。愉快な仲間ととる美味しい料理が至福の境地だとぼくら全員で合意しあった。
鈴木さんは「全盲の人と食事をしたのは初めて?」とぼくに聞いた。ぼくはうなずいた。鈴木さんは、幼い頃はほぼ普通に見えていたが、高校生の時に失明したのだと言った。一般論ではないと断った上で、視力を失う前後で起きたことを率直に教えてくれた。それは端的に言って苦労の連続だったが、話し上手な鈴木さんの手にかかると、秘境の地を旅した探検家の冒険譚を聞くようなカタルシスがあった。
「私の元上司に視野が異常に広い人がいたのね。本当に物理的な意味で視野が広いの。私と逆だね。例えば三人対三人でテーブルを挟んで交渉するときなんかだと、その上司は一番右側に座って交渉先の責任者と話しながら、一番左側に座っている若手の表情が見えるそうです。彼女はこの能力のおかげで出世したと言っていました」
「全員の表情がわかると、交渉が有利に進むんですか?」
「目の前の人がノーを言っていても、他の二人の顔にはイエスだと書いてあるとしましょう。そんなときは、いったん休憩を挟んでしまう。休憩中にイエスの人たちがノーの人を説得してくれます」
「こちらで説得するよりも効果的ですね」
「私の場合は、顔色が読めない代わりに、声色に敏感なんです。声色で感情を読み取ることがとても得意。視覚障害者になる前からそうでした。私の会社は、幼馴染が立ち上げた技術ベンチャーで、当時急成長していたのね。猫の手も借りたい状態。それで声をかけてくれたんです。私は、人と話すのが好きだから、嬉しかったですよ。最初は電話でのサポートの仕事を担当していたんだけど、お客さんに気に入ってもらって、飲み会に誘われたりして。実際に会って全盲だと知った相手はびっくり。そうやって、信頼してくれるお客さんを増やしていってね。そうこうするうちに、外回りにも駆り出されて、いまでは営業部門の責任者としてボストンに出張できるようになりました」
「鈴木さんは社会に馴染むのに苦労はありませんでしたか?」
「社会と折り合うのに苦労しない人っているんでしょうか?」鈴木さんは笑って言った。「きっとあなたは、とてもとても苦労しているんだね。高校や大学に行かないというのは、なかなか大変な決断だよ。学校が嫌だったの?」
「やりたいことがあって、学校に行っている場合ではないと思っていたんです。でも、本当にそうなのか正直よくわかりません。学校に行きたくないから、行かない理由を捏造しているのかもしれない」
「人に言える理由は本当の理由ではないって、その視野が広い上司が言っていたなあ。お客さんが伝えてくる理由を額面通り受け取ってはいけない、そういった文脈だけどね。君にも当てはまるかな、これ?」
「心は複雑なプロセスですから、少なくとの唯一つの理由で説明できるとは思えないです。貧困や戦争を、唯一の原因で説明できないように」
「顧客がノーを言う理由は何かしらあるものですよ。それをピンポイントで特定して解消してあげるのが我々の仕事です」
「パニック障害やうつ病のような精神疾患でも、理由を特定できるのでしょうか?」
「それはケースバイケースでしょうね」
「鈴木さんはさきほど、全盲になられたときにはじめは落ち込んだとおっしゃっていました」
「しばらく精神科の医師にもお世話になりました。ですが、私の場合は、理由がはっきりしない不安のようなものは無かったです。感覚的には未来に対する漠然とした不安なんだけれど、それが生じる理由はわかっていました」
「どうやってその理由がわかったのですか?すいません、立ち入ったことを聞いてしまって。私も少し困っていて」
「私は時間をかけて視覚を失いました。その初期段階で、主治医がデータを見せてくれたんです。全盲になったとき心理的にも苦しむ人が多いというデータです。だから、視力のあるうちから相性の良い精神科の医師を探し、信頼関係を作っておきました。それで、実際に落ちこんだときも、主治医の言う通りにしておけば、そのうち慣れて症状は落ち着くだろうと思っていました。わかっていても視力を失うのは誰でも苦しい。私は主治医のおかげで、苦しむ準備ができていたんです」
「ぼくは何が起きているのか、さっぱりわからなくて」
「お役に立てず残念です。そもそも、生まれつきあっけらかんとした性格なんです。こだわりというものがない。突き詰めて考えないし、趣味を極めたりもしない。その場しのぎで十分だと思っている。視力が無くてもまあいいいや、という感じです。こだわりがないほうが柔軟だから、周囲と折り合えますよね。人と話すのが得意だからなおさら。今の会社だって、深く考えて就職したわけじゃない。誘われて楽しそうだから始めて、そのまま深く考えずに続けているだけです。後で困らないように、常に先手は打ちますけどね。
要は、器用で世渡り上手なんですよ、生まれつき。そんなぼくに、視覚障害はちょうどいいハンデじゃないかな。簡単すぎるゲームはつまらないからね」
鈴木さんは愉快そうにこう語り、さいごにダニエルさんと一緒に笑った。
ぼくは鈴木さんと正反対だ。人の気持ちがわからなくて、話すのも苦手なぼくは、何かよくわからないものに縛られている。
そして、その縛られているものに、突き動かされている。操られているといっていいくらいだ。
それは、あまりに大きなハンデじゃないか。鈴木さんと違って、ぼくの場合は重すぎるハンディキャップだ。
そのとき、バックパックからスマートフォンの通知音が鳴った。父からのショートメッセージだ。その通知音に反応して、伏せて丸くなっていたマイクが目を開け、頭を上げて鋭い目でこちらを見た。鈴木さんは、なだめるようにマイクの背中をさすった。
急用で明日オフィスに行けなくなった。夜遅くにすまないが、今からオフィスに来てくれないか?
ぼくは二人に、中座しなければならないこと、それが心から残念であることを伝えた。丁寧に心をこめて伝えようとしたが、父のオフィスに駆け出そうとする身体を抑えるのに苦労して、うまく感謝を伝えられなかった。
ダニエルさんは、ゲストは支払いが不要だ、車もいま呼んだからすぐに来るだろうと言ってくれた。車が到着すると、二人は外まで送り出してくれた。ぼくたちは、再会を誓い合って別れた。マイクだけは厳しい表情をしていた。
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