16. 生物種としての限界ーヒトと鬼とケルベロスー(2)
浜松町駅でモノレールに乗り換え、羽田空港の国際線ターミナルに向かう。モノレールは、中央に大きな荷物スペースがあることや、乗客にスーツケースを持った外国人客や航空会社の人が多いせいで、山手線や京浜東北線とはまったく違うムードだ。
手荷物の預け入れが無いので、出国手続きの列に直行する。思ったよりもその列は短く、出国手続きを終えてからフライトまではたっぷり時間がありそうだった。中に入ってからラーメンとカレーのどちらを食べようか考えながら、持ってきた小説をバックパックから取り出したとき、盲導犬を連れた男の人がゲートに入っていくのが見えた。周囲を気にしながら主人を先導するベージュのラブラドール・レトリーバー。盲導犬と一緒に飛行機に乗ることができるのは知っていたが、実際に目にするのは初めてだった。
出国審査を終えて時計を見ると、思った通りフライトまでは十分に時間があった。ラーメンを食べることにして、左側に見えているフードコートにスーツケースを引きずりながら入った。座る場所を見つけようと周囲を見回すと、出国手続きに並んでいる間に見かけたレトリーバーがいるのに気づいた。ちょうどフードと水をスタッフが持ってきたところだった。レトリーバー犬は、がぶがぶと美味しそうに音を立てて水を飲み始める。ご主人は声をかけながら優しく頭を撫でた。
その様子が見える場所にあるテーブルに席を取り、カツカレーを注文した。分厚くてジューシーなカツの脂を堪能しながら、向こうに到着してからの行動をシミュレーションすることにした。ローガン空港についたら、まずはタクシーに乗ってホテルまで行く。夜遅い時間だから寄り道もしないし、ホテルにチェックインしたら外にでることもしない。翌日に備えてなるべく早く眠る。翌朝は、デニッシュが美味しいベーカリーカフェで朝食をとる。そこで時間をつぶして、九時になったら配車アプリで車を呼んで父のオフィスまで行く。
(しばらくは美味しい日本食にはありつけないね)と、そいつが話しかけてきた。目覚めている時にそいつが話しかけてくることはめったにない。珍しいことだ。
「五年前にボストンに行った時は、ダニエルさんに色々なレストランに連れて行ってもらった。どこも美味しかった」と心の中でそいつに返事をした。そのベーカリーカフェもダニエルさんに教えてもらった。
ダニエルさんは父の秘書だ。暖かくて面倒見の良い人で、ずいぶん良くしてもらった。今回も彼と美味しいものが食べられるだろう。
「そうだ、ダニエルさんにメッセージを送っておこう」
スマートフォンを取り出して、急で申し訳ないが、明日の朝にボストンに着くので挨拶をしたい、そして父の時間を調整してもらえないかとメッセージを送った。
ダニエルさんに会うのはとても楽しみだ。彼のことを考えると楽観的な気持ちになってくる。父を取り戻すことはきっとできるのだろう。母が父のところに行くようにと断言したのだから。
荷物をバックパックにしまい、食べ終わったカツカレーのお皿を下膳口に下げてから、指定された搭乗口に向かう。機内で飲むミネラルウォーターを買って搭乗口のベンチに座ると、出発までちょうど三十分というところだった。読みかけの小説を読んでいれば、あっという間に搭乗のアナウンスがあるだろう。ちょうど良いタイミングだ。これでボストンに行ける。ほっとして息を吐き、リュックサックから小説を取り出す。どれだけ時間に余裕を持って行動しても、搭乗口にたどり着くまではいつも不安なものだ。間に合って良かったと考えながら、付箋が挟んであるページを開き、小説の続きを読み始める。今日は目まぐるしい一日だった。
*
小説に目を落とすとすぐに、誰かがぼくに挨拶する声が聞こえた。
「こんにちは」
うん?
「どうも。こんにちは」
こんなところで声をかけられるなんて、知り合いだろうか?
