5. 脳天気なマロニエと下腹部に蠢く黒い蛇(1)

「彼らは信じるしかないじゃないか。ゲームのルールに疑問を持ち、足を一歩踏み出したなら、あっというまにその身体は落下し大地に叩きつけられて粉微塵になってしまう。かといって、何を信じたって良いという建前になっているのはどういうことだ。自由意志が保証されているという自意識はいったい何のためにあるんだ。ひとつの細胞に、細胞をやめる自由を与えたとして、それが何になるというのだ。細胞に、生命システムに跪く以外の選択肢があるというのか。我々が社会システムから離脱できるとでも言うのか。慈悲深い神はどこに隠れてしまったのか。神の慈愛に跪くだけで救われる宇宙をいったいいつ差し出してくれるのか」と言った。父はぼくのほうを向き直ると、肩をすくめて苦笑いを浮かべ首を振った。そしてコップを机に置き、椅子を引いて座り直した。

「言っておくが、現代の社会システムにおいては、テクノロジーやらイノベーションやらは格差を拡大する方向に働くからな。なぜなら、それらは拡大装置あるいは加速装置だからだ。現代人が格差の拡大を内包する社会システムを採用している限りにおいて、イノベーションは格差を拡大し加速する。だから、それらに携わることは、現代的奴隷制度の拡大に手を貸すってことだ。恐るべきは、イノベーションの実装に関わることが、格差の逆転に至る限られた道だということだよ。格差を逆転したければ、既存の社会システムを変化させねばならない。テクノロジーやイノベーションは、持たざるものが価値を転倒させられる数少ない道具だ。だから、持たざる者はイノベーションを実装することによって、富める者へと仲間入りする。そして彼がもたらしたイノベーションは、彼以降の格差を拡大する装置として機能する。なんという悪魔的逆説だろう。作り手に富という餌を与え、奴隷的社会構造を拡大するとはな」

父は、テーブルの上においてある薬箱のダイヤル・キーを回して開け、処方されている錠剤を決まった分量だけ取り出して、テーブルに置いた。薬箱を閉めると、またダイヤルをランダムに回転させた。

「格差の由来とは何か?」父は目を瞑り、小さな声で呟くようにして話しを続けた。

「格差の由来は認識だ。認識とは何か?認識とは違いを感知する能力だ。石は違いを認識しない。大きな石、小さな石、輝く石、くすんだ石。それは石による認識ではない。ヒトが付与したラベルだ。ヒトは石に様々なラベルを付与するが、石は違いを知らないし、同じであることも知らない。ヒトは人間の違いを認識する。明るい暗い、多い少ない、外向内向、善い悪い、豊かと貧しい、東と西、私とあなた。認識こそが人間に課された罰の本質だ。『人間には違いがある、だから、自由人と奴隷に別れて当然だ』『人間には違いがある、だから、身分制度があるのは当然だ』『人間には違いがある、だから、地獄に落ちる者もいる』。これらが古代的あるいは中世的な古びた価値観だと思う者全員が共犯者だ。しかし、近代の社会システムの根底にある倫理観は、この単純な命題に縛られたままだ。

『私はイノベーションをもたらした、だから、富が配分されるのは当然だ』

資本主義は、商売というゲームへの参加を強いる仕組みだ。そのゲームの得点の順番に物が配分される。参加しなければ配分されないから、参加しないと生存できない。ゲームの巧拙と富の配分の間は、歴史的経緯以外には何の因果関係はない。ただのルールだ。塁間の距離が27.431メートルであることと同じだ。しかし、我々はゲームで配分を決める以外の方法を知らない。スキージャンプやF1のルールを恣意的にいじくるようなこととはわけが違う。金稼ぎゲームは時間という悪魔が巧妙に設計したゲームだ。人類がいくらルールに手を入れても、悪魔から解放されることはなかった。

それはヒトという種の限界だ。金稼ぎゲームにおける限界は、ヒトは人間を評価できるほど賢くないことに由来する。制御するには観測せねばならない。だが、ヒトによる人間の観測結果は傲慢と偏見と保身のバイアスによって汚染されている。自分だけは、うちの子に限って、不完全な人間、呪われた民族。どれも理性主義者が人間を観測した結果だ・・・。

人間の心はこれらの原型で渦巻いている。『カウンセリング』をするとそれが見える。彼らは自分との距離が近い人間に対して、これらのどろどろとした汚い情念を想起させてしまう。兄弟姉妹、会社の上司、毎日モニター越しに見るあの顔この顔。その情念は自分に向けられたものでもあるわけだ。そして情念もヘドロとして溜まっていく。溜まったヘドロで心が重たくなっていく。湿地帯をゴム長靴で歩いていくような重い足取りで死に向かっていく。だからこそイエスは、身近な人間を愛せと警告したし、ゴータマは関係性の中にいる限り苦しみが永遠に続くと言った。個人のレベルで彼らの教えを達成できた者はいる。だが、社会システムという視点においては、違いが生む残虐さを調停できる制度はひとつも現れなかった。市場経済と統制経済のどちらだって同じことだ。市場経済は、金稼ぎゲームの得点の違いに応じて富が分配される。『金稼ぎゲームで高得点を得た、ならば、富が多く分配される』という命題は明らかに飛躍だ。ご都合主義だ。一方、統制経済の言う『公平な分配』とはいったい何のことだろう。『違い』のある人間たちを前にして、どういう配分をすれば公平なのか。『自分は特別』であることが近代の偉大なる成果だというのに」

