17. 生物種としての限界ーヒトと鬼とケルベロスー(3)

「死ぬのが怖い人間さんにとっては、自然と食べていくことのプライオリティが高くなりますよね」

「組織運営より、まずは食べることですね」

「ええ。これは推測ですが、人間さんにとって食べていくことと同じくらい、鬼にとっては組織の最適化が制約として働いているように思います」

「良い統治システムを作ることが、食べることと同じくらい強い制約としてはたらく、ですか。想像するのが難しいです」

「経営能力でいえば、鬼の平均値はビル・ゲイツよりも上です。少なくとも鬼の全員がビル・ゲイツみたいなものだから、業務はとことん最適化されます。特に適材適所が経営の要だそうです。鬼は認知能力が高いがゆえに個性的です。ミジンコよりもヒトやイヌのほうが、個体差がありますでしょ?同じように、ヒトやイヌよりも鬼のほうが個性が際立っています。だから、地獄では個性に合わせた最適配置を徹底しています。当番制で仕事を回すなんて地獄ではありえないです。食べる心配がなければ、誰かが仕事からあぶれることや不公平感を心配する必要もありません」

「ぼくは高校生なので経験がありませんが理屈は納得できます」

「そうでした、失礼しました。お父さんは大学の先生でしたよね。お父さんは、入試の試験監督や、学生の就職の窓口や、SNSでの広報や、学生が使うロッカーの管理なんかはやりませんでしょ?」

「ええ。父の性格だと、その種の仕事を押し付けられたら、とっくに辞めているはずですから」

「それなら良かった。でも気をつけてください。人間は易きに流れますでしょう?年齢を重ねると、楽をしたくて、うち本業を疎かにしますから。主人の鈴木は『明日は我が身』と言って気をつけています。ほんの少しだけ苦しい仕事に挑戦するのが鈴木の人生哲学なんですよ。目が不自由だったから、最初は電話対応の仕事から始めて、だんだんと難しいことに挑戦しました。やるべき仕事というのは、適度に苦しいんですよね。徹夜するといったブラックな意味ではなくね。

そういう仕事で社会貢献するというのは、実に気持ちがよいものですね」マイクは、鈴木氏のことを誇らしげに話した。きっと盲導犬とケルベロスの仕事を両立している自分のことも誇らしいのだろう。ぼくは、何もできない自分が情けなくなった。



そうやって自分について考え始めた矢先に、搭乗が始まることを告げるアナウンスが聞こえてきた。

マイクは「あなたは本当に頭が良い方です。ほうぼうに営業に行きますが、そうやって飲み込みが早い方というのは意外と少ないものです」とお世辞を言った。さすがは営業マンの盲導犬だと思いながら、ぼくは「ありがとうございます」とお礼をいった。

「そろそろ搭乗が始まりますね。実に楽しかったです。主人が寝てしまうと退屈で。ありがとうございました。ご多幸をお祈りします」

「こちらこそ」ぼくがマイクにお礼を言うのとほぼ同時に、マイクのご主人が目を覚ました。搭乗ゲートの方向に目をやると、エコノミーの乗客が長い列を作り始めている。ぼくも並ばねば。

ぼくは立ち上がって、ケルベロス・マイクをちらりと見てから歩き始めた。ぼくにとって、あの搭乗ゲートは地獄の門なのかもしれないが、マイクが教えてくれた鬼たちがいる地獄なら、そう悪いこともないだろう。

8. ベーカリーカフェからの祝福


羽田からボストンまでの空路は、まるでスケートリンクの上を飛行機が滑っているかのように、飛行機はまったく揺れなかった。着陸の衝撃音すらほとんどせず、いつ着陸したのかはっきりとわからないほどだった。夜遅かったせいか、入国審査に並ぶ人の数もまばらで、なんと到着から二十分足らずで入国できてしまった。アメリカの入国審査は、いつだってディズニーランドのように長蛇の列ができているから拍子抜けした。

入国審査の後は、羽田でシミュレーションした通りにタクシー乗り場に直行し、ドライバーにホテルの名前を告げた。ドライバーは無口な人で、聞こえるぎりぎりの小さな音量でスペイン語のラジオをかけていた。

