2. 躁鬱患者の戯言 —精神的介護と現代の奴隷—(2)
「そうなんだ。アメリカの大学から教授になってくれと誘いがあってな。無職のこの俺を、トップエリートが通う大学の教授として雇いたいんだそうだ。誰もが知っているボストンのあの有名大学だ。こんなことで心がざわつくなんて、つくづく自分の俗物っぷりが嫌になるが、シンデレラストーリーの主役になるというのは、やはり特別な体験ではあるよ。これだけ躁状態に振りきれてしまうと、明日は逆にガクッと鬱に落ちるだろうな」と父は口元をピクピクと引きつらせながら、真っ赤に充血した目をこちらに向けて言った。
これだけ極端に躁状態に振り切れていても、結局のところ、父は常に適切な行動を取れるのだ。父の価値を真に理解したうえでのオファーは受けるべきだと父は知っている。自分の真の理解者からオファーがあった喜びのまま家を出たら、感情が振り切れてひと悶着起こすことを父は知っている。
だから父はいま、息子相手にぐったりとするまで話し続けている。
だいたい、双極性の症状が出てから1ヶ月と少ししか経っていないというのに、こんなトリッキーな方法で自分を制御できる父は、やはりぼくの手の届かない存在なのだ。当然、主治医は良い顔をしないだろう。こんなトリッキーな対処法がどんな結果を生むのか、現代の医学では予測できないだろうから。だが、父はわかっている。自分にとってはこれで良いのだと。帰納的に導かれた医者の一般論を父は無視しているわけではない。その一般論を踏み台にして、父は自分だけに有効な治療法を自分で見つけるのだ。大学という制度を知り抜いているからこそ、どのタイミングでどのカテゴリーの大学に就職すべきかを知っているのと同じことだ。
父は表情を変えずに「要はスタイルの問題なんだよ。数学は客観的で厳密な表現に使われるし、純文学とやらは心の内面を表現するらしい。俺にすがる連中は、科学的な言説というスタイルに安心するんだ」と言った。どうも、カウンセリングの話に戻ったらしい。躁状態のときの父は、ぼくの理解のスピードを気にせずに話を進めていった。話が飛躍しているように感じるのはぼくの理解力に問題があるからで、首尾一貫した論理展開があるに違いなかった。
「俺のこの話はどのスタイルにカテゴライズされると思う?社会学か?エスノグラフィか?もちろん違うな。俺は個々人の心にいちいち興味を寄せる趣味はない。興味があるのは普遍性だ。傾向や拘束条件といってもいいかもしれない。その意味で、俺の話は文学ともエスノグラフィとも違う。せいぜいが自己啓発書のたぐいだな」と言った。
決して体力に恵まれているほうではない父に徐々に疲れが見え始め、躁状態は落ち着きつつあるようだった。父はまだ話を続けたが、まるでツバメが鳴くように猛烈な早口でソプラノだった声色は、落ち着いた低いトーンに変わっていった。それと同時に、父の感情に鬱々としたものが混じり始めた。
「・・・俺は悲しい」
父は天井を見上げ、涙をこらえる仕草をした。
「・・・なぜならば、ほとんどの人間は、カネを生み出すことができないからだ。だから彼らは、そしてお前も、カネを生み出せる者に使役されることで明日のパンを買うカネを手に入れる。
彼らは知らない。この取引は悪魔との取引だってことを。正しい者は石をパンに変えることを拒んだはずだ。だが彼らは石をパンに変えられる者と契約し、パンを手に入れるんだ。石をパンに変えられる者、それが悪魔ではければ、なんなのだろう?
この石とは何であるか?悪魔がパンに変える石とは?言うまでもない。肉体だ。石とは哀れな者の肉体の
労働者は奴隷ではない?たしかに近代人は理性的な言明によって、その命題を真にする修辞法を知っている。だがギリシャを思い出してみろ。ギリシャ人はロゴスによって、ポリスの維持のための奴隷労働を正当化したではないか。いまでも哲学者は、アリストテレスの奴隷容認論をあーでもないこーでもないと言って、こねくり回している次第だ。本質的には、奴隷がないとポリスが回らないという、不都合な現実があるんだよ。そこを直視すれば、そんなところにとらわれないで前に進めるんだがな。
中には、人道的という基準で労働と奴隷制度を線引しようとする者もいるだろう。ならば問おうじゃないか。その基準は、単なる約束事であるに過ぎないのではないかと。古代ギリシャの市民は、人生の三分の一を労働に差し出すことを、徳のある人間のすることだとは言わないだろう。品性下劣な人道に悖る者の行いだと見下すだろう。アリストテレスに聞いてみたい。この現代の労働は人道的ですかってね。最高善を目指す者が労働をしていいですかって。
それとも、ギリシャ人が劣っているとでも言うかね?かの自由民の理性が、労働で疲れ切った現代人の理性よりも劣っているとでも?もしお前が人間は進歩するのだと思うのなら、こう問い直そうじゃないか。進歩した2500年後の人間に尋ねてみよ。彼らの教科書に労働がどのように書かれていますかとね。進歩した人間はこう答えるだろうよ。労働と奴隷制度の違いは、パートタイムとフルタイムの違いであるとね。労働とは、全員が奴隷になることによって全員がパートタイムの奴隷になった結果生まれた概念だと、千年後の歴史家は言うだろう——差し当たりは、建前を重んじて全員が奴隷になったと言っておこう——。もしお前が2500年前のギリシャの奴隷制度を蔑み冷笑するのなら、きっと2500年後のお前の子孫は、今の労働制度を見て同じように冷笑するんだろうな。
あるいは、公平性に訴えるかもしれない。ギリシャの不公平な奴隷制と比べて、現代の労働制度は公平で優れているとね。だが、よく考えろ。その問いは、そもそも間違った問いだ。現代はまったくもって公平な制度になっていない。カネを生み出す能力に幸運にも恵まれた者が、不幸にも恵まれなかった者を使役するのが現代だ。そう言うと、出世するほど忙しくなるじゃないか、うちの社長は一番働いているぞと寝ぼけたことを言う間抜けがいる。哀れなものだ。間抜けの目のつく所に、現代の自由人は姿を現さないんだよ。だって、自由人の存在が目については、労働が公平で人道的な制度であるという建前が崩れてしまうじゃないか。ギリシャは自由人の存在が制度として可視化されていた。現代は、自由人は存在しないことになっている。労働者になれという社会的圧力は、偶然じゃない。思惑があるんだ。
そして驚嘆すべきことに、この現代的奴隷制は年々洗練され、巧妙になっている。労働が好きなやつなんて、誰一人いないのに、だぜ?みんな、あっちでもこっちでも、もっと働こうとしている。違うか?金を貯めて自由になりたいと言っているやつ、どんどん仕事がしんどくなってないか?
労働という制度が、勝手に肥大化しているんだ。
お前、なんでこんなことが勝手に進んでいるのか、説明できるか?」
父はそう言ってから音を立ててアイスティーを飲んだ。一度は鬱に転じ始めていた父の心理状態は、再び躁に戻ったように思われた。まだ認知的な炎を燃やすエネルギーが残っていたのだ。眠るのにはまだ足りない。動けなくなるほどぐったりと疲れ果てることが、夜の安眠につながることを父は知っている。
「さて、ここで現代型の奴隷制度についてお前に教えてやろう。中学生のお前向けに健全かつファンシーなメタファーを使って説明してやるからな」
父はこう言って、意外な比喩で労働という仕組みを説明し始めた。
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