ここで父は目を開け、コップの水と一緒に錠剤を飲みこんだ。そして上を向いたまままた目を瞑り「うまく眠ることができそうだ」と小さな声で言った。

「創世記の楽園喪失はまことに良く出来た寓話だよ。善悪の知識が与えられたと言うが、これは現代風に言えば差異の主観的判断を行う能力ということだ。すなわち知恵の実がヒトに人間としての認識を与えたわけだ。それからというもの、人類は普遍的な善悪を探し求めてきたが、いつも見つからなかった。絶対普遍な善悪など存在しないという回答に落胆するばかりだった。ではいったい、蛇の姿をした悪魔が人間に与えた認識とは何だったのか。それは主観的な価値判断を、普遍的な善悪だと取り違える能力だよ。これは実に悪魔的な手口だと思わないか。しれっとして、主観的な価値判断と絶対普遍の価値の違いを認識する能力は与えなかったあたりが。悪魔の狙い通り、この能力によって人間世界は善悪の対立する場所へと『進化』することになった。それが奴隷的労働を生んだ・・・。つまり、原罪によってもたらされた罰とはこういうものだ。調停できない差異の認識の積み重ねが、精神の芯の辺りに重くて臭いヘドロが堆積していくという罪・・・。それは人間の社会を芯から腐らせるヘドロだ・・・。

違いに対する人間の認知能力の限界は、例えばこういうことだ・・・。この部屋の壁を指差しながら『これは鉄筋コンクリートの建物である』と言える。だが『この部屋は建物でもある』という命題は誤っていると判断する。これは矛盾だ。部屋を指差して建物全体について語れるのに、部屋は建物ではないと言う。つまり、人間は部分と全体という概念を適切に運用できない。山とはどこまでが山なのだろうか・・・?この混乱は、自己について認識するときに顕著になる。『私はXである』と考えることに現代人は疑いを持たない。私とは何であるのか・・・」

父は気だるそうに椅子から立ち上がった。「俺がベッドに入るまで見ていてくれ。ベッドで飲まなきゃいけなかったのに」と言ってヨロヨロとあるき出した。ぼくは父の手を取って、寝室に連れていった。

歩きながら父は言った。

「ヘドロまみれのエリートはすぐわかる、愛すべき連中だ・・・奴隷制度の被害者たちだ・・・世界は愛で満たされているんだ。ブラームス・・・。クララ・シューマン・・・」

父をベッドに横にさせる時、父の枕の匂いがした。ぼくは父の頭を載せている枕の側面に顔をうずめ、しばらく匂いをかいでいた。


父は翌日にはうつ状態に落ち、終日ベッドから起き上がれなかった。その次の日にはベッドから起きて簡単な食事をしたが、リビングルームで何をするでもなくゴロゴロとしていた。次に躁転するまでその状態が続いた。


この後、父の躁鬱の波は徐々に小さくなり、半年後に波が消えた。「カウンセリング」の話をしてくれた時が波のピークだったことになる。波が消滅するのと前後してボストンの大学から父に声がかかり、すぐにボストンに移住した。中学生だったぼくは、日本に残った。特に迷わなかった。むしろ、一人になれるのは喜ばしかった。


波が消えた後の父が、母が死ぬ前の父に戻ったのか疑わしかった。実際、父が別の存在になったことを、ぼくは五年後に知ることになった。そのことをボストンで知る1ヶ月前に、ぼくは高校を辞めた。それは、以前の父がどこかに行ってしまったことを知る発端だった。







1. 脳天気なマロニエと、下腹部に蠢く黒い蛇


担任の教師は、禿げ始めている頭頂部に片手をおいてこちらを眺めていた。何かを言いたそうに見えたが、その何かは彼にもわからないようだった。ぼくはテーブルに置かれた退学届を横目で見ながら「失礼します。今までお世話になりました」と抑揚のない声でつぶやき、職員室の隅っこにある面談スペースの椅子から立ち上がった。職員室を出ると、できるだけ早足で正面玄関まで歩き、革靴に履き替えて外に出た。校門まで歩いたところで、室内履きを持ち帰らねばならないことに気づき、小走りで靴箱に戻って、室内履きを鞄にしまった。


その時までは、高校を辞めることなどたいしたことではないと思っていた。しかし、校門を出たあたりで足が震え出し、すぐに視野が狭くなって、世界が遠のいてしまうような感覚に陥った。何度経験しても、この感覚に慣れることはなかった。

母が死んで半年たって父の躁鬱がおさまるのと入れ違いに、ちょっとしたことで発作が起こるようになった。医師が言うには、軽度のパニック障害ということだった。医師は淡々と病名を伝え、治療法について簡潔な説明をした上で薬を処方した。その医師の要を得た説明からは、ありふれた症状に対処しているという印象を受けた。

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