アメリカの基準からすると驚くほど丁寧な安全運転でホテルまで送り届けてくれたので、ホテルの車止めでありがとうと言って、ほんの少しだけ多めのチップを支払った。

車から降りると、ボストンの秋の引き締まった空気を感じた。深呼吸すると体の中にボストンの空気が染み渡ってくる感覚がある。同じ組成の空気なのに、東京とボストンの空気はまったく違う作用を体にもたらすような気がする。ボストンの空気には、おおらかさと油断ならない緊張感が共存していて、ぼくを東京とは違う心持ちにさせる。

ぼくは不思議と時差ボケをしない体質で、現地時間の通りにきっかり眠くなり、朝も現地時間に合わせて目が覚める。だからすでに眠気で体が気だるい。


チェックインを済ませ、簡単にシャワーを浴びたら、長かった一日のことを振り返る間もなくベッドで深い眠りに落ちていった。ちゃんと朝に眼が覚めるように、カーテンはあけて眠った。


翌朝目を覚ますと、部屋はすでに明るかった。スーツケースから着替えを引っ張り出し、出かける準備をする。スマートフォンの通知をチェックすると、ダニエルさんからのメッセージが届いていた。

朝からオフィスにいる。きみにまた会えるのはとても嬉しい。ぜひオフィスに立ち寄ってくれ。お父さんと会えるかは運次第だ。とても忙しいから。そういう内容だった。ダニエルさんと会えることがわかって、少し安心できた。


ホテルはチャールズ川をはさんで父のオフィスと反対側のエリアにある。反対側とはいっても川を挟んだ距離はだいぶ違う。父の職場からチャールズ川は目と鼻の先だが、ホテルからチャールズ川に出るまでは三十分以上歩く必要がある。

ただ、ホテルから父のオフィスまで一本道であり、安全なエリアなのにチャールズ川周辺のホテルの半額以下の宿泊料だということで、ぼくにとってはとても使い勝手が良いホテルだった。前に来た時もここに宿泊した。ホテルは、父のオフィスまでの便が良いことと、安全なエリアに比較的安い値段で泊まれること以外にはなんら特筆すべき特徴はない。特徴がないホテルに泊まれることは、幸運なことだ。お湯が出て、空調が効いて、ベッドに虫が湧いていないということだから。


スーツケースから引っ張り出した洋服に着替え、昨日のままのバックパックを背負ってホテルを出る。父の職場はチャールズ川に向かって歩いて30分ほどだ。人通りはそれほどでもなかったが、主要道路のひとつだけあってすでに車の往来は多く、そこの空気を胸いっぱいに吸い込みたいという気分にはならない。それでも、しばらく歩くと赤レンガの建物が並んでいるのが見えてきて、ボストンにいるんだという実感が湧く。15分ほど歩いたところで道を渡って右に曲がり、ベーカリーカフェに向かう。2年前にボストンに来た時にダニエルさんに教えてもらい、朝食は毎日ここで食べた。


カフェの中は、コーヒーとバターの香りに満ちていた。まるで、店全体がボストンに到着したばかりのぼくの前途を祝福してくれているようだ。

(祝福してくれるはさすがに大げさじゃないか?)と、またそいつが話しかけてくる。

それを無視して、ずらりと並んだ焼きたてのデニッシュから、クロワッサンとミートパイを選び、ホットコーヒーと一緒に頼む。テイクアウトにしてすぐそばの公園のベンチで食べようかとも思ったけれど、お店があまりに幸福なムードに満ちていたので、外がよく見えるガラス張りのカウンターテーブルで食べることにした。


背もたれのないプラスチックのカウンターチェアに座り、いそいそとクロワッサンをかじる。サクサクした口当たりと、口いっぱいに広がるバターと小麦の香り。五年前に何度も公園のベンチで食べたクロワッサンと何一つとして変わっていない。ガラスごしに外から朝の光が注ぎ込み、クロワッサンとミートパイが乗ったお皿はキラキラと輝いている。


ここがボストンのベースキャンプだという気がする。頂上にアタックする準備をするために安心してすごせる場所。安全な場所の中で、もっとも目指す頂上に近い場所ともいえるかもしれない。エベレストのベースキャンプと違って、ここはヒーターも効いているし、天気が急変して吹雪に成る恐れもない。美味しいクロワッサンとコーヒーも手に入る。


(君のお母さんはもう少し説明してくれても良かったんじゃないか?)

