19. 悟りの境地に達したと思いますか?(1)

「水に入りたくないことはもちろん何度もあったよ。水の中で抜け殻のようにもぞもぞと動くのって、本当に情けなくて惨めな気持ちになるんだ。寂しさも感じるね。水泳って個人競技だし、水中だと周りの声もあまり聞こえない。水と対話できないと寂しいよ」

「それでも泳ぐのをやめなかった」

「また水と対話したかったからだよ。きざな表現だけど、そうとしか言いようがない。水との対話は、とにかく気持ちが良かったから」

「引退してからは泳いでいないんですね」

「じつは痛みが無くなってからしばらく泳いでいたんだ。チームの士気に影響するから誰もいない時にこっそりね。チームには引退してマネージャーになると伝えていたから。でも駄目だったな。故障前と同じ対話はもうできなかった。自分自身は抜け殻という感じではなく、しっかりと魂は戻ってきているんだけど、水からの反応が違っている。幼馴染と対話するような親密さはまったくなくて、初対面で話すよそよそしい感じなんだ。それでも一年と期間を決めて泳ぎ続けた。残念ながら一年経っても親密な対話は戻ってこなかった。それで、あいつは行ってしまったんだなって思うことにした。それできれいさっぱり諦めた。それ以来、水には入っていない」

ダニエルさんは途中から視線を落として淡々と話した。自分自身に向けて話しているようだった。それから我に返ったようにぼくのほうを見て「周囲の期待は感じていたけど、オリンピックや世界記録にはあんまり興味はなかったんだよね。その点についての悔しさは無いんだ。期待してくれた周りの人たちには悪いけど」と言って微笑んだ。

ぼくはそれを作り笑いだと感じた。魂の居場所を変えてしまうほどに彼を縛る何者かから、そう簡単に逃れられないと思ったからだ。きれいさっぱり諦めたいと理性で説き伏せても、その何者かは居座ったまま動かないのではないか。もしそれができるなら、理性の力によって、発作を起こす何者かを追い出せるだろうし、高校や大学という平穏な道からぼくを遠ざける何者かも追い出せるのではないか。

そう思ったから「きれいさっぱり諦めることはできるのでしょうか」と言ってしまった。言ってから、自分の失敗に気づき、顔が熱くなって脇の下から汗が吹き出すのを感じた。胸が万力で締め付けられるようにキリキリと痛んだ。ぼくは口ごもりながら「ごめんなさい。とても失礼なことを聞いてしまいました」と言うのが精一杯だった。

ダニエルさんは微笑んだままうなずいて「君は何か困ったことを抱えているんじゃないかい?」と聞いてくれた。

ぼくは、高校をやめたこと、大学に行くつもりがないこと、母が亡くなってからの発作のことを彼に話した。母の遺言のことだけは言わなかった。母から口止めされているように感じたからだ。ダニエルさんは、黙ってうなずきながら聞いてくれた。彼がうなずくたびに、胸を締め付けていたものが緩んでいくのを感じた。



ぼくが話し終えると、とても大変だったねと言い、ペーパーナプキンをぼくに渡してくれた。ぼくはそれを目頭に当てた。

「きれいさっぱり諦めたというのは、自分はスイマーではないと意識的にカテゴライズしたという意味だよ。そのことは簡単だ。単なる宣言だから。紙にでも書いて部屋に貼っておけばいい」

ぼくはペーパーナプキンを顔に当てたままコクリとうなずく。

「でも、無意識的な意味では、きれいさっぱり忘れることは不可能だ。ずっと一緒だった幼馴染のことを忘れることは不可能だろう?だから、ぼくは意識的なカテゴライズを通じて幼馴染との関係が終わってしまったことを認め、思い出に昇華することにしたんだ。友情という現在進行系の関係性から、思い出という過去の記憶に変えたということ。わかるかな。ぼくはアメリカ人としては珍しく、自己表現の訓練をあまり受けていないからね。泳いでばかりいたから」そう言って、ダニエルさんは肩をすくめて微笑んだ。ぼくも「わかると思います」と言って笑おうとした。

「ただそのプロセスはけっこう大変で、しばらくメランコリーな状態になったな。心配したコーチに連れられて学内のクリニックに行ったよ。だからきみの発作についてもある程度共感できると思う」

