7. 柵で囲った完璧さ −ネコ科の大黒天− (1)

父は、研究とは自分自身と対話することだと答えた。

「自分の中に別の人格を持つ必要がある」とそのとき父は言った。

「俺が研究に没頭していた時、何をしていたか覚えているか?」

「大量の本や論文を積み上げて読み込んでいる時期と、大量の真っ白なコピー用紙にアイデアを書き連ねていく時期を交互に繰り返していたよね」

「なぜアイデアを書く必要があると思う?答えは二つある。」

「ひとつには計算するため、もうひとつはなんだろう?」ぼくは首を捻って考えたが、すぐにはわからなかった。

「人格を入れ替えるためだよ。アイデアを出す人格から批判する人格に入れ替わるんだ。頭の中を書き出すことは、人格を紙に複写することだ。ある人格の考えを複写してしまえば、その人格を保持している必要はない。別の人格を呼び出して、アイデアを批判させる。批判そのものがアイデアだから、批判を紙に書き出す。そして元の人格を呼び出して再批判させる。つまり真っ白な紙は、人格という情報を保存しておくメディアだ」

それを聞いた時、ぼくは自分も父と同じように研究ができるのではないかと思った。

だから、進路を決めるにあたっても、何とかなると漠然と思っていた。


頭ごなしのメッセージに驚いてから間もなくして、ぼくは高校に行かなくなった。発作のこともあったが、無意味なことに時間を費やすことに我慢ができなくなったという理由のほうが大きい。

高校に行かなくなって三日後に、担任の教師からの着信が残っていた。本当は保護者である父に連絡を取りたかったのだろうが、保護者の連絡先の欄にはでたらめな番号を書いて提出していた。担任の教師に電話で事情を説明することや、休むための事務的な手続きのようなものは億劫だったので、退学届のテンプレートをダウンロードして父の名前を書き込み、翌日に高校に持っていった。退学の理由は精神疾患のため通学が困難だと書いた。診断書は、医師の診断を受けた直後に学校に出してあった。

退学届を見た担任の教師は、職員室の隅にある来客用のソファーにぼくを座らせてから教頭のところに行き、これをどう処理すべきか相談しているようだった。戻ってきた担任の教師は、突然のことだしお父さんとも連絡がつかないので、しばらく様子を見るということを提案した。ぼくは、学校のについて考えること事態が症状に悪影響がある、医師も退学に合意していると言った。医師が合意しているというのは嘘だったが、進路について思案することがフラストレーションになっていることは事実だった。進路についての面倒事をさっさと終わらせたかった。担任の教師は再び教頭のところに行った。白髪交じりの頭に老眼鏡を乗せた初老の女教師は自席に座ったまま、担任と話をしていた。笑顔ではきはきと話すこの教師は、優しくて頼れるということで特に女子たちに人気だった。だが、職業的な笑顔を顔に貼り付けて、業務効率を意識して無駄を徹底して削いだ口調で話す彼女は、およそ教育に向いている人物とは思えなかった。父であれば、この女子生徒たちのことを間抜けと呼んだだろうし、教頭のことは、労働者の倫理に魂を征服された可哀想な人間だとみなすだろう。教頭と話し終えて早足で戻ってきた担任は、今月いっぱいこの退学届はいったん預かる、月末までは処理は進めないからその間であれば退学を取り消すことができると言った。そして「本当にお父さんは合意しているんだな?」と念を押した。ぼくは首を縦に振った。


退学届を出した後に思いがけず起こった発作を何とかやり過ごして足早に駅の改札をくぐり、京王井の頭線の各駅停車に乗り込んだぼくは、なるべく目立たないようにドアの隅のところに立ち、窓の外に顔を向けてから目をつぶった。生まれ育った町だったから、知り合いに会わないとも限らない。発作が起きているときに、誰かに話しかけられるのは嫌だった。ハンカチを握りしめ、時たま汗と涙を拭った。その姿勢で、永福町駅に到着するのをじっと待った。発作は悪化しないかわりに、終わる兆しもなかった。


家に帰り着いてソファーに腰を下ろして息を大きく吐き出すと、視野がさらに狭まり周囲にあるテーブルや戸棚が小さくなった。頭痛と動悸が遠のくかわりに、強い吐き気を感じた。ごつごつと節くれだった、マロニエの木のビジョンが見えた。ひどい発作で吐き気を感じる時には、なぜかこのビジョンを見た。小さい頃に読んだ小説では、主人公がマロニエの木をみて吐き気を感じていた。それを読んで以来、吐き気がすることとマロニエの木が、パブロフの犬のように意味もなく結びついているのだった。そのビジョンの中で、節のひとつひとつが個別性を主張していた。マロニエはその個別性を気に留めていなかった。個別性と全体性が往復していた。そのビジョンを見ているときは目を閉じていたが、その往復運動のせいでぐるぐると目が回った。その小説の中で、もうすぐ中年に差し掛かかろうとする年齢の主人公の男は、むき出しの概念とやらに哲学的な吐き気を感じているらしかった。なんと能天気な吐き気だろうと、ビジョンが見えるたびにぼくはその小説に腹を立てていた。こっちは親を亡くしたばかりの無職の少年がパニックの発作で苦しんでいるというのに。


