9. 柵で囲った完璧さ −ネコ科の大黒天− その3
読みかけのYeungの情報理論の教科書をバックパックから取り出してテーブルに広げてはみたものの、掘り進めるとぶち当たる硬い岩盤という考えに囚われてしまって読み進むことはできなかった。
誰もが問題を抱えている。陳腐だが普遍的な真理だ。担任の教師はいつも何かに腹を立てていたし、教頭は自分を慕う女子生徒たちとはきはき話しながらぼくとは一定の距離を取っていた。
大黒先生はどうだろう。先生が腹を立てているところは想像できない。また、たとえ仕事中であっても嘘っぽい不自然な口調で話したりしないだろう。先生は血色が良く肌には張りと艶がある。洋服は、大型のネコ科動物の毛皮のように体に馴染んでいるし革靴や革鞄は、ぼくのスニーカーやバックパックの百個分くらいの値段だろう。
大黒先生はノートパソコンのモニターを細い目で見ながら、なめらかにキーボードを叩き続けている。奏者によってバイオリンの音色が異なるように、キーボードの打鍵音は人によって全然違う音がする。担任の教師が職員室でキーボードを叩く音は、ペラペラの鉄板で作った軽自動車のドアをバタバタと何度も開け閉めしているような音だった。何度閉めてもどうしても半ドアになってしまう。そういう中途半端な苛立ちが音に含まれていた。目の前で奏でられる大黒先生の打鍵音は、ブライアン・イーノのアンビエント・ミュージックのような鋭さと柔らかさと慎ましさを内包した音だった。イーノの音は、背景としての意義を成し遂げるために、緻密に設計された背景音楽だ。優れた図には優れた地が必要だし、図と地は観察者の主観次第で反転しうる。大黒先生のキーボードが奏でる音声は、図としての存在意義を十分に有しているにも関わらず、あくまで地であることに徹しようとする意思を感じさせる音だった。
ブライアン・イーノのようにキーボードを叩く人は、いったいどんな悩みを持っているのだろうか。その悩みを覗いてみたいと思った。
だが、大黒先生のような人に「悩みはなんですか?」と尋ねても、その答えから悩みを理解することはできない。彼らに尋ねたとしても「仕事が忙しくてね」「足がむくんじゃって」「残業代が出ないんだ」などと、あっけらかんと言うだけだ。本当の問題を了解可能な形で表現するためには、少しずつ色を重ねていって一枚の絵を仕上げるように、長時間の辛抱強い作業が必要だと彼らは知っているのだ。
それは、長く伸びた砂浜にばら撒かれたアクセサリーの部品を拾い集めて元通りの形に戻す作業にも似ている。波に打ち上げられた貝殻やガラス瓶の破片と間違えずにアクセサリーの部品だけを拾い集めなければならない。それに苦労して組み上げても、なぜか必ず元の形とは少し違っているのだ。
目の前で滑らかにキーボードを叩いている白髪混じりの男性にも、何らかの問題はあるはずだった。だが、先生に悩みがあるようにはどうしても見えなかった。あらゆる悩みは、とうの昔に解決してしまったように思われた。仮に悩みがあるとするならば、密教の巨大な曼荼羅図のような姿をしていているのだろうと思った。今のぼくでは、それを見ても悩み苦しみの本質を理解できない何かなのだ。
それに比べれば、ぼくの困難ははるかに了解しやすい姿であるように思われた。
やるべき何かがあることはわかっている。それをやれと、ぼくの中の何かがぼく自身を急き立てる。
そのために高校をやめてしまった。大学にもいかない。その上、パニック障害の患者であって、父は単身赴任で家を離れ、死んだ母とは二度と会えない。
この事実を箇条書きにして訴えかければ、誰もが同情してくれるに違いない。「頑張れ」と肩を叩いて励ましてくれるだろう。けれど、何に困っているのか、地表面からは伺い知れない硬い岩盤が何であるのか、本当にわからないのだ。
もしぼくが、イケてるスタートアップの社長なら、コンサルタントの友達にでも相談するかもしれない。その友達は、ツイッターでフォロワーが1万人いる外資系の経営コンサルティング・ファーム出身のエリートだ。