ぼくは小さな声で「ありがとう」と言った。

「そういう時って、あれこれ考えちゃうんだよね。もちろん後ろ向きなことを。この先、何度も何度も同じようなことが起きちゃうのかなって思っていた。真剣に打ち込んでも、最後にはご破産になってしまう。そういう未来ばかり想像してしまう。そんなはずはない、明るい未来があるんだって自分に言い聞かせたり、気分を変えるために天気の良い日に散歩してみたりするんだけど、まったく駄目。そういう時は、悪意の塊のような悪魔がぼくの運命を操っていて、悪魔の手のひらの上で転がされているんだって感じてしまう」

周囲のサポートのおかげで寛解し、定期的に通院はしているけれど、薬は止めることができたとダニエルさんは打ち明けてくれた。

「症状が良くなった後、ぼくはこう思うようになったんだ。未来が予測できないことに、人間にとって本当の自由があるんだってね。不自由こそが自由、それは本当のことだったんだよ」

「予測できないから自由ですか」

「悪魔が人生を操っているとは思わないけど、未来の出来事はほとんど全て決まってしまっているかもしれないよね?」

「それは物理学的な意味ですか?」

「うん、そう。決定論的だという仮定。『いくら努力しても結果は同じだ』は、より正確には『努力できるかどうかすらも、すでに決まってしまっている』だね。これ、人生の真理だなって感じてしまわない?物理なんかとは無関係に。努力が報われない人はたくさんいるからね」

「ええ」

「でもね、たとえそうだとしても、ぼくたちの未来には、無限の可能性があるだろう?だってぼくたちは何が起きるか知らないんだから。自分が何を感じ、何を考え、どんな体験ができるか、その時になってみないとわからない。偉い学者さんはそれを自由と呼ばないかもしれないけれど、自分が主観的に納得できればぼくはそれでいい」

「しかも、未来の決定には、自分の内部のプロセスも関与していますしね。入出力が完全に定まっているプログラムがあったとして、入力は他者が決めていても、出力を決めているのはそのプログラムだと言えると思います。それがたとえ決定論的でも」ぼくは、母の動画を見る直前にノートに書きつけたアイデアを思い出しながら言った。

「興味深いな。どういうことか詳しく説明してよ」

ぼくは、コンピューター・プログラムの原理と、たとえすべてが決定論的に定まっていたとしても、プログラムの入出力が十分に複雑であれば、そこには主観的な自由が生じるだろうということを説明した。

「ミジンコやウミウシが本能だけで動いて、チンパンジーや僕たちに自由意志があるように感じられるのは、単に複雑さの違いに過ぎないのかもしれないね」

「そうかもしれません。認知能力が桁違いに高い知的生命体から見れば、ぼくらがウミウシのように本能だけで動いているように見えるかも」

地獄の鬼は、ぼくたち人間にどの程度の自由を認めるだろうか?



「さて、ぼくたちは本能にしたがって、デニッシュを平らげたね」ダニエルさんはそう言って、デニッシュが乗っていた小皿やコーヒーカップを片付け始めた。ぼくはそれを手伝う前に、ダニエルさんの目をしっかりと見て感謝を伝えた。ダニエルさんは「こちらこそ。また話そう」と言って、微笑んでくれた。


彼はシンクでカップを洗いながら「ぼくらは、本当に手に入れたい何かの周りをぐるぐると回っているだけなのかもね。太陽の周りを回る地球みたいに。その何かには絶対に手が届かないけど、季節がめぐり、たまに別の太陽に変わるのを楽しめれば、それで十分満足なんだろうね」と自分に言い聞かせるように言った。ぼくはそのことにはうまく同意することができなかった。




10.悟りの境地に達したと思いますか


洗い終わったコーヒカップと小皿を清潔な布巾で拭いていると、誰かがドアをノックした。入ってきたのは、ダニエルさんに負けず劣らずがっしりとした長身の男性だった。パリッとした仕立ての良いスーツは、嫌味なくらいに彼によく似合っていた。彼はアイコンタクトで「誰?」とダニエルさんに尋ねたようだった。ダニエルさんは彼に微笑み返し、渡辺教授の息子だと紹介してくれた。