しばらく頭を抱えて吐き気に耐えていると、下腹部のあたりで何かがずるりと音を立てて蠢いたのを感じた。それは太くて湿った蛇のような何かだった。次の瞬間、ぼくの首をめがけてそれが素早く這い上がってきた。脇の下から首に巻き付いてきたそれは、ぼくの太ももくらいの太さがあるようだった。それが不規則にずるりと動くたびに、全身に鳥肌がたち悪寒がした。それはぼくの精神の中枢を狙っているような気がした。精神をこいつに支配されてしまいそうで不安になった。明らかにこれまでの発作とは異質だった。ぼくは何もできず、ソファに身体をうずめて目をつぶり頭を抱えたままそれがいなくなるのを待った。身体はずっと小刻みに震えていた。


それから、それは毎日現れてぼくを支配しようとした。せっかく高校をやめて自由な時間ができたというのに、吐き気と悪寒を感じながら、能天気な中年の主人公が見たマロニエのビジョンを毎日見るはめになった。


それから一ヶ月ほどたつと、それが現れる頻度は自然と減っていった。いつもの発作は変わらずにぼくを不快にさせた。高校での退学の事務手続きが確実に終わるのを待つため、さらに一ヶ月してから、父に退学したと事後報告をした。


***


2.家庭教師を探す


退学したことを報告するメッセージを送った夜、父が通話アプリで連絡をくれた。向こうの早朝だ。起きてぼくのメッセージに気づいた後、すぐに連絡をくれたようだった。はじめに、父はぼくの近況を尋ねた。退学届を出してからしばらくは異質な発作があったが、今は落ち着いていて変わりはないと正直に答えた。それを聞き終えた父は、退学したことは了解した、お前が決めたことに意見を言うつもりはないと言った。

その後、実務的な話をした。生活費や住居などのことだ。父は、基本的に博士課程が修了する年齢までは金銭的支援をするし、家も自由に使って良いと言った。

その通話の最後に、家庭教師をつけることを父が提案した。少し考えてから、自分で選ぶことができるならば家庭教師を雇うと父に答えた。父はそれで良いと言った。それで通話は終わった。


家庭教師はツイッターで募集することにした。業者を通すと、大学の志望校と模試の成績に応じて、決まった教材を購入させられ、決まったスケジュール通りにその教材をこなすことになりかねない。ぼくは、会社組織の枠に収まらない人に来てほしかった。そういう人じゃないと信頼できないだろうと考えていた。

募集を出した初めのうちはまったく反応が無かった。仕方がないので、プロフィール欄に父の名前を書いて、その息子だと名乗った。すると毎日のように応募が来るようになった。


応募してくれた人とはダイレクトメッセージでやり取りし、相性が良さそうな何人かと音声通話で会話した。ほとんどの人は、自分のことを説明しようと一生懸命に話したが、できれば無口な人が良かった。口数が少なかった人とは、近所の喫茶店で会って話をした。だが、誰と会っても、良い関係が長続きしそうな相手だとは思えなかった。探していたのは、普段はぼくには一瞥もくれずに小説でも読んでいるが、実は目ざとく観察していて、異常を察知したら手を差し伸べてくれる、そんなタイプの人だった。このような人を探すのは難しいとは思っていたが、こういうタイプの人でないと長続きはしないだろうと思っていた。


募集を初めて一ヶ月ほどたち、妥協して採用のハードルを下げることを考えはじめたころ、オオグロと名乗る人からツイッターに連絡があった。プロフィール欄は空欄で、アカウントは作成されたばかりだった。ダイレクトメッセージには、自分はフリーの研究者であり、大きな大学や研究所から理論研究を請け負っているということと、これまでに関わった研究分野のリストが書いてあった。指導教員の代わりに学生の面倒をみることも頻繁にあるので、希望に叶うのではないかとも書いてあった。

必要にして十分な情報が事実に基づいて整理されている、世慣れた人が書くバランスの取れたメッセージだった。

オオグロ氏と音声通話で五分ほど話をした。ぼくの質問にオオグロ氏が簡潔に答えるだけのやり取りだった。人によってはぶっきらぼうな印象を持つかもしれないが、信頼できる人だとぼくには感じられた。ぼくらは、次の月曜の午後に会う約束をした。喫茶店の場所はよく知っているということだった。

両親とオオグロ氏の間に浅からぬ因縁があることを、このときのぼくは、まったく想像していなかった。



***


3.柵で囲った完璧さ−ネコ科の大黒天−


「こんにちは」

喫茶店のメニューから顔をあげると、グレーのスウェットを着た大黒様が立っていた。


オオグロ氏の顔は福々しい大黒様そのものだった。書道の大家が一筆で書いたような味わい深い垂れ目に下膨れした丸顔。その顔の横には、巨大な耳たぶが垂れ下がっている。頭には、大黒頭巾の代わりに、ざっくりと編まれたニットのベレー帽をかぶっていた。ベレー帽のベージュ色は、ゆるいパーマのかかった白髪交じりの髪の毛の色とよくマッチしていた。

そして、スウェットシャツの胸の部分には赤い文字でUCLAと大きな文字でプリントしてあった。七福神のイラストそのままの大黒様の顔と、アメリカの大学生がよく着ているカレッジ・スウェットシャツの組み合わせは、不思議とおさまりがよかった。


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