空港で知り合いにばったり出くわす確率はずいぶん低いのではと考えながら、文庫本から目を上げて声がしたほうを見る。向かいのベンチに何度か見かけたレトリーバー犬とそのご主人が腰掛けているのが見えた。レトリーバー犬は、行儀よくその場に伏せてこちらのほうを見ている。そのご主人は疲れてしまったのか、腕を組んで眠っているように見えた。ご主人は、カジュアルだが清潔感のある上品な服を着ていた。変なことをする人には見えなかった。
誰だろう、ぼくに声をかけたのは?あたりを見回しても、誰もこちらを見ている様子は無い。
「こんにちは。ぼくですよ。あなたの向かいのレトリーバー犬ですよ」
え?
「あなた、いける口なんでしょ?大丈夫ですよ、隠さなくても。うちの主人は疲れて眠っていますから」
いやいやいや。
誰かがいたずらをしているのだろうと思って、もう一度注意深く周囲を見回す。だが、不審な素振りをしている人は誰もいない。
「おや。急性のやつですか?もしかして、初めてですか?私たちと話すのは。いま軽く尻尾を振りますからね。ほら尻尾が動いた。これでわかりましたか?」
ぼくは唖然としてしまった。レトリーバー犬は、こちらを茶化すように再び「動かしますよ」と言いながら尻尾をパタパタと動かした。ぼくはもう事態を受け入れるしかないようだった。
「まあ、驚きますよね。大丈夫ですよ。副作用なんかはありません。それにね、たいていはすぐに戻っちゃいますし、人生で一度きりということが多いです。どうぞ貴重な体験を楽しんで。私のほうは、ああ私はマイクといいます、よろしく。私の方は、皆さんと話すのは慣れています。ご近所さんにいける口の人がいるんでね。その彼は、仕事もしないで真っ昼間からフラフラと目的もなく散歩していましてね。ぼろぼろのスニーカーを履いてね。それで、たまにすれ違うと、よっマイク、元気かあ、なんて間の抜けた声で言うんです。歯の抜けた口の中を見せながらね。そうやって能天気にフラフラとほっつき歩いているんですよ。おかしいですよねえ。彼に会うとつい笑ってしまうんだよなあ。私ですら、まいにち主人と一緒に出勤しているっていうのにねえ」と言ってから、マイクは「わはは」と高笑いをしたような気がした。
マイクは「どちらまで?ボストンですか?」と言ってから「ああ初めてなんでしたね」と言い、声を出さずにマイクと会話する方法を教えてくれた。コツはすぐに飲み込めた。マイクは「上手ですね」と褒めてくれた。
「それで、ええと、渡辺和人と申します。ボストンまで行きます」とぼくは挨拶をした。初対面の犬と何を会話してよいのかわからない。とりあえず、聞かれたことを聞き返すことにして「ええと、マイクさんは、ええと、ボストンまで?」とたどたどしく尋ねた。
「ええ、主人と一緒にボストンまで。ビジネスです。主人の名前は鈴木です。鈴木のクライアントが向こうにいらっしゃいましてね。月に一度くらい行きます。鈴木は会社ではなかなか腕の立つ営業マンとして認知されています。ぼくと一緒になったころはまだエコノミーで行くこともありましたが、すぐにそれなりの立場に出世しまして、今ではいつもビジネスクラスです」と、マイクは誇らしげに胸を張って答えた。
「それはいいですね。高校生のぼくはもちろんエコノミーです」
「若いうちの苦労は買ってでもしろ、といいますしね。私はヒトに換算すると40歳前後だそうです。そろそろビジネスクラスに乗っても怒られない年齢でしょう?」と言って、また「わはは」と愉快そうに笑った。ぼくは周囲を気にしながら、なるべく目立たないように小さく笑顔を作った。犬に向かってニヤリと笑う不審者と、同じ飛行機に乗りたくないだろう。
「あなたはご旅行?」
「ええ。父が向こうの大学で教員として働いています。父は長いことボストンにいます」
「そうですか。あなたはボストンに行かず、お住まいはこちらですか」
「少し迷いましたが、こっちに慣れていますので。ボストンは今回でまだ2回目です」
