第11話


 ◇ ◇ ◇ 七月 一八日 午前一時 五九分


「はぁぁっ、はぁっ……はぁっ!」

 僕は片膝をついて背中にアワナ君を庇い、全身の怠気を息に載せて吐き出す。

 目の前には僕よりも一回りは大きい怪物が、無機質な瞳で睨んでくる。

 魚の表情なんて読めない僕には、この化物がなんて考えているか分からなかった。

 だが食おうという行為は、友好的ではないだろう。

「めんおう、くとぅるん……」

「……あん?」

 夜の海から響く様な低い唸り声がする。

 それが異形から発せられたと、気づくのに一拍かかった。

 そのまま異形は両手を空に広げると、満点の夜空を見上げて続ける。

「ららいや、ちゃんるめん……」

「死ねェッ!」

 僕から視線を外した異形。その腹にめがけて、拾った流木で殴りつける!

 何故、そんな事をしたかは分からない。だが殺さねばならないと頭の中で声が響くのだ。

 流木の一撃は、腰が引けていた為に僅かに当たらなかった。

「んごぐ、ぢぅはぃだぁ!!」

「~~ッ!」

 その瞬間、異形が歯と目を剥き出しにして絶叫をあげるっ!

 僕の顔に唾液と体液が撒き散り、怯んでしまうと異形に掴まった。

「腐れ魚風情がぁ、手を離せェ!」

「いぁっ! いぃぁアッ!」

 魚鱗特有のザラつく感触が被さり、気色悪さで背筋に寒気が走る。

 だがそれ以上に恐ろしいのは、死体安置所を思わせる腐臭漂う大口だった。

 びっしりと並ぶ牙は人間の指位なら、簡単に切り飛ばす事が出来るだろう。

 僕は牙から逃れようと藻掻が、ビクともせず……遂に顎が僕の肩口に齧りつく!

「痛ッ、ッつぅ!?」

「ブゥォオオオオ!!」

 まな板の上の魚が包丁で両断された時の音が、僕の肩から聞こえた。

 続いて骨の奥まで響く衝撃と激痛が、僕の全身を駆け巡るっ!

 えづく様な血肉の匂いが噴き出し、肩口から血が抜けて行く。

「魚風情がッ……相倉家長男であるこの僕ぉ、舐めるなぁ!」

 体内で骨が軋み、位置がズレた気がする。

 僕は口から血泡が漏れ、痛みで視界に火花が散る中……手刀を放った。

 狙うは異形のエラ……その剥き出しの喉袋をえぐり取ってやるっ!!

「ゥオオンッ!!」

 だが異形に気づかれたのか、否か。またしても僕の殺意は届かない。

 何にせよ僕は地面に引きずり倒され、異形にのしかかられた。

 奴の肌は海水より冷たく、僕は出血も相まって体温と意識が遠退いていく。

「ルッ、ウッ、ゥッ、ゥッ、ゥッ」

「んぐぁっ、ぁっ、あっ!」

 異形の牙が鼻先でカチカチと噛み合い、激しく鳴る。

 僕は奴の顎下に流木を差し入れ、牙から逃れようと藻掻くが……ダメだっ!

 体格で負けている。こんな化物を抑え込めないっ!

「クゥ、ソぉォオオオオッ!」

「ぢぅはぃだぁ!! ぢぅはぃだぁ!! くとぅるん!!!」

 僕の血液と奴の口から零れる涎が、顔一面にかかる。

 僕は奴の体を抑えきれず、徐々に押し込まれ……。

「先輩ィッ」

 その瞬間、視界の隅で真っ暗な夜空に一つの閃きが瞬いた。

 ホチキスで紙を止めた様な音が僕の耳を叩き……。

「ィイイッ!?」

「ッ、ォオッ!!」

 異形の生々しい魚眼。その縁から、赤白い泡が噴き出す!

 奴の両目から肉が潰れる気色悪い音が断続的に鳴り、異形が激しく跳ねあがる!

「ヴォォオオ雄雄雄ォッ!!!」

 痙攣をおこす異形に、何があったのか。

 だが奴の押し潰す力が弱まった好機を、逃す訳には行かないっ!

 僕は全身に力を入れ、丸太が転がる様に坂道を転がる。

 押し潰されていた僕の体は、異形にマウントを取る形になり……。

「地獄で爺様に食い殺されろォオッ!!」

 右手に持った流木で、怪物の頭を遠慮無しに殴りつけるっ!

 休むつもりも疲れも忘れて、二発目を振り下ろすっ!

 異形が響く様な悲鳴をあげていた気もするが、全く気にならない。

 僕は両手に掴んだ流木を、杭に見立てて何度も振り下ろす。

 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

 気付けば僕はその光景を、天上から眺めていた。

 下に居る僕は口が裂けんばかりに開き、髪の毛を逆立て。異形を流木で潰している。

 その顔も、声も、瞳も。既に僕の姿は……狂人以外には見えなかった。

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