22. 父はいつもみたらし団子で

「父の受け売りですが」とぼくが言うと、サラの表情が真剣になった。それを見たぼくはわずかな嫉妬を感じた。

「ノルマを達成するための研究は、朝食を作るようなものだ。サラさんなら意味はわかりますよね?」

「業績を稼ぐための研究のことでしょう。ノルマに設定した時点で、もう見通しはついている。見通しがついている研究が、朝食を準備する程度のものだというのはわかるよ」サラさんは小さくため息をついた。彼女は自分へのあてつけだと思っているかもしれない。でもそうじゃない。

「朝食を準備する仕事は、蔑まれるタイプの仕事なんでしょうか?」

ぼくはそう言って黙ったが、彼女は沈黙を守り、初めてぼくが続きを言うのを待った。

「ノルマをこなしていく仕事のスタイルは、恥ずかしいことでしょうか?」

彼女がどうだったかはわからないが、ぼくは冷静だった。いつもと同じ程度には、ロジックを組み立てられる自分を感じていた。


ぼくは、彼女が新しい世界観にこだわる理由を知りたかった。彼女の中にある、彼女を突き動かすものの正体、それが何なのかを知りたかったのだ。

ぼくの中にも、ぼくを突き動かす『何か』があった。その正体を知ることができれば、高校に行き、大学で学位を得て、発作に悩まされない平穏な日々を送ることができると思った。

彼女の『何か』は、ぼくの『何か』とは違うだろう。それでも、彼女の『何か』を知りたかった。


「前提として、世界観を継承する仕事は、少なくとも社会的な意義は大きいですよね。ある理論を理解したければ、その理論を作った研究者のそばで一緒に仕事をするのが一番だとぼくらは先ほど合意しました。でも、その人はいつか死んでしまいます。だから、その人の世界観を自分の中に引き受けて、伝承していくという仕事は意義深いと思います」

彼女はキャップの開いたペットボトルを中途半端に手に持ったまま、ぼくから目を離さずに聞いていた。

「哲学者は、偉大な先人——ヘーゲルもきっとそうですね——の解釈を仕事にしている。それは先人の世界観を伝承する仕事なのかもしれません。解釈する作業は、その先人になりきろうとすることなんです」

もちろん、意図的に誤読するようなトリッキーな解釈は別ですけど、とぼくは付け加えた。

「文字が無かった有史以前は、口伝で知識を伝承する役割の人は無条件に尊敬されていたはずです。そこにしか知識はありませんから。今は文字があるから、人づての伝承など不要だと思われがちです。本が残るから、それで良いじゃないかと。でも、本には今ここでなすべきことは書かれていない。だから世界観を伝承した人が必要なんです。今ここにある事態を、賢者がどう判断するか。それは同じ世界観を持った者にしかわからない。

もしそうだとすれば、解釈という仕事は、世界観の伝承という大切な仕事の隠蔽ですらあるのかもしれない。人づての伝承など不要だと勘違いしている人たちを納得させるための隠蔽です。解釈した結果は、文書として成果が残りますからね。心の中の世界観という資産は、ヒトの乏しい認知能力では評価できないから」

サラは間髪あけずに「私を慰めてくれているのかな?」と言った。目が赤く潤んでいるように見えた。

彼女はボトルから水をごくごくと飲み、口を拭うついでに顔を手のひらでこすり、腕時計を見て「ごめんなさい、そろそろ時間だから」と言って、部屋を出ていってしまった。ぼくは彼女が行ってしまったことがとても残念だった。


彼女をもっと知りたかった。いったい何が彼女を突き動かしているのだろう。驚くべき独創性へと、つまり、世界観の外側へと突き動かす『何か』の正体を知りたかった。







12. 父はいつもみたらし団子で


ダニエルさんのオフィスに戻りながら、ぼくは急に恥ずかしくなった。ぼくは何を偉そうに言ったんだろう。きっとサラは怒っている。彼女はもうぼくと話をしてくれないに違いない。全身が火照り、腹の下で何かが蠢いた。発作が始まろうとしていた。