彼は早口でぼくにいくつかの質問をし、その答えを手際よく分析して、ぼくの問題を特定してくれる。解決手段が書かれた提案書も無料サービスで送ってくれるかもしれない。
だが、エリートが特定した問題が、硬い岩盤であるのかぼく自身も判断できないだろう。
ぼくが一時間のインタビューで語ったことを、理路整然とまとめてあるのだから、何一つとして嘘はない。コンサルティング・ファームで鍛えられた論理的な思考力によって、まとまりのない漠然とした言葉の羅列は、簡潔さと、明晰さと、整合性をもった表現に変換されている。本質だけにシェイプアップした簡潔さ、綺麗な図表が添えられて読み手が一目瞭然でメッセージを理解できる明晰さ、そして、磨き上げられた鏡のように一点の曇りもない首尾一貫した論理的整合性。ぼく以外の誰もが「完璧だ」と拍手を送る。
ぼくの語ったことを誰かが要約し、ぼく以外のすべての人がそれを完璧だと称賛するとき、ぼくはいったいどうすれば良いのか。
この違和感は、綺麗なパワーポイントを使って分かりやすく授業するタイプの予備校講師に感じる違和感と同じだ。例えば、閲覧数をのばしている若い女性の講師は、本人の見栄えがするだけでなく、講義の資料も綺麗に作ってあるし、おそらく台本も精緻に作ってあるはずだ。彼女は俳優のように適度な抑揚で淀みなくはきはきと話す。彼女の講義はわかりやすく、「おや?」と感じるポイントが無い。違和感としてひっかかるものが何もない。コンビニに並んでいるミネラルウォーターのように雑味がない。おかしな点がなにもないという点において、完璧なのだ。
彼女の授業は完璧なのだろうか?完璧とは一体何のことだ?スマートフォンを取り出して検索すると、欠点や不足がまったくなく、立派なこと、完全なことが『完璧』の字義だと分かる。まさに彼女の講義は、欠点や不足がまったくない。
さっきから、ぼくは完璧さを非難している。その完璧さのせいで、ぼくは彼らに騙されていると感じている。そのように非難される方はたまったものではないだろう。「あなたの講義は完璧です。だから嫌いです。まるで詐欺師に騙されているような気分です」とコメント欄に書いてあったとしたらどうだろう。明らかにまともなコメントではない。
完璧さへの違和感とはただの難癖なのだろうか。もっと言えば嫉妬だろうか。
大黒先生に好感を持ったのは、単にその裏返しなのかもしれなかった。大黒先生は、不思議な風貌をしているし、それ以外はスマートな着こなしなのにUCLAのカレッジ・スウェットを着ているし、笑うとガマガエルのようだし、家庭教師であるにも関わらず初日からぼくの目の前でパソコンを取り出して内職をしている。まったくもって掴み所がない。大黒先生がぴったりと馴染むコミュニティーはこの世界に存在しないだろう。いかなるコミュニティの基準に照らしても大黒先生は『完璧』ではない。
そうだとすれば完璧さへの非難は、単にぼくの嗜好の傾向を表しているだけになる。一流の職人が時間をかけて丹念になめした革製品に違和感を感じ、ささくれだった端材に惹かれてしまう傾向。この傾向が生活上のメリットがあるとはあまり思えない。高校や大学を忌避したのは、長い時間をかけて最適化されてきた完璧な制度を、嘘くさいシステムだと主観的に思い込んだだけではないのか。仕事ができて熱心で生徒から人気のある教頭のことは、素直に良い先生だと思ったほうが良いのではないか。ぼくはアンフェアな偏見で世界を眺めているのではないか。
ぼくは一番端っこにぽつんと座っているようなみずぼらしい気持ちになってしまい、窓の外を足早に歩き去っていくビジネスパーソンを横目で見ながらため息をついた。大黒先生はこちらを見たような気がしたが、それに気づいたぼくが大黒先生に目をやったときには、すでに大黒先生はノートパソコンのモニターを眺めていた。
