3. 躁鬱患者の戯言 —精神的介護と現代の奴隷—(3)

「現代で奴隷的労働を分配する手段は、金稼ぎゲームへの強制参加によってなされる。労働のインセンティブは、金稼ぎゲームでの得点──つまり金を稼ぐこと──だ。だから、現代的奴隷状態から解放されるには、労働せずにカネを稼ぐ以外に方法は無い。

驚くべきは、金稼ぎゲームが、まるであたかも参加者の幸福のために用意されているような体裁が、恣意的にではなく自然に整っているという点だ。金稼ぎゲームに大成功すると、得られた得点で追加の配分が得られる。追加の配分とは、生存していくのに十分な配分を越えた配分ということだ。その追加の配分は、すべて同じラベルが貼り付けられている。『私を入手すればもっと幸福になれます』というラベルだ。ポイントは、この追加の配分が奴隷的労働によって作られているということだ。

いいか、本来的には奴隷的労働は社会を維持するための労働だ。普通は衣食住や警察、病院、教育といった機能が奴隷的労働によって行われると考えるだろう。

しかしそうではない!我々の社会では!」

父は講釈師が扇でそうするように、手のひらで机を音を立てて叩いた。躁状態のときに机をひっぱたくと、手のひらの痺れが快感なのだそうだ。

「驚くべきことに、金稼ぎゲームを維持することそのものが、奴隷的労働によって行われるのだ!近代の社会において、ほとんどすべての奴隷的労働は、金稼ぎゲームの維持のために存在している!わかるか、この創発された狡猾さを?!奴隷的労働そのものが奴隷的労働を維持する構造を成立させるんだ!」

こう言うと、父はコップを傾け、喉を鳴らしてアイスティーを半分飲んだ。

「この狡猾さと同じ構造をした偉大なシステムがある。気づかないか?そんなわけない。間抜けにはわからないだろうが、お前にはわかるはずだ。この構造と類似した、誰もが知っている偉大なるシステムとは何か?少し考えてみろ」

ぼくはオレンジジュースを飲み、首をかしげて考えるふりをした。躁転した時の父は、ぼくの陳腐な返答なんて期待していない。問うことを通じてリズムを取っているだけだ。実際、ぼくが何も答えていないのに、父はさっきよりも強く手のひらで机を一度叩いて「そうだ!」と言って、何も答えていないぼくを指差した。

「そうだ!その通りだ!金稼ぎゲームの構造は生命システムそのものだ!

自らを維持し、拡大、増殖していくための仕組みが、安定した形で自身の中に狡猾に組み込まれているわけだから。多くの生物学者に広く認められている生命の定義とは、膜に包まれていること、恒常性の維持、そしてエラーを含む自己複製による進化だ。この観点では、金稼ぎゲームと生命の違いは膜の存在だけだ。なぜ生命は膜を持つのか?膜を持たないと物質的なシステムを維持できないからだ。だから膜は制約であって可能性ではない。ところがどうだ。金稼ぎゲームは膜を持たない。モジュールを一箇所に集積しなくて良い通信方法を採用しているからだ。

この違いが、金稼ぎゲームをより生命らしい生命システムにする。生命らしさとは予測可能性のことだろう?だから、膜の制約から自由な金稼ぎゲームは生命よりも生命らしい。紐に繋がれた振り子運動のように、制約による拘束は予測可能性をもたらす。言うまでもなく、生命は根源的には拘束された存在だ。

俺はいま、モジュールと言ったな。金稼ぎゲームにおいてモジュールとは何か。個々の人間、企業、メディア、政府機関、市場こういったものが金稼ぎゲームのモジュールだ。オブジェクト指向的に考えるならば、通貨や情報もモジュールだと考えても良いだろう。企業を生き物に例える?俺は嫌いだね。あんなに脆いシステムが生命だなんて。あれは多細胞生物にとってのひとつの細胞にすぎないよ。入れ替わることにこそ企業の本質があるといえるね。

こう考えると、実は金稼ぎゲームはもっと巨大な生命システムのモジュールだと気づくだろう。そう、金稼ぎゲームは社会のモジュールだ。どういうことかわかるか?

つまりだ、社会という大きな生命システムの中のひとつに、金稼ぎゲームという生命システムが包含されているということだよ。社会が細胞だとすれば、金稼ぎゲームは細胞小器官だ。

俺がこのことに気づいたのは『利己的遺伝子』の概念を知った時だ。小学校に入学したばかりの俺は、例のドーキンスの本で遺伝子中心主義的な進化論を知った。ドーキンスはこの概念の提唱者ではないが、結果的に広報担当者として極めて優秀な仕事をした。広報担当者によって書かれた本は世界中で絶賛されているようだったから、俺は期待して読んだ。だが、期待に反して俺にはたいして面白くなかった。六歳の子供にとって随分と重たいその本をテーブルに置き、はじめの数十ページを斜め読みした。慎重に読まねば騙されると思った。『進化の中心に遺伝子を置くべきという主張は仮説にすぎない。なぜなら自然選択は直接観測することができないから』と俺は考えたんだ。そして、広報担当者に騙されないよう、注意深く読み進めた。その本にはたくさんの事例がこれでもかと積み上げられていた。だからこそ、不利な事例が巧妙に隠されているのだろうと思った。科学者がこういう本を書くものなのだろうかと首を捻りながら読み進め、『とどのつまり、広義の表現型を遺伝子だけに帰することができるような特性については利己的遺伝子モデルで説明できる。それ以外はできない。それだけのことではないか?ただしランダムネスは除外する』と思って本を閉じた。遺伝的アルゴリズムに制御された情報システムであれば、利己的遺伝子は成立するだろう。遺伝的アルゴリズムの遺伝子をビールジョッキと呼ぶことにすれば、利己的ビールジョッキ理論が成立するだろう。『すべての人間は、生まれつき知ることを欲する』ことが、利己的遺伝子理論で説明できるかは、知を欲するという特性の表現型が遺伝子に帰するかどうかということだ。

