彼を笑わせたい

しほ

第1話 彼を笑わせたい



 放課後、青柳あおやぎちさは委員会の活動が終わり人気ひとけのない廊下を一人で歩いていた。吹奏楽の音色が風を伝い上の階から聞こえてくる。開け放たれた窓からはキャッチボールをする野球部が見えていた。


 小学生だった頃とは違い、低い声になった男子がちょっと大人に感じる。ちさは窓枠に近づき目をらした。六月の風は花の香りと始まりの予感を届けてくれる。


 彼はどこだろう。


 今年の春に初めて出会った彼、白川渚しらかわなぎさはちさが密かに想いをよせる男子だ。ちさとは別の小学校から来た子で野球部に入っている。明るくて、いつも給食をおかわりするところも好きだった。三カ月が経ち、ようやく緊張せずに話せるようになった。


(そっか、たしか突き指で部活を休むって言ってたっけ)


 ちさはなぎさを探すことを止め、カバンを取りに教室へ向かった。その時だ。渚が教室から出て来のだ。やはり練習を休んだようで制服のままだった。何か気の利いた言葉をかけたいと、あれこれ考えをめぐらせた。


(指まだ痛い?部活行けなくて残念だね……。どれもあまり気に入らない)


 話しかける言葉は決まらなかったが、どうしても話がしたい。その想いだけで歩幅は自然と大きくなっていた。


 しかし、ちさよりも先に渚の前に現れた女子がいたのだ。髪を肩まで伸ばしたスレンダー美人!


(えっこれって見ちゃいけないやつ?)


 渚は突然現れた他のクラスの女子と話をしている。背の高い渚と、もじもじとするスレンダー美人を見ていると、いかにもお似合いに見えてしょうがない。


 そして、ちさはとどめの一撃を受けた。


 渚が彼女から手紙を受け取ったのだ。ちさは二、三歩進んだ足を止め、呆然と立ち尽くしていた。二人の状況が理解できた今は教室になんて戻れない。むしろ、二人にばれずに消えてしまいたいぐらいだった。


 ゆっくりと向きを変えようと思った時、渚が一人でこちらへ向かって歩いて来た。ちさは急いで廊下の角を曲がり、直ぐ左手にあった教材室に逃げ込んだ。


 そこは移動黒板や美術の作品などがごちゃごちゃと置いてあり隠れるにはうってつけの場所だった。


 棚の奥に体を押し込み息を殺した。しかし、あろうことか渚はちさが隠れている教材室に入って来たのだ。


(なんで?私見られてたのかぁ)


 ちさの心臓は服の上からでも分かるほど大きく鼓動している。


 渚は教材室に入ると手探りでスイッチを押し、窓のない部屋に明かりをつけた。教室の半分ほどの小さな部屋には美術に使われる画材が乱雑に置かれ独特の匂いを放っている。


 渚は辺りを見回し座れそうな脚立きゃたつを見つけるとそこに腰をかけた。「フーッ」とため息のような息づかいが聞こえた後、封筒から手紙を出す音がする。


「ラブレターかぁ……」


 渚のがっかりするような声が聞こえた。これはもしかして告白を断るのではないかと淡い期待を抱いた。しかし、彼の独り言は続く。


「まあまあ可愛い方だし付き合ってもいいかな。スタイルも良かったしな」


 渚はそうつぶやくと心を決めたと見え、教材室を出て行った。


 何だろう。この胸のモヤモヤは……。


 ちさは一人残された部屋で自分の気持ちを整理しようとしていた。ちさは自分の好きだった渚に彼女ができるのが悔しいのではない。むしろ渚と付き合う彼女に同情する。


 予想もしていなかった渚の人間性にがっかりしたのだ。まぁまぁ可愛いからなんて。「まぁまぁ」と言った渚が嫌だった。ちさは先ほどまでの渚を想う気持ちに無理やりふたをした。


(もう決して渚くんを好きになりませんように)


 それにしても自分の今の状況に笑える。狭い棚の間に挟まっているのだ。胸が大きければここには入れなかっただろう。今日だけは胸が成長しないことに感謝をしなければならない。


 ちさは明りがついたままの教材室から早く出ようと凝り固まった体を動かした。


 何か変だ。


 まだちさの心をざわつかせるものがある。誰かの視線を強烈に感じるのだ。恐る恐る振り向くと、後ろの棚には十体ほどの人の頭部が並べられていた。


 悲鳴を上げそうになる自分の口を両手でふさいだ。もう既に頭では彫刻ちょうこくの作品だと理解できたのだが、体が反応してしまった。

 

 その作品たちは実に様々な表情をしている。笑顔や変顔の作品が多くある中、一つだけ伏し目がちな男性の作品に目が止まった。


 どことなくうれいを含んだ表情は知的でありながらも、悲しみが伝わってくる。今のちさには彼の雰囲気がとても心地よかった。


 太陽の様に眩しい笑顔も、底抜けに明るい変顔もいらなかった。


 ちさはたくさん並ぶ頭部の彫刻から物憂ものうげな彼だけを見つめ時を過ごした。しばらく見つめていると、彼が「またおいで」と言っている気がした。


(やっぱり私は失恋をしたんだ。私の心は傷ついている)


 彼を見ていると自分の気持ちに素直になれた。そして渚が美人な彼女を作ることも、ただのきっかけにすぎないと思えるようになったのだ。


 

