21. 埋め込まれてしまった世界観

「まさか。なにを言い出すんだ」

「ビルさんはアメリカ育ちだし、トップスクールに入学する知性にも、体格にも恵まれています。それなのに米国では亜流の仏教思想を選択したのはなぜでしょう。悟りの境地を得たいと思ったからではないのでしょうか?」

「良いポイントだね」そう言って、ビルさんはニヤリと笑った。

「あまりにも恵まれた境遇に置かれたときに、その境遇を疑問視することは不思議ではないだろう?私の父は州知事で、母は最大規模の弁護士事務所で共同経営者をしている。ちなみに、彼らは親としてもパーフェクトで、惜しみなく愛情を注いでくれた」

彼はまたいたずらっぽく笑い「どう?急に、ぼくが仏教思想に向かったことを、リアリティを持って感じられるようになっただろう?」と言った。

それでもぼくは「仏教を研究して、ビルさんを仏教思想に突き動かしていたものの正体はわかったのでしょうか?」と畳み掛けるように尋ねた。なんとかして彼自身を見たいと思ったのだ。だが、その試みはうまくいかなかった。彼はニヤリとした表情のまま「そのビルとやらは、いったい何のことだい?」と言っただけだった。

何を言えばよいのかわからず、ぼくはビルさんが何かを言ってくれるのを待った。だが、彼は自分の発言を説明しようとはしなかった。

しかたなくぼくは「なぜ大学を出て民間企業に入ったんですか?」と表層的なことを尋ねた。ビルさんは「熱心に誘われたからさ」と答えた。

「前職のコンサルティング・ファームが一番熱心に誘ってくれた。だからそれに応じた。それだけのことだ」

「そこにビルさんの意志は無かったんですか?」

「それを話すためには、はじめに、日常的に意志と呼ばれている何かについて、じっくりと検討する必要があるだろうね。我々にその時間はないようだ」彼は時計を見て肩をすくめた。「ある意味で、片足立ちはピエロだ。ヨーロッパでは起き上がりこぼしはピエロの格好をしているの、知ってるかな?殴られても蹴られても立ち上がる、道化の形をした起き上がりこぼしさ。

さあ行こう。ぼくに興味を持ってくれたのは嬉しかったよ。またいつか話すことがあるだろう」


オフィスまで帰る道すがら「良いポイントだと言ったのは本心だよ」と彼は言ってくれた。「君には良い質問をする才能があるようだ」


抱く疑問に知性が表れると父は言っていた。そのことを思い出しながら、紅葉した街路樹の下を歩いた。あらゆる人たちが行き交うこのキャンパスが美しいと素直に思った。誰かの思惑で作られた美しさだとしても、美しいことはたしかだ。ここを母と一緒に歩くことができたら、どんな気分だろう。


オフィスに戻ると、ビルさんは「彼には伝えてなかったよね?」とダニエルさんに尋ねた。ダニエルさんは「ああそうだね」と答え、ぼくに向かって「ぼくたちは去年結婚したんだ」と言った。ぼくは驚いて目をしばたかせながら「おめでとうございます」というのが精一杯だった。ギリシャ彫刻のような二人が肩を組んで並んでいる姿は、このキャンパスのように美しく調和していた。






11.埋め込まれてしまった世界観


ビルさんは「楽しかった。また会おう」と言い、手を上げてから部屋を出ていった。


ダニエルさんは、ラボの学生を紹介すると言い、学生の仕事部屋に連れてきてくれた。その部屋に入ると彼は一人の学生を呼び、ひとしきり談笑したあと「彼女はドクターコースの学生のサラだ。君のことを話したら、ぜひ話をしたいって」と紹介してくれた。そして「ぼくはたいていオフィスにいるから、いつでも訪ねてきて」と言ってオフィスに戻っていった。ぼくはお礼をして見送った。


「きみ、ボスの息子さんなんだって?」彼女は肩まである髪の毛を耳にかけながら早口で言った。濃紺のドレスシャツとパンツスーツを着ているのは、この後にフォーマルなプレゼンテーションが控えているからだろう。

「ええ」

「私はサラ。ここのドクターコースの学生。マスターコースでやっていた研究が、ボスのアプローチに関係しているからって、お誘いいただいて、先月からここにいる」彼女の早口に驚きながら「ぼくは今朝、ボストンに着いたところです。ちょっと用事があって。何かのプレゼンテーションですか?忙しいところありがとうございます」と答えた。

「いえ、大丈夫。もう準備は済んでいるし、たいしたことではないから。それで、あなたは何をしている人なの?」

何をしているかというのは、普通は職業のことを聞いているはずだ。ぼくは「少し前まで高校生でした。でもやめました」と答えた。だが「そういうことじゃないよ」と彼女は言った。

