11. エメラルドグリーンの夢(2)

(そうだろうね。もっとスリムにシェイプアップしなきゃ。ブヨブヨの脂肪が邪魔でよく見えない)

「具体的な状況を設定して、その状況だけについて分析しようか」

(大黒天そっくりの先生と話していたときは、完璧な講義の動画にいちゃもんをつけていたね。容姿端麗な先生がわかりやすく教えてくれる授業なんだろう?それ以上何を求めているんだい、きみは?)

「まさにそれを考えなければいけない。きみの言う通り、問題をスリムにしてスペシフィックな状況を考えるべきだね。完璧な予備校講師が、下に凸な二次関数の最小値を求める問題を解説するというのはどうだい?高校で最初に習う数学だ。たとえばこんな問題」


問題 次の二次関数の最小値を求めよ。

y=x^2-4x+5 (1)

ただし、xの定義域は実数全体であるとせよ。


「講師が平方完成で最小値を得る方法を説明するとしよう。こんな風に」


解答例 与えられた二次関数は、次のように変形することができる。

y=(x-2)^2+1 (2)

右辺の第一項、すなわち(x-2)^2について考えよう。xが実数なので、x-2は実数である。よって、右辺第一項は実数の自乗だから常に正。一方、(x-2)^2は、x=2の時にゼロである。以上のことから、右辺第一項は、x=2のときに最小となり、最小値はゼロである。

また、右辺第二項はxの値によらず、常に1である。

しがたって、与えられた二次関数は、x=2のとき最小値1をとる。■


(特に問題は無さそうだ。親切すぎるくらいだ)

「この説明をして受講生からクレームがきたなら、講師に落ち度があるとは思えないね」

(だが、君は今からこの説明をした講師にクレームをつけようとするわけだね?)

「クレームではないよ。感想を述べるだけだ。初めてこの解き方を知った時、式(1)を式(2)に変形するというアイデア——平方完成すること——の巧みさに目を見張った。誰かは知らないけど、この解法を人類で初めて見つけた人は結構凄いんじゃないかと思ったんだ。平方完成する解き方を教えてもらった後なら、この問題は機械的に解ける。単なる計算問題だ。面白いことは何も無い。でも平方完成で解く方法を見つけることは、大変なことだと思ったんだ」

(コロンブスの卵だね)

「大げさだけど、初めてこの解法を知った時に感動してしまったんだ。たしか小学校の五年生の時に何かの動画で知ったと思う。父さんは仕事中、ぼくが退屈しないように色々と動画を見せてくれていたから。その動画を見た時の感動は、肘にトミージョン手術をしたピッチャーが、復帰戦で勝利をあげるのを見るくらいの感動だったよ」

(きみは意外と陳腐なヒューマン・ドラマが好きだよな。ぼくはスポーツはどうもね)

「それで、まったく同じタイミングで、疑問も湧いた。どうやったらこんな解法を思いつけるんだろう、という疑問だ。

解法はとてもシンプルだ。高校生で最初に習うものだし、慣れれば計算も簡単だから機械的に解ける。まさにコロンブスの卵だね。それだけに、どうやったら、自分の発想で解き方に気づくことができるのかが、わからなかったんだ」

(君の性格からして、それが気になって動画のその先に進めなかったんだろう?)

「腕を組んだまま式を眺めて、どうやったらこれを思いつける人間になれるのかを考えたよ」


y=x^2-4x+5は、y=(x-2)^2+1と変形できる。


「だってそうだろう?この問題の一番の難所は、この式変形に気づくことだ。そうだとすれば『この問題を解ける人とは、平方完成すれば良いということを、自分で気付ける人のことである』と考えても良いだろう?

実際の場面で出会う問題には、別冊の模範解答が添付されているわけではないよね。なんというか、養殖ではなく天然の問題と言うか。そう、天然の、自然が自然に生み出した問題なんだ。そんな問題を自分の力で解かなければならない。だから、この式変形を思いつけるような人間になりたいと思ったんだ。そういう人間になるためのヒントを見つけたくて、じっと式を睨んでいた」

(気持ちはわかるけど、それで予備校講師にいちゃもんをつけるのは真正のクレーマーだな)

「もちろんそうだ。予備校は入試で良い点数を取る方法を教わるところだから。

実際、その先生は親切に前置きをしていたよ。入試で出る問題は、基礎的な問題を機械的に解く能力と、与えられた問題を基礎的な問題に分解する能力で必ず解ける。だから、基礎的な問題を繰り返し練習して機械的に解けるようにすることは大切なのだと。掛け算の九九を答えるのと同じ瞬発力で、二次関数の最大最小問題は平方完成ができないといけない。そこは意識的に思考停止しなさいと。