外に目をやりながら、完璧さに対する違和感についてもう一度考えた。考えれば考えるほど、自分の認識が偏っているのだと思われた。もしそうなら致命的だと思った。地図の無い深い森の中で、自分勝手な思い込みは命取りだからだ。
なんとなしに大黒先生を見た。正直に言うと助けて欲しかったんだと思う。大黒先生はぼくよりも先にこちらを見ていた。そして、ぼくが先生を見た時「困ったことが起きたかな?」と言った。ぼくは「ええ」と言った。自分の意思よりも先に言葉が出てきたように感じられて不思議だった。
反射的に先生に答えてから、初対面の家庭教師に話す内容ではないと思われて恥ずかしさがこみ上げてきた。初対面の人に「完璧さを忌避する偏見で困っている」と相談されたら、自分ならどう思うだろうか。しかし、目の前にぶらさがっている驚くべき長さの福耳を見ていると、そんな常識は取るに足らないことだと思えてきた。大黒先生なら、新種の昆虫を手に乗せてじっと観察するように、ぼくの言うことをそのまま聴いてくれるような気がした。
それでも「まだ生煮えなので、うまく説明できないと思いますし、だいたい、こんなことで困っているというのは、あまりまともではないと自覚しているのですが」と、ぼくは予防線を張った。先生がうなずくのを待ってから「完璧な表現への違和感について、考えていました」と簡潔に問題を伝えた。
「ほう。なんだか面白そうだ」と先生は言った。「詳しく説明してくれないかい?」
ぼくは、これまで考えてきたことを先生に話した。先生は時折うなずきながら、黙ってぼくの話を聴いてくれた。
「それで、今のあなたはその違和感をどう捉えているの?あなたが思ったように単なる偏見だと言い切れるの?」
「難しいですね。主観的な偏見で片付けられない何かがある、とぼくは思ってはいます。ですが、この直観は疑ってかかったほうがいいと思います。誰だって、自分が偏見を持っているとは思いたくはありません。自分を正当化する直観を信じるのは危うい。だから単なる主観にすぎないと考えるのが無難な気がしています」
「ちょっと教えてほしいんだが、なぜあなたは二律背反だと思っているの?吟味に値する深い何かが潜んでいるような主観的偏見という可能性はないのかね?」
頭をコツンと優しく叩かれたようだった。たしかにそうだ。なぜジレンマだと決めつけたんだろう。みせかけのジレンマにはいつも注意しているはずなのに。
ぼくは腕を組んで目をつぶり(吟味に値するような深い何かが潜んでいるような主観的偏見)と頭の中で何度か反芻しながら、その観念をぼくの芯の部分に染み込ませようとした。さっきまでのぼくは、これをジレンマだと無自覚に思いこんでいた。こういった無自覚な思い込みの由来は、深い場所にある信念——あるいは信仰のようなもの——に由来していると思う。表面的にその思い込みの誤りを認めたとしても、根深い信念は塗り変わらない。新しい観念を深い場所に染み込ませることで、意識下でぼくを制御する信念の体系がアップデートされる。そうしてはじめて、無自覚な思い込みを乗り越えた議論ができる。
芯の部分の七分目くらいまでが新しい観念に浸ったころ、さっきまでジレンマに見えていた観念をもう一度取り出して眺めた。どこからどう見ても、もはやそれはジレンマではなかった。これで議論を続ける準備ができた。大黒先生は準備が整うまで黙って待っていてくれるとわかっていた。
ぼくは目を開けて「それは明らかに主観的な偏見だと思いますし、同時にその主観には吟味に値する何かが潜んでいるような気がします」と確信に満ちた声で先生に答えた。
先生は小さくうなずき、ぼくが続けて何か言うのを待っている様子だった。しかし、ぼくは先生が何かを言ってくれるのを辛抱強く待った。先生に舵取りを委ねたほうが、適切な場所にたどり着ける予感がした。
椅子に深く座り直すために体を浮かせた瞬間、先生は「完璧な表現を見た時に君はどう感じているのかね?」とぼくに尋ねた。
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