「もう何か始めているんでしょう?ボスの影響を受けているのだろうから」

ぼくは返答に困ってしまった。ぼくがやった目立つことと言えば、高校をやめたことくらいだ。

「息子ですから影響は受けていると思います。でも、特になにも」

「そう」と彼女は露骨につまらなそうにした。

それから一拍だけ間を開けて父について尋ねた。

「お父さんとは、研究について話すのかしら?」

彼女はぼくへの興味を失ってしまい、代わりに父について知りたくなったのだろうと思った。

「まあそうですね、たまには」

父が論文を発表して以来、父について聞かれることは何度もあった。記者を名乗る人から声をかけられることもあった。そのたびに、ぼくは曖昧にはぐらかしてきた。彼らは父について知ることができなくても、生活に困窮するわけではない。

だが、父の研究室にいる彼女は、父の研究予算からサラリーをもらっている部下だ。父から認められないと、ラボから放り出されてしまう。もしそうなれば、学位が無い状態で、次の就職先を慌てて探さねばならなくなる。

その立場であれば、上司である父のことを理解しておこうと思うのは当然だろう。ぼくは、彼女の生殺与奪を握る父について、どう話せばいいのかわからずに戸惑ってしまっていた。

そんなぼくを眺めながら、彼女は「私の苗字、知ってる?」と尋ねた。もちろん知らない。

「いえ」と答えたぼくに、彼女が教えてくれた苗字は、最近ノーベル賞を受賞した高名な物理学者の名前と同じだった。彼女はとても影響力のある理論を二十年ほど前に提出していた。ちょうどサラが産まれたくらいの時期だ。父は、その理論をかなり意識していていた。

ぼくが「ああ、あの」と言うと「というわけで、私と君は立場としては似ているわけ」と、それまでよりゆっくりとした口調で言った。

「面倒だよね、自分の親について聞かれるの。彼らはさ、私の母が主張したことには興味を持っていないんだよね。彼らの興味は母の生活」

まったく同感だ。

「もしお母さんの理論に興味があるのなら、どちらかというと、同僚の物理学者にインタビューしたほうが良さそうです」

「だから、君のお父さんの生活についてはある程度の想像力は働くわけ。私が知りたいのは生活への興味なんかじゃない。研究のヒントだよ」

「その人の話す言葉は、その人の世界観を反映しますからね。父と一緒にいたぼくと話すことで、間接的に父を知りたいんですね?」

「そういうこと母も言っていたな。君はお父さんから聞いたの?」

「そうです」

「だから、私がここに雇ってもらえたのは、君のお父さんが母と擬似的に会話したいからでしょうね。子供である私には、母の世界観が自然と埋め込まれているからね。私のアイデアに興味があるというのは方便で、私はあくまで母の代理」

それについては、ぼくは何も言えない。それは十分にありえることだろうから。

「私はそれで何の問題もないわけ。私は君のお父さんの世界観を自分の中に取り込んで、母の世界観と融合させるのが目的だから。そうすれば多少はオリジナルな何かが生み出せるはず」

「創造性なんて、所詮はよく出来た組み合わせに過ぎないかもしれないですからね」ぼくは彼女を慰めるつもりでそう言った。彼女はうなずいたが「でもね、真にオリジナルな何かを生み出すのは、私には無理だと思う」と言った。

「なぜですか?ニュートンだって、巨人の肩に乗ったと認めているじゃないですか」

図らずもぼくは少し感情的になってしまった。

「ああ、きみも私と似た境遇だものね。君のお父さんが理論を完成させたころには、君はもう十分に大きかったじゃない。君の世界観は、お父さんのコピーにはなっていないんじゃないかしら?私の場合は、産まれる前に母は理論を完成させていた。お腹の中にいた時から、母の偉大なる世界観の住人だったのよ」

そう言ってサラは肩をすくめる。

「ニュートンが乗った巨人は、たくさんの先人が集まってできた巨人だと思うな。私が乗っている巨人は、ほとんど母だけと言ってもいいくらい。私、大学の教養課程で哲学を取ったのね。とてもつまらない内容だったけど、ヘーゲルの死後のことはよく覚えている。彼の弟子たちがヘーゲルの解釈を巡って激しく対立したというくだり。ヘーゲル左派とヘーゲル右派なんて呼ばれて。彼らの多くはおそらく、師であるヘーゲルにどっぷりと漬かっていたんじゃないかしら。どうでもいいと思っていれば、解釈で大いに揉めるなんてことなんて無さそうじゃない?弟子たちの対立はヘーゲル自身にとっても完全に解決しきれなかった問題だったんだと私は思うの。ヘーゲルが曖昧性なく明確に述べていれば解釈で紛糾することはないでしょう?