スーツを着た彼はうなずくと、ぼくの手を握りつぶさんばかりのしっかりとした握手をして「ビルです。この研究センターの管理部門の部門長です」と、とてもよく通る声で言った。どことなく、ターミネーターを演じていた頃のシュワルツネッガーに似ていた。

ぼくは「父がいつもお世話になっています」と言って、彼の手を握り返した。彼の手のひらは、厚さも面積もぼくの二倍はありそうだった。

「こっちにはいつ?」

「昨日の夜遅くに空港に着きました」

「そうですか。ようこそ。到着したばかりだから疲れていますかね。よかったら一緒にカフェテリアでお茶でもどうかと思ったんだけど」

ダニエルさんをちらりと見ると、彼はわずかに微笑んでうなずいた。

「ご一緒できてとても嬉しいです。ぼくは、ここのことを知りたくてボストンに来ました。ですから、お話できるのはとてもありがたいです。でもお忙しいのでは?」とぼくは謙遜して尋ねた。ビルさんは、会議がキャンセルされて退屈していたんだと言い、ダニエルさんと親しげに短い会話を交わしてから「敷地内のカフェでいいかな?」と言ってオフィスのドアを開け、ぼくを先に通してくれた。ぼくはダニエルさんに会釈して部屋を出た。


「カフェテリアはワンブロック先の建物の二階だよ。少し窮屈だけど、居心地はなかなかだし、窓から見える景色も悪くない」

美しいキャンパスの街路樹の下を並んで歩きながら彼は言った。

「以前は企業で働いていたんだけど、ちょうど三年前にこの研究センターに移ってきた。とはいっても、ここのことは設立当時から知っているよ。この研究センターを五年前に設立したとき、外部のコンサルタントとしてセンターの設計に関わったんだ」

「父は新設の研究センターに呼ばれたと言っていました」

「このセンターの人選にも携わったよ」

「米国のトップ大学の研究センターを立ち上げるというのは、刺激的な仕事なんでしょうね」

「そういう側面もあるけど、実態はウェットで地味な仕事だよ。大きな組織のなかで何かを変えるためには政治が必要だからね。海沿いの街に高層ビルを建てるようなものだよ。自治体は税収が増えて喜ぶが、自宅の眺望が悪くなる住人や、治安の悪化を不安に思う住人もいる。政治の本質はそういったことの利害調整だろう?だから変化を生むには政治力がものを言うんだ」

「コンサルタントとして働いていたときは、政治家のような仕事をしていたということですか?」

「政治家の下で働く官僚というところかな。何かを変える必要がある時に駆り出される臨時職員さ。ぼくらのゴールは変化だ。だから、クライアント先の人々は基本的にぼくらを敵視する。きみも高校生ならわかるよね、組織にいる人たちがいかに変化を嫌うかって」

「コンサルタントというのは、かなり知的な仕事というイメージがありますけど」半分は本気、半分は社交辞令でぼくは言った。

「そうだね。しかし、そのイメージは、いつ誰がどのようにして作ったものだろうね?」と言って、ぼくをからかうようにわざと顔をしかめた。

「じつはね、こう見えて私は哲学で博士の学位を取ったんだよ。ああ、いまきみ、信じられないと思っただろう?」実際に、ぼくは少し驚いていた。

「金で学位を買ったタイプに見られることが多いよ。ははは」パリッとしたスーツが嫌味なほど良く似合い、ターミネーターのようにマッチョな人が、哲学の博士。そして、トップ大学をクライアントに持つようなコンサルティング・ファームで働き、若くして研究センターのトップとして招かれる。それでいて、ぼくに対して、まるで弟に接するように気楽に話してくれる。これはだいぶ嫌味な属性だ。彼のことを妬む人も多いに違いない。

「さらに笑えることに、学位論文はよりによって仏教だぜ。信じられる?欲を手放せという教えを研究していたやつが、金儲けの最前線に乗り込んでいったわけだ。そうそう、知的なイメージという話だったね。コンサルタントの。仏教哲学を学んだ者にとって、コンサルティングがどう見えるか、その程度のことしか話せないけど」そう言いながら、ビルさんは左手の建物の入り口まで歩き、ドアを押した。


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