第5話


 ◇ ◇ ◇ 七月 二九日 午後三時 三七分


 僕達は坊主頭の静止を無視して、神社を後にした。

 だが外は霧が深まり、視界が閉ざされている。

 全身に結露が浮かぶ程に寒いが、それよりも恐ろしいモノを見てしまった。

「アワナ君っ、船は間に合う。手荒なマネをしてでも乗せて貰うぞっ!」

「ぅん……わ、分かった」

「あぁクソ。軽く喋っただけで。何でこんな時間に」

 正午に訪れた筈だが、既に二時間が経過していた……だが夕暮れまで時間はある。

 僕らは長い階段を、必死に下り続けた。

 アワナ君は涙を流し、無言で僕に着いてくるばかりである。

「家に戻ったら、身支度を調えて逃げてっ警察に……そうだ、警察っ!」

 階段を下り終えた時、僕は警察に連絡を入れる発想に至る。

 このご時世、どんな田舎でも電波は通っている筈だ。

 何せ奴らが気づいたのは、テレビだと言ってたし……だが僕の期待は打ち砕かれた。

「圏外……だと?」

 あり得ない。人里において、何故携帯が使えないんだ!?

 まるでここが、人の世界じゃ無い様な……ありえない。

「先輩? どうしたの、行かなきゃ」

「え? あ、あぁっ。まずは港に行こう」

 僕を見上げるアワナ君の手を握り、僕らは通りを進む。

 既に精神が限界を迎えている彼女に、重荷を背負わせまいと僕は携帯電話を隠した。

 大通りまで行けば何とかなる。そう信じていたからだが……。

「大通りに人気が無い。無さ過ぎる」

「……ねぇ、先輩。少し気づいた事あるの」

「何だ、アワナ君? 今すぐじゃないとダメな事か?」

 白霧で覆われ、二軒先の家も見えない大通り。

 僕達は歩きながら、通り過ぎる家々の様子を探るが誰も居ない。

 霧の中に霧散した様に人気は無く、聞こえるのは波の音のみだ。

 そんな時、アワナ君が俯くと何かを呟きだした。

「ボクね。この島で若い人とか、子供しか見てないんだ」

「……いや漁師は。待て、中年より若い位か」

「うん。中年位の人って見た?」

 ……待て待て待て、止めろ。考えるな。

 僕の背後で風鈴が鮮やかに、冷たく鳴り響く。

「それにおじいさん、おばあさんってさ。さっきの人以外……居なかったよね」

 脳裏に氷が発生して、神経が焼き切れた。

 そう錯覚する程に、僕の全身に怖気が駆け巡る。

 吹き出す汗さえ引っ込み、最悪の状況だけが思い浮かんだ。

「走るぞっ! 港まで行くんだ、外界の誰かがいる港まで!!」

「待っ、そんなに早く走れないよ!」

「頼むっ。思いやってる場合じゃないんだっ!」

 街を横断する大通りを、必死に僕らは走った。

 街の店は無人で、家々の扉は開きっぱなしだ。

 誰も居ない、何の危険も無い大通りなのに。背後で鳴る風鈴の音色が迫ってくる。

 僕は何度も振り返りながら、遂に港まで辿り着けたが……。

「……なんで」

「先輩、後ろから人の足音が」

「何で、何でっ、何でっ!」

「先輩っ!! 逃げなきゃっ!!」

「何で船が一隻も無いんだぁああっ!?」

 辿り着いた場所。相変わらず不気味な港は、既に港では無かった。

 何も無いからだ。

 在るのは霧で覆われ、無限に続く緑海。寄せては返して埠頭にぶつかる波だけ。

 船なんて一隻も無く、遠い本土に辿り着く手段は無くなっていた。


 めんおう くとぅるん ららいや ちゃんるめんしゃん じしゅうだい

 

 めんおう くとぅるん ららいや ちゃんるめんしゃん じしゅうだい


 めんおう くとぅるん ららいや ちゃんるめんしゃん じしゅうだい


 僕の体を揺するアワナ君が、喉から振り絞る悲鳴をあげた。

 背後からは沢山、大勢の足音が近づいてくる。

 その度に、干魚の臭いを強めた半渇きの匂いも強まっていく。

「……あはは、あぁ。そういう事か」

 霧中に浮かび上がる、魚の如き輪郭。

 祭り囃子にも似た、邪教の祈り。

 嗅いだ事も無い強烈なアンモニア臭。

 大通り一面を覆い尽くす影が、僕らを囲んでいた。

「この島は人に化けた怪物共に、既に占拠されていたのか」

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