13. 有限性への落胆と意味の無限性(2)
「ある意味で、義務教育は偉大な制度だと思います。少なくとも、別け隔てなく誰もが子供時代に学ぶ機会を持てる社会という理念は、手放しで称賛したいという気持ちです。ただその理念に充実になるほど、実装される制度は均一になります。皆が『平等に』学ぶ機会を得るという理念は、均一なカリキュラムという形で実装されるわけだから」
ぼくは話を中断しお茶を注いで一口飲んだ。口から発せられる雲ができる限りまとまった形になるように話したいと思ったからだ。
「均一なカリキュラムは、伝達される知識の有限性を暗黙的に仮定しています。当然です。制度化とは言語の線を引くという機能を用いることで達成されます。だから、制度化された教育のカリキュラムの扱う知識は、柵で囲われた内側だけです。柵の外の無限は扱うことができません。これが制度化された教育に内在する必然的な制約です。リンゴが地面に引っ張られるのと同じくらい必然的です」
先生は顎髭を撫でながら、虚空に発せられた雲の断片を眺めた。視線はテーブルの上、天井、窓の外をゆっくりと移動した。窓の外の太陽はまだ高い場所にあったが、もう数時間もすれば輝きを失って沈んでしまうだろう。太陽が意識を持つという考えは馬鹿げているだろうか。人々は素朴に、単純な生命は意識を持たず複雑な生命は意識を持つと考える。あの巨大な太陽のことを、ヒトよりもはるかに複雑なプロセスだと考えてはいけないのだろうか。もし太陽が意識を持っているならば、自身に自由意志があると感じているだろうか。そもそも自由や意志という概念を持つだろうか。運動が完全に制約されている時、その制約に疑義を呈するなんてことが起こってよいのだろうか。
「一番初めに言っていたことがあったね、ほら、なんだったかな」
「完璧さのためには、意味を切り捨てる必要があるのか?です」
「制度化による線引きと、意味を切り捨てることは関係している?」
「しています」
「意味というのは、辞書に書いてある言葉の意味のことかな?」
「いえ違います。ぼくの言った『意味』は、もっと広いものです。辞書的な意味も含むし、知識も含みます。そうですね、例えば空き地に壊れた自動車が放置されているところを想像してみてください」とぼくが言うと、「はいはい、想像したよ」と、先生は小気味よいリズムで答えてくれた。
「では尋ねます。空き地に壊れた車が放置されていることの意味はなんでしょうか?何を意味しますか?」
「誰かが処分に困って捨てた。これは犯罪に使われた盗難車かもしれない。ということは、すぐに警察に通報したほうが良いのかも知れない。こういう回答を期待していたかな?」
「ええ。ありがとうございます。他にもこういうことを考える人がいるかもしれない。この車は、廃車にするお金を払いたくない人が、こっそりと捨てたのだ。これは商売の種になるぞ、と」
「商売の種?」
こころなしか、先生の瞳孔がミリ単位で開いたように思われた。ネコ科の動物が獲物を見つけた時の目だ。
「父の同級生に資産家の息子がいたそうです。その資産家は一代で大きな資産を築いたそうです。その最初の一歩が、ゴミ同然の車を無料で引き取り、解体してパーツを高く売るという商売だったそうです。
父は一度だけその同級生の実家に行き、その資産家に会ったそうです。閑静な高級住宅地の大きな一角を占めていたその家の駐車場には型落ちのトヨタ・カローラとメルセデス・ベンツが停めてありました。その資産家の眼球が常に何かを探しているようにギョロギョロと動き回っていることが印象的だったと父は言っていました。
さて、この資産家が『違法に放置されていた車は、自分にとっては大きなビジネスチャンスを意味したのだ』と言ったとしましょう。この発言は、『何を意味するか?』という質問の回答として適切ですか?」
「適切だと思うよ」
「この例は、若き日の資産家が不法投棄された車に巧みな意味付けをしたという構図ですね。この新たな意味付けというのは批評家の仕事だったりもしますよね。『ベートーヴェンは、現代のミニマル・ミュージックの源流だ。第五交響曲運命は、世界で最も受け入れられているミニマル・ミュージックだ』と誰かが批評したとしましょう。この批評家は、ベートーヴェンの第五に対してミニマル・ミュージックの源流としての意味を付与したわけです。
さきほど先生がおっしゃった辞書的な意味ですが、それは標準的な日本人が共通して抱いている——または抱くべきである——意味を筆者が想定した意味が書かれていると思います。共通部分のようなものです。たとえば広辞苑にはベートーヴェンについてこう書いてありますね」
