15. 生物種としての限界ーヒトと鬼とケルベロスー(1)
何が起こっているのかまったく理解できなかった。何とか状況を理解しようとした。考えろと自分に言い聞かせた。身体がふわふわと浮いたようになり、みぞおちからの下の感覚が無かった。
状況が飲み込めないまま「母のことを知っているんですか?」と尋ねると「あれ、言ってなかったかな」と先生はわざとらしく目を丸くして「わたしが君のご両親の実質的な指導教員だって」と言った。先生は明らかにとぼけている。ぼくが「初めて聞きました」と不服そうに言うと、先生は、細い目をさらに丸くして「あれれ?」と素っ頓狂な声をだした。「私のこと、ご両親から聞いてない?聞いてない、そう。そうだよね。きみが赤ん坊のころに会ったこともあるんだけど。眼力が強くて、あんまり笑わない赤ちゃんだったよ」
「学生時代は学外の研究者に面倒を見てもらっていたと父から聞いたことはあります。詳しいことは聞いていませんが」
先生は頭をかきながら、学生時代の両親の面倒をみることになった経緯を訥々と説明した。ぼくは、腕組みをしたまま黙って先生を見ていた。きっと父が大黒先生に頼んで家庭教師になってもらったのだろう。父の手のひらの上で転がされているようで、良い気分はしなかった。
「きみのお父さんから面倒をみてやって欲しいとは頼まれたのは確かだよ。でも、それだけだよ」
先生は、ぼくの心を読んだかのようにそう言った。ぼくは何と答えてよいのかわからなかった。先生が信義を守る人物なのは間違いなかった。ぼくの面倒を見るという依頼は、ぼくの依頼でもあるから、ぼくとの間に交わされた依頼には何ら矛盾していない。先生が父のスパイのようなことをするとは思えなかった。論理的に考えれば、先生には責められるような点は何もない。むしろ先生は、ぼくを親戚の子供のように思って引き受けてくれたんだろう。それでも、なんとなく不服ではあったが、先生が信頼できる人であることに変わりはなかった。
「二人とも見込みのある学生だったよ」先生は当時の話を続けた。
「君も知っている通り、お父さんの研究はなかなか壮大だろう?だから、論文の形にまとまるのには十年以上かかるだろうと思えた。学位を取らせないといけないから、途中で何度か論文を書かねばならない。途中経過を、あたかも研究成果のように体裁を整えて論文にする必要がある。こういったプロセスでは、経験、情報網、そしてコネがものを言う」
父の面倒を見るのは、誰も背に乗せないような気性の荒い馬を調教してダービーに勝たせるようなものだっただろう。実際、先生は「お父さんは面倒な学生だったよ」と言って苦笑いをした。
父の学生時代についてかいつまんで話をしたあと、先生は母の話もした。
「直子さんの才能はまったく違う意味で素晴らしかった。生まれながらにして、人々を魅了する世界観を備えた表現者だった。彼女が目の前に存在するという、ただそのことだけで、人々は彼女のことを愛さずにいられなかった。それは、彼女の中の世界観を反映したものが、彼女を通じて湧き出していたからだ。私の陳腐なメタファーではとても彼女を表現しきれないが、人の立ち入らない神秘的な森の奥深くにある、その森のすべての生き物に生命を与える水源という印象を私は受けたよ。透き通った水がこんこんと湧き出るように、彼女の世界観からは新鮮で独創的なアイデアが生まれ続けていた。私自身、彼女と話すことで、まったく新しい可能性に次々と気づくことができたんだよ。お父さんがその影響を受けているのは確実だね。君のお父さんは、直子さんとの対話を通して、この世界の無限の可能性を信じられるようになったのだと思う」
ぼくは先生の話を聞きながら、まるで目の前に母がいるようにうっとりとした気分になってしまった。それは、シフォンケーキを食べたときとは比較にならないくらい強く脳髄が痺れる体験だった。大黒先生が話している母は、ぼくが産まれた直後くらいの時期だろう。その頃の母の立ち居振る舞いを想像することは難しくなかった。ぼくを産む前に出演していたドラマを繰り返し見ていた。モニター越しに見る母は、生で見る母よりも蠱惑的だった。母はそういうことをコントロールできるのだった。母のそういった魅力はぼくを産んだ後も変わらなかった。ぼくと関わろうとする人たちは、例外なく誰もが母に近づきたがった。そのことをぼくは嫌がるどころか、誇らしく感じていた。
「これ、ここで開けても良いですか?」母の遺書を見せながら、先生に尋ねた。「それは構わないが、良いのかい?」と先生が尋ねたので「ええ、ハサミがあると良いのですが」と答えた。先生は、レジのそばに立っていたオーナーらしき店員にハサミを頼んでくれた。
そのハサミで封筒を開けたとき、一瞬、母の匂いがした。封筒の中には薄い桜色の便箋が入っていた。
便箋には、ファイル共有サービスのリンクと、母からの短いメッセージが、母の字で書かれていた。
数人、このURLにメッセージを残しておきます。大黒先生と一緒に見るといいと思う。
https://drop・・・・
直子