「そう?」クロワッサンをかじりながらそいつに答える。

(何のことやらさっぱりわからないじゃないか)

「母はいつもあんな感じだったよ。説得力はあっただろう?」とぼくは言って、もうひとくちクロワッサンを齧る。サクサクとした食感の後ろ側から、芳醇なバターの香りが口いっぱいに広がっていく。ぼくはうっとりとしながら、朝の明るい太陽の光を照り返して輝いている街路樹を眺める。空を見ると、完全に均一な青が、無限の奥行きを持っているかのようにどこまでも続いている。もし世界をいつもこのように感じられれば、何一つとして問題は存在しないはずだ。


(きみは今いる場所から抜け出せないって、お母さんは言っていた)

「うん」

(今いる場所って何のことだろう?)

「さあね」

(お父さんと別の場所への道を見つけなさいって)

「ああ」

(聞いてる?)そいつが強い口調で言ったので、ぼくは穏やかに「母の言ったことを分析しても何もわからないよ」と答えた。


母は、必要なことを十分に語ることができた。ぼくが大黒先生に話したような、あたり一面に靄のかかった雲を撒き散らすような話し方はしない。父のように、シャープな刀で次々と論題を真二つにしていくような話し方でもない。


母の話す言葉には、真理をぎゅっと詰め込んだ密度があった。母は説明しない。理由も言わない。もしそれを尋ねても、困った顔をして微笑むだけだった。


「必要であれば、母は言葉にして伝えてくれた。言葉にできないことは、無理に言葉にしなかった。言葉にできない大切なことは、それを把握できるように導いてくれた」


母が亡くなる前の日のことを考えながら、ぼくはコーヒーをすすった。何日かぶりに意識が戻った母は、ベッドサイドの椅子に腰掛けた父と少しだけ会話を交わした。それから、優しくて強い眼差しで、ぼくを包み込むように見据えた。その瞬間に、母とぼくの周りが真っ白になった。世界には母とぼくだけが存在しているようだった。母が微笑むと、その現象は終わった。単なる側頭葉の発火だろうと思ったが、それでよかった。


「正直に言って、母のことは最後までよく分からなかったんだ」


クロワッサンを食べ終えたぼくは、ミートパイに手を伸ばす。コーヒーはちょうど半分残っている。


母には熱狂的なファンが数多くいた。信仰の対象といっても過言ではないくらいだった。それは芸能の仕事を辞めた後も変わらなかった。小学校の同級生の母親達は、若い母を妬むどころか、母と近づこうといつも機会を伺っていた。中学では、母に近づく目的でぼくと仲良くなろうとした男子はたくさんいたし、女子は密かにファンクラブを結成していて、本人不在の誕生日会を開催するほどだった。


「最後に周囲が真っ白になる体験をしたとき、もしかすると、みんなこれにやられてしまっているのかなと思った」

(ビートルズを見て失神してしまうファンのようなかんじ?)

「人を狂わせる特別な才能」

(君には最期にそれを使ったわけか)

「その時、母に何かを頼まれたという感じがしたよ。それ以来、たとえ映像でも母の姿を見ると、自分のコントロールが効かなくなる。うっとりとしてしまって。」

(ここに来たのは、その頼まれごとの一環ということなのかな)

「そうかもしれない。でも、本当によくわからないんだ。大黒先生は母のことを森の中の水源だと言っていたけれど、ぼくにとっては底の様子が伺い知れない静かな湖のようだった。その湖は驚くほど透明度が高くて、湖畔に立っていると、湖面の日差しのゆらめきの先に、真っ白な砂が複雑な模様を描きながら遥か先まで広がっているのが見える。

いのに底が見えない湖のようだった。善や悪、真理や矛盾といったものをすべて飲みこんだ湖。浮かびあがる事物を認識することはできるけど、本質を理解することはできない。その由来は深い湖の底にあるわけだから」


腕時計に目をやると、もう八時半を過ぎていた。窓の外を見ると、街路樹はまだ朝日を浴びて輝いていたが、仕事場へと急ぐ人々がずいぶんと増えたようだった。ダニエルさんはもうオフィスに着いているはずだ。ぼくは、彼らを眺めながらミートパイを平らげ、席を立った。

ダニエルさんへのお土産のため、カウンターでデニッシュをいくつか注文し、テイクアウトした。店員に「良い一日を」と言われて暖かかったお店から外に出ると、外気の寒さが一段と感じられた。上着のファスナーを上までしっかりと締め、父のオフィスに向かって歩き始めた。

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