ぼくは、モバイル版の広辞苑を開いて先生に見せた。
ドイツの作曲家。主にウィーンで活動。古典派三巨匠の一人で、ロマン派音楽の先駆。九曲の交響曲や・・・
「ベートーヴェンが古典派で、ロマン派の先駆だという位置づけはなされていますが、ミニマル・ミュージックの元祖だという歴史的な位置づけには言及されていません。当たり前です。ぼくにとってのベートーヴェンの意味だから」
「素朴には、意味というのは言葉に対してひとつに定まっていると考えそうなものだが」
「いえ、そんなはずはありません。ソクラテスが美少年メノンと鼻を伸ばしながら対話したテーマは『徳とは何であるか』でした。そこでソクラテスは答えることなく、時間切れだと言って立ち去ってしまう。プラトンの描くソクラテスは『徳』の意味が天上界に確固として定まっていると信じていたのでしょうが、誰もその定まった『徳』の意味にはアクセスできないとも主張していたように、ぼくには思われます。対話を通じて近づくことはできても、完全に把握しきることはできないのだと。なにせ『無知を自覚せよ』が彼のキャッチコピーですから。もし、広辞苑の編者が、『徳』の意味は広辞苑に書かれたものが正解だと言ったならば──言わないでしょうが──ソクラテスに直ちに論駁されることでしょう」
「じゃあ、君の言う『意味』とは何のことだい?君は、意味という言葉をあまりに広く捉えすぎていないだろうか」
「商才のある人は、放置された車にビジネスチャンスという意味づけをする、けれども、その人にとっての意味であって、広く認められた意味ではない。意味というのは、みんなが了解する、一種の普遍性を持つべきだということでしょうか?」
「入試問題で、英語の意味を答えさせる問題があるだろう?そこでは主観的な意味付けは許されないよね」
「『He plays baseball everyday except winter.』という英文の意味を問われて『彼は冬場を除いて毎日野球をしています』と答えるのは正解だが『彼はプロ野球選手かもしれない』などと書くことは許されない。先生がおっしゃるのはこういったケースですか?」
「常識的には、こういったお互いに了解しあえるものを意味と呼ぶのではないかい?」
「入試での翻訳は、文の意味を問うているというより、文を別の文に書き換えるという作業を課していると思います。中国語の部屋で行われている作業とよく似ています。マニュアルさえあれば、意味などわからなくても作業ができるという点においてです。言うまでもなく、中国語の部屋の作業者は、中国語の意味を理解していません。実際、入試の和訳問題はルールに基づいたゲームです。単語を置き換え、文法規則どおりに並べかえ、助詞などを補ってつなぐという作業をせよ、というゲームのルールなわけです。人間に対して公平に得点を付けるためにはスポーツのようにルールを明確にせねばならないからですね。一番遠くまで飛んだ者が勝者だという具合にです。そうしないとヒトが人間を評価することはできない」
「なるほど」先生はそう言って、また顎髭をなでながらしばらく上の空で黙っていた。ぼくは口の中がカラカラに乾いていることに気づいた。自分がこんなに話したいことがあるということを、自覚していなかった。父といるときは、父から湧き出すアイデアを身近で感じられることが幸福だった。母は、ただ存在してくれるだけで幸福だった。同級生や教師たちには、どれだけ言葉を尽くしても考えを伝えることはできなかった。自分はなんて表現力が無いのだろうといつも思っていた。
大黒先生は、ぼくが切れ切れの雲に込めたかった意味を理解してくれるように感じられた。先生はほとんど何も話さない。それなのに、先生がぼくの発話の意味を理解していること、あるいはぼくにすら把握されていない意味を付与していることを感じられた。
実際、ぼくが脇道にそれて道に迷っている時は、ぼくの混乱がおさまるのを待ってくれていた。あまりに混乱しているときは、手を差し伸べてくれる。
時として、無言に対して言葉以上の意味を見出すことができる。
若い店員に水を頼み、ぼくは注がれた水を一気に飲み干した。
「生命を瓶に詰めて放置したらどうなるでしょう?」
「死んでしまうね」
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