母の字を見た瞬間、ぼくは泣いてしまった。誰かが、ハンドタオルを差し出してくれた。ぼくは下を向いたまま、その柔らかいハンドタオルで目を押さえ、発作の時と同じ要領でそれが治まるのを待った。発作のような吐き気や頭痛や不安は感じなかった。ただ、胸が万力で締め上げられているような感じがして、涙がぼくの意志とはまったく無関係に勝手に溢れ出てきた。なんども心の中で「お母さん」と叫んだ。
*
ぼくが顔を上げると、オーナーらしき店員がお茶のおかわりをポットに淹れて持ってきてくれた。ぼくは便箋を先生に渡した。先生は少し躊躇してからそれを受け取った。そして小さく頷いて、便箋をぼくに戻した。先生は黙ってノートパソコンを開き、「構わないね?」とぼくに尋ねてから、便箋にかかれていたリンクをブラウザに打ち込んだ。
そのリンク先には動画ファイルが一つだけ置かれていた。長さは3分ほど。動画のサムネイルはなく、黒い画面に三角形の再生マークが表示されている。
先生はぼくのほうをしっかりと見て「構わないね?」ともう一度確かめてから、再生マークをクリックした。桜色のニットを着た母がソファーに座っていた。ぼくの目からはまた勝手に涙が溢れてきた。
まず母は「やあ、元気にしている?」と手を上げて笑った。モニター越しの母の美しさに、ぼくはまたうっとりとした気持ちになった。それでも不思議と涙は溢れ続けていた。
「きっと元気は無いだろうね。高校は辞めちゃったんじゃないかな?もしかすると、大学にも行かないと言っているかもしれないね」と言って首をかしげていたずらっぽい表情を浮かべた。その母の仕草に世界中の生き物たちが歓喜の声をあげたのがわかった。同時に、ぼくを構成する物質は存在を停止し、むき出しの精神だけが母の姿を刻みつけるためにそこにあった。
「大黒先生、見ていますか?もし見ていたら、和人がお世話になっています」と言って母は頭を下げた。
「皮肉なものよね。私の信念が——無限の可能性に人の自由が担保されるんだという信念が——思いも寄らない自分の死という形で結実するんだから」そう言って、母は目を細めた。
そして間髪あけずに母は厳しい表情になり「和人くん、今から大事なことを言います」と言った。
母は少し間を開けてから、ゆっくりと、けれども強い口調で「お父さんの所に行きなさい。今すぐに」と言った。
「お父さんを取り戻すの。そうしないと、きみはそこを永遠に彷徨うことになる。どこにも辿り着けない。そこから抜け出せないの。だから、お父さんと一緒に別の場所への道を見つけるしかない」
それから表情を少し緩めて「大丈夫。きみならうまくやれるよ」と微笑みかけてくれた。
母は上の方を見て小さくため息をついた。しばらく顔を上げたまま黙っていた。涙をこらえているように見えた。
悲しそうな表情を浮かべてこちらに向き直ると「和人、きみともう少し長く一緒にいたかったよ」と言った。それから少し早口で「お父さんのところに行ったら、ダニエルによろしく伝えて。直子はあっちで楽しくやっているって。ダニエルはデニッシュが好きだから、ベーカリーでクロワッサンを買ってね」と言った。無理をして笑っているように見えた。
母はそのまま「じゃあ、さようなら」と言って手を振った。動画はそこで終わってしまった。
その瞬間に、ぼくの身体の構成要素は再び存在しはじめ、むき出しだった精神はゼリー状の柔らかな皮に包まれた。ふと大黒先生の方をみると、先生は焦点の定まらない目で口を開けてモニターを眺めていた。
*
7.生物種としての限界ーヒトと鬼とケルベロスー
翌日、ボストン行きの航空券と、父の職場からほど近いホテルをインターネットで予約した。運良く、その日の夕方に羽田から発つ便をおさえることができた。現地には夜遅い時間に着くが、空港からホテルまでタクシーで行けば安全だし、翌朝には父のオフィスに歩いて行けるだろう。
あの後、大黒先生はぼくをタクシーで家まで送ってくれた。大黒先生がノートパソコンを閉じたくらいのタイミングで、また万力で胸が締め上げられているようになり、涙が溢れてきたからだ。この発作はタクシーに乗っても治まらなかった。玄関で大黒先生と別れたあと、そのまま部屋のベッドに倒れ込み、気づいたら朝になっていた。発作はすっかり収まり、動画で見た母の姿を思い出して、すぐにでも父と話して連れ戻したい気分になった。
機内持ち込みができる小ぶりのスーツケースに数日分の着替えと洗面用具を詰め、バックパックには必要な小物と読みかけの小説を入れた。母の遺言が入った封筒を持っていこうか迷ったが、置いていくことにした。ほかに何か忘れ物をしている気もするけれど、たいていのものは現地で調達できる。
こうやって支度をしていると、ここしばらくなかったたぐいの高揚感を感じた。どんなときでも、海外に行くというプロセスはぼくを高揚させてくれるようだ。気分が高揚し過ぎないように感情をおさえつけながら、いつもより慎重に戸締まりを確認し、ガスの元栓を閉めて家を出た。
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