高校を辞めたことを言おうか迷ったが、それは止めておいた。初対面で言うようなことではないと思ったからだ。
「単なる旅行というよりは、何か事情がおありのようですが?」マイクは小首をかしげてそう言った。犬は群で行動する習性があるから、空気を読む能力に長けているのかもしれない。そのうえ、営業マンの盲導犬をやっているわけだから相手の表情を読めるのだろう。
「ええ、実はそうなんです。片付けなければならない大事な要件があるんです」
「それは大変ですね。成功をお祈りします」
「ありがとうございます」
「もしかすると、急にいける口になったのは、そのことと関係あるかもしれませんね。じつは私、ケルベロスでもあるんです」そう言って、誇らしげに胸を張るマイク。
「ケルベロスですか?あの地獄にいる?」
たしか、ケルベロスは地獄の門番で、頭が3つくらいあって、尻尾が蛇の怪物のことだ。
「そう、そのケルベロスです。見えないでしょう?」
犬と話していることにようやく慣れてきたぼくは、再び混乱した。ここが地獄の門ではないことは脇に置くとしても、盲導犬がケルベロスだというのは、いったいどういうことだろう。それに、表情の柔らかいラブラドール・レトリバーはあまり武力にうったえるような職種に似つかわしくない。地獄の門番はシェパードのような屈強なイヌが向いているのではないだろうか。
「普段であればね、警察犬をやっているシェパードであったり、イノシシ狩りをする筋骨隆々の猟犬がやるんですけど。私がケルベロスなのは、組織の多様性を高めるための新しい取り組みなんですよ。地獄といっても組織だということには変わりありませんからね、適度に前例から外れるというのが、健全な組織運営のために必要らしいんです。
ああ、言い忘れましたけど私たち普通の犬が任命されるケルベロスは、一年間の任期制です。有期雇用契約のケルベロス係です。眠っている間に、夢の中でケルベロスをやります」
「寝ている間ですか。昼間は盲導犬で、夜はケルベロスだとお忙しいんですね」
褒められたのが嬉しかったのか、マイクは小さく鼻をならしてから「いえいえ、不思議と寝不足は感じません。体が休んでいるあいだに、魂みたいなものだけ地獄に行くのかもしれませんね」と言った。
「適度に前例から外れるなんて、地獄というのは組織運営をしっかりやっているんですね。立派な会社みたいだ。想像と全然違うなあ」
不思議とぼくは、地獄があるということを自然と受け入れていた。犬と話せるようになると、奇妙なことに違和感を感じる神経が麻痺してしまうのかもしれない。それに、マイクの口調が真面目で有能なビジネスパーソンという感じで、彼の言葉に自然と信頼が置けたというのもある。
「そりゃね、色んな人達が入れ代わり立ち代わり一定の期間滞在する場所なわけですから、健全な組織運営が求められるわけですよ。だいたいね、組織というのは、ほっておくと腐敗するわけでしょう?地獄はこの世の始まりから終わりまで、その体制を維持し続けなければいけないわけです。だからこそ適度な変化が必要なわけです。小さな変化が、致命的な崩壊を防いでいるんですね。それは、こちらもあちらも同じですよ」
「やはり、マイクさんのような種族と言うか、イヌのみなさんは、組織運営に長けていらっしゃるんでしょうね」
「それはそうですよ」また胸を張るマイク。
「ヒトのみなさんはチンパンジーに近いでしょう?どうしても血なまぐさい傾向がありますよね。チンパンジーは戦争をするからなあ。おっと、これは失礼しました」マイクは気まずそうに頭を後ろ足で掻いた。
「ケルベロスという存在も、組織のなかのひとつの部署というわけですか」
「ええ、そうなんです。常勤のケルベロスは生粋の地獄の住人です。それとは別に、こちらにいるイヌを一頭選んで、ケルベロス係にしなければいけないという制度になっているんです。それは一年交代にすることで、新しい風を吹き込むということらしいです」
「実際、地獄の門の先を見たことはあるんですか?」