「どうだった?」と尋ねたダニエルさんに「彼女を怒らせてしまったかもしれません」と早口で言った。発作が始まるまえに、誰にも見られない場所に移動したかった。

「おやおや」と彼は笑い「ちゃんと謝ったのかな?」とぼくに聞いた。

「いえ、彼女は予定があって、話が途中で終わってしまって、それで・・・」とぼくが言うと「心配しないで、ぼくが話をしてみるから。きっと大丈夫だよ」と励ましてくれた。

ぼくは「カフェテリアで休んできます。少し疲れてしまったので」と言い、無理やり笑顔を作ってから部屋を出た。建物の外に出ると、先ほどとは一転して暗くなった空から、冷たい雨が降り始めていた。


思った通り、昼休み前のカフェテリアは閑散としていた。空調がうまく働いていないせいか、上着を着ていても寒かった。全面ガラス張りの窓から、パーカーのフードを被って雨の中を走り去る学生が見えた。


ミネラルウオーターを買って、ガラス張りの窓に沿って外に向かって並べられたカウンター席に座った。これなら、隣に誰かが座らない限り、周囲に発作を気づかれることはないはずだ。


下腹部から脳みそを狙ってずるずると上がってきた発作は、心臓のあたりでとどまっていた。肘をテーブルにつき、両手で頭を抱えて目をつぶった。


そうしていると、死んだ母のことがフラッシュバックした。


はじめ母は棺の中で目を瞑っていた。次に頬がこけた母が病院で管に繋がれて眠っていた。そして母は夜遅にパソコンに向かって仕事をしていた。


母の父は体が弱かったので、あまりお金を稼ぐことができなかった。その代わりに、芸能事務所にスカウトされた母が、中学生のころから家にお金を入れるようになった。芸能の仕事への興味は始めてすぐに失ったが、家族の生活費と学校の授業料を稼ぐため、ぼくを出産する前後の期間以外は、大学卒業までその仕事を続けた。


卒業後の母は大企業で働き始め、父はごく短い期間を除いてずっと無職のまま研究を続けていた。

母は毎晩七時頃に帰宅し、父の作ったご飯を一緒に食べた。物心がついたばかりのぼくは、母が帰宅すると家の灯りが一気に三段階くらい明るくなったような気がしたものだ。

父は博士課程を修了してから、教授の紹介で大学のポストドクトラルフェローの職を得たが、きっかり1年勤めて辞めてしまった。そのときのことを、一年も我慢したのは時間の無駄だった、もっと早く辞めればよかったと父は言っていた。

自宅のリビングルームが、無職になった父の研究室だった。

父がリビングルームの椅子に腰掛けて仕事に集中しているとき、ぼくは一人で留守番をしているのだとぼくは考えていた。仕事をしている父の魂はべつの場所にあったからだ。父の魂がびっくりして戻ってこないように、ぼくはなるべく音をたてないようにしていた。


数日に一度くらいの割合で、父の魂はこっちの世界に帰ってきた。帰ってくるとき、父はまずゆっくりと息を吐いた。それから、わかったぞ、とか、そうだったか、などと独り言をつぶやきながら、自分の体が自分のものであることを確かめるように、手をじっと眺めながら何度か開いたり閉じたりした。


しばらくして椅子から立ち上がると、ジュースでも飲むかと聞いてくれた。自分のカップには熱いお茶を淹れ、ぼくのコップにはオレンジジュースを注いでくれた。一緒にソファーに腰掛けてお茶を飲む父の目線は、まだ空中を彷徨っていた。ぼくは、すぐ隣に座っている父の体温と汗の匂いを感じていた。


