4. 躁鬱患者の戯言 —精神的介護と現代の奴隷—(4)

この世界で俺たちが接する巨視的な存在は、ランダムな外乱に身を晒している——定量的に理解したければ差し当たりウィーナー過程だと考えれば十分だ——。すると、その巨視的な存在は外乱で身が抉られていく。ウィーナー過程なら、ある時刻における分散が時間と共に大きくなることで表現される。これは、物質的な存在だろうが観念的な存在だろうが同じことだ。データが半導体に蓄積されるように、観念的な存在は物質によって表現されているからな。心身二元論を信じたいやつはここで離脱してくれればいい。そうじゃない限り、あらゆる存在に対して、消滅に向かう圧力がかかるということだ。だから、存在し続けるためには存在するための必然的な理由がある。変化によって消滅が生じるのではない。消滅しないための何かによって、存在しているんだ。嘘だと思うなら、魚の切り身を買ってきてテーブルの上に放置してみることだな。

存在の必然的な理由を二種類提示しよう。それは、孤立することで存在する戦略と、入出力によって存在する戦略だ。

孤立する戦略は、物質的に安定な状態に由来する存在だ。相互作用が極小化された状態と解釈してもいい。どうせ俺が体力を消耗したいだけの乱暴な議論だ。都合よく解釈すればいいんだ。まさかお前、?河原に転がっている石は硬いし侵食されない。だから安定して存在できる。ラスコー洞窟の壁画は二万年近く存在し続けたが、一般公開されたとたん人間の吐く炭酸ガスの影響であっという間に劣化した。ウィーナー過程で言えば、単位時間あたりの移動幅が無視できるほど十分に小さいということだ。

もう一つの戦略は、入出力システムとして存在するという戦略だ。河川のような存在だ。川は、源流で水が入力され、河口で水が出力される。この入出力が河川の存在を必然たらしめている。河川と比べて、生命は入力や出力を自律的に行う傾向が強い。河川は、上流で水が堰き止められたら終了だ。猿は自分でバナナを探す。植物だって日光のある方向に伸びていく。シュレディンガーは、生命とは負のエントロピーを食べる存在だと言った。自由エネルギーを食べると言ったほうが、物理学者の好みに合うだろうと補足してあるが同じことだ。どちらにせよこの文脈では、俺はシュレディンガーと同じ見方をしている。俺なら食べるという言う代わりに捕食すると言いたいが。自律性が強調されるからな。もはやウィーナー過程でモデル化するのは不適切だ。オルンシュタイン-ウーレンベック過程で十分かな?わからんが、たぶん大丈夫だろう。

さあこの後者の戦略、存在し続けるために生命が採用している戦略を、お前ならなんと名付けるか?いま俺たちが話している文脈では、現代における奴隷的労働を念頭に置いていたわけだが。奴隷的労働の必要性のために、社会システムと生命の構造的な類似について話したし、生命はな活動で、つまり動き続けることによって存在する存在だとも言った。ならば我々は、この生命の戦略を労働戦略と名付けようじゃないか。存在し続けるために効果的に動き続けなければならない。シュレディンガーの観点から言えば、熱力学第二法則が奴隷的労働の根源的な由来というわけだ。俺たちが肉の塊である以上、効果的に動き続けなければあっという間に腐敗してしまう。放置した魚の切り身のようにだ」

父は息を吐いてからまたシンクに行き、今度はちゃんとコップに水を注ぎながら「奴隷労働者が哀れだ」と呟いた。そして立ったまま、空に住む我々の主に訴えるようにこう言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る