「奥の方をこの目で見たことはありませんが、一緒に働いている鬼たちは、一種の療養施設のようなものだと言っています」
「療養施設?病院のようなものですか?どちらかといえば、刑務所のような場所を想像していました」
「ええ。そのように考えていただいても、けっして間違いというわけでありません。刑務所だって、更生施設という意味もあるわけです。何万年も前は、生前に罪を犯した亡者たちへの罰という側面が強かったそうです。ええ、古株の鬼はそういうことをよく知っていて、昔話をしてくれますよ。古今東西、地上も地下も、ベテランというのは武勇伝を語るのが好きなものです。ですがね、先ほども少し話に出ましたが、地獄という組織は常に危機感を持っていて、次々に新しい施策を試していくんです。うまくいかなければやめればいいし、うまくいったらそれを続ける。そういうことを試す時間はたっぷりとありますから。何千年という単位でね」マイクは愉快そうに尻尾を振った。
「地獄が危機感を持っているというのは、なんだか不思議ですね。どちらかといいうと、もっとこう、尊大で自分たちの我を通すようなイメージがあるというか」
「ええ、ええ、よくわかりますよ。危機感の理由は単純なことです。地獄が替えのきかない場所だからです。地獄Aと地獄Bがライバル関係にあって、地獄行きの亡者がどちらかを選べるなんてことはないわけです。地獄はひとつしかありません。だから、たったひとつの地獄を駄目にしてはいかんということで、地獄をマネジメントしている方々は頑張っているようです」
「人間の社会だと逆の傾向にありそうです」
「残念ですが、おっしゃることは真実でしょうね。人間さんの社会と、鬼が管理する地獄は根本的に違うんです。大変失礼なことを申し上げますが、所詮は犬の寝言だと思って聞いてくださいね」
ぼくは「はい」と言ってうなずく。
「鬼と人間さんの能力の差が、その根本的な違いの原因です。実は、もう一つ理由がありますが、わかりやすい方からお話しましょう。
能力差というのは頭の良さです。鬼は猛烈に頭が良い。イメージ通り鬼は大きいんです。身長も横幅も人間のちょうど二倍です。すると、脳の体積は四倍に増えて、ええと脳の神経のつながりが、えーとどうなるんですかね。よくわかりませんが、とにかくすごく増えます。それで、人間さんとは比べ物にならない頭の良さになります。
天才的な人っていますでしょう。数学の天才、経営の天才なんていうふうに。鬼の平均は、その人間さんの天才より上なんです。例えば物理学の才能は、アインシュタインが鬼の平均値だと言われています」
父にとって、地獄は理解しあえる仲間がたくさんいるユートピアかもしれない。
「そもそも思考の手段である言語が、人間さんの言語と根本的に違うようでして。鬼の言語は二次元なんですよ」
「言語が二次元」
「ええ。彼らが百文字ぶん話したら、ぼくらが一万文字話したことと同じです。三十分の会話は、十五時間分の会話だったかな」
「どうやって二次元で話すのですか?」
「音声では、複数のラジオ局がいっぺんに情報を流すようにしているらしいです。視覚的な方法もあります。お腹の色が二次元バーコードのように変わるんです」
「ああ、鬼っておへそを出しているイメージがあるなあ」
「おっしゃるとおりです。あれはコミュニケーションのためです。赤鬼、青鬼など色が違うのは、彼らは体色を自由に変えられるからです。トレンドカラーもありますよ」
「流行色があるんですか」
「面白いでしょう?」と言って、マイクは「ワハハ」と笑った。
*
「もう一つの違いというのはなんですか?」
「ああ、すっかり忘れていました。その違いというのはね、死ぬのが怖いかということです。人間さんは、死ぬのが怖いんでしょう?ワハハ」
マイクは、落とし穴に落ちた間抜けな人を見た時のような笑い声を立てた。
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