お茶を飲み干すころには、上の空だった父の目に生気が戻り、ぼくの頭をなでたり冗談を言ったりした。そしていつも「買い物に行こう」とぼくを誘った。


洗面所でうっすらと伸びた髭を剃り、ジャージからデニムパンツに着替えて家をでると、眩しそうに目を細めて空を見た。

商店街までは片道五分の道のりだったが、その三倍くらいの時間をかけてぼくらは歩いた。

父は、空とぼくを交互に見ながら歩き、ぼくは父の手を握りながらスキップで前に進んだ。

落ちている空き缶を見つけてぼくが蹴飛ばすと、父は走って空き缶をトラップし、真剣な表情でパスを返してくれた。ぼくがそのパスをダイレクトにシュートすると「決まった、ゴール!」と実況をつけてくれた。そんなときの父は、決してどこか別の世界に行ったりはせず、ぼくと一緒にこの世界にいた。


空き缶サッカーでハットトリックを決めたぼくは、意気揚々と商店街に入り、父はぼくにパスしたときと同じくらい真剣な表情で、八百屋、魚屋、肉屋を順繰りに回って数日分の食料を調達した。

それから数日分の食料がぎゅうぎゅうに詰まったビニール袋を両手に抱えながら、商店街の奥にある和菓子屋で団子を二本買った。父はいつもみたらし団子で、ぼくは粒あんだった。団子屋の前にはベンチが置いてあって、そこに並んで腰掛けて団子を頬張った。たいてい父は粒あんの団子も食べたがって、ぼくに交換を持ちかけた。みたらし団子が塩辛くてあまり好きではなかったが、いつも一個交換してあげた。


ぼくが中学生になると、父と一緒に買物に行くことは無くなった。それからすぐに父の理論が有名になり、家を留守にすることが増えた。そのころに母は、事件に巻き込まれた。病院に運ばれ、一週間後に死んでしまった。その間のことはほとんど記憶に無い。その後のぼくの記憶は母の告別式だ。暗い雲が低く垂れ込めた小雨の降る寒い日で、式次第と賛美歌の歌詞がペラペラの真っ白な紙にプリントされていた。死に化粧をした母の顔は、粘土で造形された人形のように見えた。

父は忙しそうに、牧師さんや葬儀会社のスタッフと話をし、参列者たちに挨拶していた。そのあと、父と一緒に斎場に向かったはずだが、そのことは覚えていない。その日に、母とともに父の魂の一部はどこかに行ってしまったようだった。母が死ぬ前の父と後の父は、明らかに何かが違っていた。空き缶サッカーを真剣にしてくれた父は、戻ってこなかった。


すぐそばで、何かがタイルをひっかくような音がした。その音で我に返ってカフェテリアの入り口を見ると、たくさんの人たちが入ってくるのが見えた。賑やかな話し声や笑い声が聞こえた。午前中の講義が終わったのだ。「ひどい雨だった」という声が聞こえた。


頬が湿っているのを感じた。テーブルの上に置かれたペーパーホルダーから、ペーパーナプキンを取り出して、目の下と頬をゆっくりとぬぐった。そして、手のひらを目の上に当て、両腕の肘をテーブルについて肩をすくめた。こうやって小さく丸まっていれば、涙が出ていることは気づかれない。


胸が、割れたガラスで引っかかれているように痛んだ。脳を構成する神経細胞を想像し、この痛みをもたらす原因となっている領野について考えようとした。胸が痛い時、頭が痛い時、お腹が痛い時、どこかの神経細胞が発火することで、その痛みをぼくが感じる。その神経細胞を特定することさえできれば、この痛みから解放されるのだろうと思った。痛みを感じている間、一生懸命に脳に意識を集中させた。だが、神経細胞の発火パターンを感じることはできなかった。



胸の痛みが遠のいてから、顔をあげて周囲を見回して視線が自分に集まっていないことを確認した。


家に帰りたいと思った。心細かった。ぼくの帰る場所はもうどこにも無いような気がした。

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