 ちさは次の日も教材室の彼の前にいた。ほこりっぽく少し狭い棚の間で自分の心を解放した。次の日も、また次の日も、彼を見つめた。


 ちさは見つめ返されることのない彼を見ながら、この彫刻に恋をしてしまったようだ。


 彼のおかげで渚を忘れることができた。もし、彼を見つけていなかったらどうなっていたのだろう。粘土でできた彼はうれいを含んだまま笑うことはない。ある日ちさは決心した。


「私、美術部に入るね。あなたの笑った顔を作りたい」


 ちさは小声で彼に伝えた。


 彼は何も言わなかったが応援してくれるような気がした。そうしてちさは、夏休みに入る直前、美術部に入部した。


 基礎のデッサンや配色を学びながら彫刻ちょうこくについても独学で学んだ。顧問こもんの小林先生はこの道三十年のベテランの美術教師だった。ちさのやる気を認め、三年生になってから取り組む彫刻の指導もしてくれた。


 基礎は学んだ。あとは技術と感性の問題だ。三年生になったちさは、とうとう卒業制作の人間の頭部に挑戦することになった。


 モデルは友達でも自分でも誰でもいいことになっている。もちろんちさのモデルは教材室の彼だ。


 ちさを失恋から救ってくれただけでなく、美術への道を教えてくれたのだ。


 美術部に入ってからは修行のような毎日だった。恋愛をしていないかと言われればうそになる。やっぱりちさは教材室の彼が好きだった。


 あのうれいを含んだ表情も素敵だけれど、あの悲しい顔を笑わせる技術を自分は身につけるのだ。そんな想いに駆られ、毎日何かをデッサンし、その絵から声を聞き取った。


 不思議と描いていくうちに声が聞こえるようになってくる。その声をデッサンで紙に封じ込めた。きっと彫刻ちょうこくの作品もそうなのだろう。モデルとそっくりに作るだけではない。その人物の心情も彫刻で表すのだ。


 ちさが卒業制作で取り組むのは、木でできた心棒しんぼうに粘土を貼り付けて作る彫刻ちょうこくの中でも彫塑ちょうそと言われるものだ。


 デザインから考えると完成までに三カ月はかかる。他の生徒は友達の顔を見ながら作れるが、ちさの場合は違う。名も知らない彼の笑った顔を想像しなければならない。彼は何を見ると笑顔になるのだろう。


 それにしても、どうして彼はあんな顔をしているのか。照れ屋だったのだろうか?それとも何か悩みを抱えていたのだろうか?ちさは彼と出会ってから堂々巡どうどうめぐりを繰り返している。


 冬も近づいたある日、顧問こもんの小林先生に呼び出された。卒業制作が思うように進まないことで何か言われるのかとドキドキしながら職員室へ向かった。しかし、小林先生はあるパンフレットを持って待っていた。


「先生それは?」


 ちさはきょとんとしている。


「作品完成しそうかい?」


 やっぱりそのことかと、ちさは目を伏せた。先生はそんなちさの表情など気に留めずある高校の入学案内のパンフレットを見せた。


「ここを受験しなさい。君は教材室の彼の笑った顔を作りたいのだろう。じゃあここに行って学びなさい」


 先生はきっぱりと言った。


「でもその高校は私の今の成績じゃぎりぎりなんです」


 ちさも先生が勧めてくれた高校について知らないわけではない。美術部の活動が活発でとても有名な高校だった。


 煮え切らないちさを見て小林先生はちさを動かす一言を放った。


「もし合格したらあの作品をやる!」


「えっ、教材室の彼ですか?」


 ちさの心に火がついた。


「私受験します。絶対彼の頭が欲しです!」


 ちさの大きな声が職員室中に響き渡った。他の教師たちの視線がちさに刺さる。ちさは真っ赤な顔になり職員室を飛び出した。


 そして三月、小林先生からゲットした彼の頭を抱え、満開の桜の木の下でちさは微笑んでいる。何ともシュールな卒業写真だ。


 卒業制作の彫刻は完成したのだが、満足のいくものではなかった。高校に入って一から出直しだ。そんな夢と希望を抱き、ちさは美術部の入部希望届を持って職員室を尋ねた。


 高校の職員室は中学校と比べるととても広かった。


「美術部の顧問の先生はいらっしゃいますか?」


 入ってすぐに座る年配の女性に声をかけると彼女は立ち上がり、顧問の先生を探した。


「あっ、いるいる。窓際に座っている紺色のベストを着た若い男の先生よ」


「ありがとうございます」


 ちさはお礼をし、言われた方へ進んだ。その若い教師はパソコンに向かい真剣に仕事をしている。ちさは緊張気味に声をかけた。


「あの、一年の青柳あおやぎです。美術部の入部届を持ってきました」


「おっ、早いねぇ。青柳さん……か、ちささんだね!」


 先生は眼鏡を外し、ゆっくりとちさの方を見た。ちさは体に電流が走ったような感覚を覚えた。


「どうして私の名前を知っているんですか」


「父から聞いていたんだよ」


「父?」


 眼鏡を外した先生の顔は、幾度いくどとなく見つめてきた教材室の彼だった。あどけなさが無くなっているが、まぎれもなく彼だ!


「どう言うことですか、先生?」


 ちさは実際に動く彼を前にして色々な感情が湧き出して来た。


「よろしくね、青柳あおやぎちささん。彫刻について悩んでいると君の中学校の美術部顧問の先生から聞いていたよ。僕の父なんだけどね」


 小林和人かずとは春の日差しを浴びやわらかな笑顔を見せた。


「あっ、えっ、もう大丈夫です。きっと完成できます!」


 ちさは彼の笑顔を目に焼き付け、家に帰るとデッサンを始めた。その日ちさのデッサンをする手は止まることがなかった。

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彼を笑わせたい しほ @sihoho

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