この意味で、この先生は首尾一貫している。思考停止して瞬発力で解くとはどういうことか、自身のパフォーマンスによって示したんだ」


そのとき、胸のあたりを何かにノックされたような感覚があった。ノックされたあたりに、ぐっと集中して正体をさぐる。

「違和感の表面の皮の中には、もどかしさという感情が隠れているみたいだ。

講師の説明の範囲を区切る枠、その枠の外側にもっと面白い何かが明らかに存在している。それなのに、その講義動画では、その枠の外側について何も言及しない。枠の内側については、あんなに親切に説明しているのに。

枠の内側について、あれだけよく知っていて、しかも明晰に説明する能力があるのだから、区切っている枠が何なのか、そして、枠の外側に広がる景色はどのようなものなのか、それを見える範囲で良いから教えてもらえないだろうか。そんなもどかしさを感じていたと思う。

例えば羊飼いが広大な草原にいる。地平線まで緑の絨毯が広がる大陸の大草原だ。彼はその草原を柵で囲って、その中に羊たちを入れて育てている。その羊飼いに尋ねれば柵の中のことを詳らかに教えてくれるだろう。彼の飼っている羊たちのことや、草の生育具合や、季節ごとの天気について。そんな羊飼いと、柵の外側について対話してみたいんだ」

(際限が無いって感じるけど。どこまで進んでも、草原は続くじゃないか。どれだけ対話したって、君はもどかしさを感じたままだろう?ところで、大陸の羊飼いは柵なんか作るんだろうか?)

「イメージできればいいじゃないか。高校を辞めた無職の少年に正確なファクトチェックを求めるなよ。まったく窮屈な世の中だ」


たしかに大陸の草原はどこまでも続く。例えば自分自身を理解しきることなど想像もできない。公理主義的に、有限な前提で無限の広がりを説明するという方法はありえるけれど、すべてを包含する公理系を作る試みがうまくいっているとは思えない。それに、公理系を作ることと、公理系から導出される知識を列挙することは別問題だ。ということは、人間が有限な存在である限り、ぼくの違和感は原理的な制約への愚痴にすぎないということなのか。

(きらきらしている人へのやっかみなんじゃない?)

「そうかもね」


顔を上げて輪郭がぼけた太陽に目をやると、最初と同じ場所で真っ白に輝いていた。鳥が鳴いているような声が聞こえるが、姿は見えない。風は遠くから暖かくて湿った空気を倦むこと無く運び続けている。表層的には変化しても、根源的にはこの星は不動だ。この事実が、この星における自由を保証しているように思われる。


(妥協が必要じゃないか?すべてを取り込んで何かを表現するのは不可能だ)

「シャノンも意味論的は扱わないと明確に断りを入れているしね」


  意味論的な観点から見た通信は、工学的な通信の問題とは無関係である。(C.E.シャノン 通信の数学的理論)


情報の意味はシャノンが作った柵の外側にあるのだ。情報の意味は地平線の向こうまで永遠に広がっているだろう。だからこそ、シャノンは柵で囲ったに違いない。ということは、情報は必然的に無限の未知を含んでいることになる。もしそうならば、知っていることの総量よりも、知らないことの総量が時々刻々と増えていくことになる。ぼくの自信は無知の総量に比例して失われていってしまう。


このままでは、ぼくの自信はもうすぐ枯渇してしまう。もう枯渇してしまったのかもしれない。何か手を打たないと、何も信じられない抜け殻のような有様になってしまう。

5−1.意味をめぐる対話 (1)


「完璧さを求めるのなら、意味を切り捨てる必要があるのでしょうか?」

喫茶店のアンティークチェアに座った大黒先生は、キーボードを叩く手を止め、長い耳たぶを揺らせながらぼくの方に顔を向けた。太い眉の下に置かれた細く垂れた目でぼくの顔を観察してから「どういうことかな?」と尋ねた。今日の先生は、胸にUSCとプリントされたカーディナル・レッドのパーカーを着ていた。前回同様、大型のネコ科動物を連想させる隙がない着こなしで、ざっくりと編まれたベレー帽の薄いグレーと、ウールのボトムスの濃いグレーがよく合っていた。


ファストファッションのシャツとズボンを、温泉旅館のペラペラの浴衣のようにしか着こなせない自分を省みて、情けない気持ちになるのを感じながら「あれから一週間完璧さについて考えてみました」とぼくは言った。先生が「どんな話だったかな?」と聞いたので、完璧な授業をする自信たっぷりな予備校の講師と、それに嫉妬を感じてしまう自分がいると答えた。「なぜなら自分の考えを完璧に伝えられなくて、いつもやきもきしているからです」と付け加えると、先生は「うん、そうだった、そうだった」とえびす顔で愉快そうに言った。

「それで、何か進展はあったかな?」

「ぼくが感じていた違和感は嫉妬です。その嫉妬は、不完全さを受け入れて、それを乗り越えて自信を持って表現する勇気、のようなものへの憧れだと思います」


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