『生命の特性』という曖昧な概念のすべてを、物質的な意味での狭義の遺伝子だけで説明するというのは、そもそも問の立て方が怪しいのではないか、六歳の俺はそう思った。複雑な現象を単純な因果関係に帰する誤謬を犯している。『成功したのは能力があったからだ』というたぐいの誤謬だと思われたんだ。

当時の俺は義侠心にあふれていたから——無垢な子供はみな義侠心にあふれている——、科学の皮をまとって一方的に自己主張をまくし立てている(ように思われた)本を読んで、あまり良い気分にはならなかった。それで、ちょっと捻ってやろうと思い立ち、利己的な遺伝子の代わりに、利己的な人間や企業や政府機関や教師やセレブの仲間入りをしたい科学者たちが進化の中心を担う、生命と同じ構造を持つ社会モデルを作ることにした。クソたちの利己心が駆動する社会モデルというわけだ。これは簡単だった。点、線、平面を椅子、机、ビアジョッキに置き換えるだけで機械的に新しい幾何学体系を作れるように、『利己的な遺伝子』の概念の置き換えだけでモデルはできた。利己心が社会を駆動する事例はいくらでも思いついた。周囲を見渡すと、確かに利己心よって駆動されているようだったからな。このモデルがほとんど模倣である点は不満だったが、生まれ落ちた社会への理解が進んだような心持ちがして満足だった。六歳児が鉛筆片手に一時間程度でできる簡単な作業の割には得るものは十分あったわけだ——この程度の作業をしているだけなのに大学教授におさまっている連中がわんさかいるんだと知るのは後のことだ——。その翌日、小学校で風景を写生する授業があった。スケッチブックを持って同級生と学校の中庭に座った。見えているものを見えているように書きましょう、描く対象は何でも構わないとその教師は言った。辛気臭い教室から外に出ると、雲ひとつ無い初夏の濃い青空が眩しかった。花を書く生徒、校舎を書く生徒、遠くに見えるビル群を書く生徒。様々だった。俺は、できたばかりの『利己的な人間が駆動する社会モデル』の図解をスケッチブックに書くことにした。真っ青な空を背景にして図解を描き、丁寧に解説も添えて提出した。題名は「社会」だった。

社会といえば、ヒトは生物学的には真社会性動物ではないが、現代の日本社会は実質的には真社会性に近づいている。固定された格差のもとで、不妊カーストが現れつつある。興味深い現象だ。

六歳の俺は利己的遺伝子モデルを一応はすらすらと理解できたわけだが、実はそれにはからくりがある。物心がついたときから、生き物を『存在が存在意義である存在』だと考えていたからだ。すべての生命は、生き続けたいという欲求に駆動されていることが本質だと、二歳か三歳くらいのときに考えていた。これは特に珍しいことではないと思う。死にたくないという恐れが、自分自身の本質なのだと、大人よりも子供のほうが切実に考えるからだ。死にたくない、ゆえに我あり。

だいたい、進化という語感が好きになれないよ。進むというと、良い方向への変化を連想しないか普通は?コピーミスを繰り返しながらただ存在し続けているだけなのに、進むというのはどういうことなんだろう?進という字には、変化という意味もあるのかね?生物は良い方向に進化していると無意識に勘違いしているやつもいるんじゃないか?系統樹の先にある種ほど高等な種だと思い込んでしまいそうだからな。ヒトって愉快だよな。どんな集合にでも順序関係を入れたがる。生物種に上下関係があると本気で信じられる」

父は肩をすくめて立ち上がり、アイスティーがまだ半分はいっているコップに蛇口の水を勢いよく注ぎ、それを一口飲んでから、残りをシンクに流した。父によると、躁状態のときは何となくそわそわして、何かをしたくなるんだそうだ。その行為に意味が無くて構わない。何かが達成されればそれで良いのだ。父は鼻歌を歌いながら「意味は無くたって良い、達成さえあれば良い」と繰り返し言った。シンクにコップを置いて戻ってきた父は「良い具合に疲れてきた」と言って椅子に座った。

「より根源的には『すべての存在は、存在する必然性がある存在』ということなんだ。それを俺がエリートに言うと、二種類存在するエリートのうち、稼げるエリートの全員が例外なく『当たり前だろう』という顔をした。なんて陳腐なことをと鼻で笑った。稼げないエリート——悲しい奴隷——の方は、口を開けてぽかんとした。さあ、お前はどちらだ?稼げないほうか?ならば説明してやろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る