だいたい、先人の解釈が仕事と認められるのっておかしいと思わない?数学や物理ならそんなことはないでしょう。実際のところ、ヘーゲルを乗り越えてまったく新しい世界観を提示した人たちというのは、その右派と左派の両方を馬鹿にしていたんじゃないかなと思う。

例えばマルクスのような人?よく知らないけどね」そう言うと、彼女は愉快そうに笑い「もちろん、先人の成果を学ぶことは大事だよ。巨人の肩に乗るという意味でね。マルクスも勉強家だったらしいじゃない?でも学びは手段であるべきでしょう」と付け加えた。

「ヘーゲルにどっぷり漬かっていた弟子のように、サラさんもお母さんにどっぷり漬かってしまっていると感じているんですか?」

「だって、物心つくまえにすでにノックアウトされてしまっているわけだよ。何を考えてもお母さんの世界観の内側のアイデアになっちゃうんだよね。そのアイデアは妥当ではあるけど、驚くべきものではない」

「わかると思います」

「君もそのタイプ?」

どうだろう。ぼくは考えようとしたが、サラはすぐに「でもね」と話を続けた。


「私にもオリジナルのアイデアは出せる。通常の基準においてはね。問題は『はっと息を呑む』というレベルの独創性が出せるかということ」

彼女は持っていたボトルのキャップを開けて、口を湿らせる。

「私は赤ん坊のころから母の職場に行っていた。セミナーの議論を子守唄代わりに眠っていたのね。そんなだから、中学校に入学した頃には標準的な大学院生よりも研究ができるわけ」

残念ながら、ぼくはそうではなかった。父は誰とも話さず、ずっと一人で仕事をしていたから。

「その頃から、私のアイデアに対する母の反応は『良いアイデアね』だとか『そのアイデア好きよ』なんだよね。それは今でも変わらない。はっと息を呑むことも、嫌悪感を示すことも無い。ニッコリと笑って『良いアイデアね。』って言うの」

サラはもう一口、ボトルから水を飲んだ。

「それで、スラスラと私のアイデアの位置づけを解説してくれる。まるで母自身のアイデアであるかのようにスラスラと」

サラはトーンを半音あげ、はじめよりももっと早口で続けた。

「私としては、研究者としては、びっくりさせたいわけなのよ。わかるわよね?はっと息を呑む、とまではいかなくても、うーんとうなって顎に手をあててしばらく考えこむ、くらいはしてほしいわけ」

「三振かホームランかというアイデアということですか」

「三振か場外ホームランか、でしょうね。野球はよく知らないけど」

「このアイデアはおそらく三振だ。しかし、『何か』が引っかかる。その引っかかりの正体は、すぐにはわからない。私の馴染んできた『世界観』の外側にある異物だ」

彼女は、ボトルを口に当てたままぼくをじっと見る。

「極めて高い確率で、その『何か』は単なる間違いだろう。無色な緑のアイデアが激しい怒りと共に眠る、という文のように単なる間違い。けれど、ただちに間違いだと導出することもできない。これまで何度も見てきた陳腐な間違いであれば、すぐに間違いだと導出できたのに。万に一つの確率だが、驚くべきアイデアなのかもしれない」

「おそらくそういうこと。陳腐な間違いは、母はすぐに見抜いて指摘できる。たいていの学生は、陳腐な間違いを研究成果だと誤解する。だから、似たような陳腐な間違いを母は何度も目にしてきている。小学生の私でもわかるような間違いをするんだよ。そういうとき、私はちょっといらいらしちゃうけど、母はちゃんと教えてあげる。それが母の仕事だからね。似たような陳腐な間違いを学生に対して、彼らの気分を害さずに、やる気を削がずに、プレッシャーをかけずに、自信を失わせないように、まるで親しみやすい投資信託の説明員のように明るく笑顔で、その間違いは何十回と見たことのある陳腐な間違いであることをそれとなく指摘しつつ、次は頑張ろうという気分になるように励ますのが、基本的には大学の教員の仕事なわけだから」

彼女は肩をすくめて笑った。けっこう皮相的なことを言っているはずだが、彼女が表情を変えずに早口でスラスラと言うと、まったく嫌味なかんじがしない。彼女の顔立ちのせいか、小さな子どもが背伸びをしているような感じがするのだ。

「サラさんがお母さんの世界観の中にいることと、陳腐な間違いをする学生への苛立ちは、何か関係しているのでしょうか?」

世界観の中に縛られていること、陳腐な謝りを繰り返す学生。一見すると何の関係もない現象が、立て続けに彼女の口から苛立ちとともに現れた。何か関係があるに違いない。


彼女は、三秒間沈黙した。そして早口で「理解力のない間抜けへの苛立ちという解釈が穏当じゃないかしら?」と先ほどより少し高い声で言った。

その言葉が彼女の表層から出てきたように感じられて「本当にそう思っているんですか?」と反射的に彼女に尋ねてしまった。初対面の相手に言う言葉ではない。だが、なぜかぼくは冷静さを保ったままそれを言ってのけた。


彼女はコンマ一秒だけ驚いた表情をしたが、すぐにそれを引っ込めた。そして明らかな作り笑いを浮かべて「さあどうでしょうね」と言った。

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