8. 柵で囲った完璧さ −ネコ科の大黒天− その2
「はじめまして、私がオオグロです」大黒様は細い目をさらに細めて、えびす顔で言った。大黒様にえびす顔というのが適切なのかわからないけれど、ともかくおめでたいえびす顔だった。
「オオグロは漢字で大黒と書きます。そして、ご覧の通り、七福神の大黒様そっくりの容貌をしています」面白いでしょう?と大黒様は言い、ふあふぁふぁふぁ、と愉快そうに口を開けて笑った。その笑い声は、小ぶりのガマガエルの声を連想させた。えびす顔をして小ぶりなガマガエルのように笑う大黒天というわけだ。
大黒様は「よっこいしょ」と言って喫茶店のベンチソファに座った。その仕草はコミカルだったが、しなやかで上等そうな革のローファーを履いているのが目に入った。よくよく観察すると、大黒様の身につけているものはどれも質の良さそうなものだった。それでいて、こざっぱりとした清潔感もあった。
洋服のことはまったくわからないが、ファストファッションと、古き良き伝統を守って作られた服の違いは、なんとなくわかる。ファストファッションを無頓着に着ている人は、着慣れない浴衣を羽織って温泉街をそぞろ歩きしている人を連想させるし、手間をかけて作った洋服を上手に着こなしている人を見ると、立派な毛皮を持った大きなネコ科の動物が、しなやかに歩いている姿を連想させる。ちなみに、ぼくはペラペラの浴衣を着ているほうだ。
大黒様はにこにこと笑いながらこちらを見ていた。我に返ったぼくは慌てて「すいません」と言い、メニューを大黒様のほうに向けた。
「改めましてこんにちは、和人くん。お目にかかれて嬉しいです。私のことは、オオグロさんとかオオグロ先生などと呼んでください」と、親戚のおじさんが産まれてきた赤ちゃんに声をかけるような、優しくて柔らかな口調で言った。
ぼくは少しつっかえながら「こちらこそ、はじめまして大黒先生。あの、来てくださって、ありがとうございます」と言った。物心が付く前に生き別れになっていた親戚と再開するような、そんな不思議な気分だった。
「大黒天は富や財宝を司る温和な神様というイメージをお持ちでしょうか?でも、源流をたどると、意外と怖い神様なんですよ。ヒンドゥーのシヴァ神が世界を灰にして滅ぼすときの姿が大黒天の原型なんだそうで」
「それは知りませんでした」
「出雲大社に祀られている大国主命のことを大黒天とみる考え方もあるそうですね。ワニに皮を剥がれた因幡の白兎を助けた神様ですね。それで、私はウサギを飼っています」先生はスマートフォンを取り出し、ライブカメラで真っ白なウサギが眠っているところを見せてくれた。
「こう見えて、日中は家を空けることが多くてね。心配でライブカメラを家のいたるところに取り付けました。ま、ワニに皮を剥がるなんてことは起きないだろうけどね」そう言って、先生はひとしきり、ふあふぁふぁふぁと笑った。笑うと、下膨れした顔が、さらに膨らんだ。やっぱり笑うとガマガエルだ。
「大国主命は、苦しんでいたウサギに治療法を教えてあげたんですよね」
ウィキペディアで調べると、蒲の穂の花粉を皮膚の薬として使ったと書いてあった。
「だから大黒天は、人助けの神様ともいえるわけです。だからというわけではないのだけど、私は研究に行き詰まった人を助ける仕事をしています。ここを使ってね」と大黒先生は頭をトントンと叩いて、いたずらっぽく笑った。
「大きな予算がついた研究プロジェクトだと、お金をとってきた教授たちにとってはプレッシャーが大きいんですよ。実績をあげてまた次の予算を取ろうと考えているのです。もちろんお金をポケットに入れたいということではありません。研究のための予算だからね。彼らのインセンティブは社会的名誉です。大きな仕事をしたという達成感もあるけれど段々と私的な情熱というものを忘れていってしまいます。みんな若いころは知識欲を満たすことをインセンティブにしていたんだけどね。
そんな彼らの仕事はお金を使うことなんです。その点はお役所と一緒です。お金を稼ぐのではなく、お金を使うのが仕事です。好き勝手に使うということではありませんよ。与えられた予算を上手に使って論文を生み出すということです。装置を買ったり、誰かを雇ったり。与えられた予算で業績を最大化する、まあ一種のゲームですね。
若い頃に面倒をみていた子が、中年に差し掛かると大きな予算を抱えて右往左往し始めます。彼らを見ていると胸が痛みます。自分で選んだキャリアだから仕方がないですけどね。いつでも辞められるわけだし。私のようにね」
大黒先生は話を中断し、テーブルの横を通りがかった若い店員に声をかけた。先生は「ケーキセット」と言ってから、じっくりと時間をかけてコーヒー豆とセットのケーキを選んだ。その間、ぼくは窓の外の景色を眺めていた。長袖のシャツを着たビジネスマンが、電話で話しながら早足で通り過ぎていった。街路樹の葉はまだしっかりと茂っていたが、柔らかくなった太陽の光のせいか、いくぶん色褪せているように思えた。
大黒先生は、キリマンジャロとモンブランケーキの組み合わせを頼んだ後、ぼくはブラジル豆のコーヒーとシフォンケーキのセットを頼んだ。ここに来るときはいつもこの組み合わせだから迷うことはない。
「予算をうまく使う上で大変なのは、優秀であるにも関わらず職にあぶれている若い研究者を見つけることです。大きい予算を抱えるようになると、本人はじっくりと研究に取り組む時間なんてもうありません。大人には色々ありますからね。大学にいる人々は、その色々をひとくくりにして雑用と呼びますが。大人がその雑用をしている間に、優秀な若手に研究を進めてもらう必要があるわけです。その若い人にはそれなりに高いハードルの仕事が課されます。新しい不慣れな職場で、研究という高度な専門性を要する業務を行うわけです。数年以内に成果を出さねばならないのですが、しばらくすると研究の難所で行き詰まって、思うように前に進まなくなります」
店員が「失礼します」と言って、フォークやミルクを運んできた。大黒先生は、その大学生くらいの店員に軽く微笑んでから話を続けた。
「私に声がかかるのはそういう時です。困っている彼らを助けてあげます。因幡の白兎を助けてあげるみたいにね。まず初めにあれこれ話を聴いてあげるんだけど、可哀想に真面目な彼らは肩に力が入ってカチコチになっています。だから最初はとにかく聴いてあげて心を開いてもらって泣き言やら愚痴やらを思う存分ぶちまけてもらいます。そうすると、彼ら自身も気づいていない難所が存在していることがわかります。私は、その部分に集中して短期間で解決してあげます。石油の採掘で、硬い岩盤の穴を空けるところだけを担当するようなものだね」
店員がキリマンジャロコーヒーとモンブランケーキをテーブルに置くのを横目で見ながら、先生は訥々と自分の仕事について説明した。
「あなたも何かに困って家庭教師を募集しているのかな?高校や大学に行かず、やり遂げたい研究テーマがあるということだけど」
モンブランケーキを口に運びながら先生は尋ねた。まるで喫茶店のベテラン店員が注文を取るような、自然で飾り気のない口調だった。教頭が女子生徒にはきはきと話しかける口調とは、まるで違っていた。
おかげでぼくも取り繕わずに、困っていることは特に無いが、父が心配して家庭教師をつけるよう言ったのだと正直に答えられた。
先生は「困っていることが無いのはとても良いことだね。では、約束の時間いっぱいまで、お互い好きなことをして過ごすことにしましょうか。和人君は雑談を好むタイプではなさそうだし」と言い、ぼくがうなずくのを待ってから、ノートパソコンを革鞄から取り出した。
「基本的にはお互い自由に過ごす。話しかけたい時は、お互いに遠慮なく話しかける。そういうルールでいいかな?」
先生はそう言ってからモニターに目をやってログイン・パスワードを入力するためにキーボードを叩いた。
もちろんぼくに異論は無かった。困ったことが起きない限り、放っておいてほしいと思っていたわけだから。
「困ったことがあれば、いつでも言って」先生はモニターを見ながら、独り言のようにつぶやいた。
こうして先生は、もう何年もコンビを組んでいる親友と一緒にテスト勉強をしているような、軽やかで親密な雰囲気を瞬く間に作り上げてしまった。
*
たしかにぼくは困っている。先生の言う通りだ。
母は死んでしまい父はボストンに行ってしまった。高校は辞めてしまったし定期的に発作に襲われる。
だが、ぼくはいったい何に困っているんだろうか。うまく言葉にできる自信がなかった。
母を亡くしたからか。父と離れて暮らしているからか。高校に馴染めないからか。不快な発作に悩まされているからか。どれも困ったことには違いないが、先生の言う『難所の硬い岩盤』では無い様に思えた。これらは、きっかけに過ぎないか単なる結果だと思った。
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